王子様の秘密の家
あれほど私に怯えていたはずの王子が、私の手を取って使用人たちの目から逃れようと駆け出すなんて。
「今から行くところは声が響くから、あまり声や音を出さないように。」という王子の言いつけを守り、薄暗い石のトンネルを歩く。
ちょっとじめっとした空間に、さあっと新しい風が吹き抜けて、風の中に花の香りを微かに感じる。
その風に気づいた私は先を歩く王子の先へ目を凝らす。
小さな光だったそれが近づくにつれ、花の香りが強くなった。
トンネルを終えると、花の生垣が壁のように目の前にそり立っている。
戸惑っていると王子が手を引いて、楽しげな声で先を走る。
とはいえ、エリーはドレスだ。男子の脚とは同等に走れず、踏み外して転びかけてしまった。
「ひゃっ」
すると王子は、ハッとして振り返り、エリーの身体を慌てて支えた。
「ごめん、無理させてしまって。」
肩と腰に手を回されたエリーは、態勢をこれ以上崩したくない本能で自然と王子の肩に手が伸び、しがみついていた。
いきなりドアップになった王子と目が合ったエリーは、薄井幸子35歳の経験値という記憶も当てにならない動揺を覚えた。
勿論、これ以上ないだろうと思われる非常に整った顔立ちであることは確かだ。
けれど、そんなことだけではこれほどの動揺を覚えるのだろうか。
急に動悸を感じるし、身体が熱いし、雷が落ちたかのような衝撃で目先が真っ白になったし、…何も考えられない。
いや、これは病気の前兆?
「どうした?…もしかして、どこか怪我をしたんじゃっ」
「いいえ、違うのよ!大丈夫!!」
酷く心配そうに顔を覗き込んでくる王子に、エリーはやめてくれと言いそうになった。
これ以上は、体に悪い。気を失ってしまいそう。
エリーは、必死に頭を回して、言い繕う。
「ひ、久しぶりに転びかけてしまったので、驚いたのと、…恥ずかしいだけですわ!」
「そうなのか?」
「ええ!」
嘘である。久しぶりどころではない。階段から落ちて薄井幸子35歳の人生だけでなく、この世界がアニメであることまでも思い出したのだから。
いっそ知りたくなかった。
「もう、大丈夫そう?」
「ええ、もちろん!」
「よし、行こう。」
身体が離れて、人心地ついたはずなのに、繋がれた手に熱が集中しているような気がしてエリーは眩暈がした。
そんなエリーの心境も訳知らず、右に曲がったり、潜ったり。
「ここも迷路になってるんだ。・・・さ、ここだよ。もう普通に喋っても大丈夫だ。」
深い木々が密集して、巣のような塊がある。
「これは?木の根の塊?」
「そう見えるよね。でも違うんだ。ここはあまり人がこないから手入れが届いていない。だから、大きな石のアーチに、なんらかの理由で木の枝が絡みついているだけなんだ。見て。」
と、彼が指さした方を見ると、木材で出来た扉が設置されてある。
「まあ!中に入れるの?」
「そうだよ。来て」
王子に手を引かれ、ついていく。
扉をギイと開くと、中は人が生活できそうなほどに整っている。
どれを取っても子供用だから小さいけれど、誰もが幼いころには夢を見るようなミニチュアハウスを現実に目にしているかのようだ。
「とっても素敵…。ここは?」
「俺の秘密の家だよ。雨の日には守るのが大変だけど、他の木々が避けてくれるし割と平気だよ。土がぬかるんで遊べないけどね。俺にとっては大事な所なんだ。」
エリーはまたしても驚いた。そんな大事な所に、煩わしい婚約者(仮)を連れてくるなんて。
「どうして、そんな大事なところに私を?」
「『同じものでも何を想うのか誰かの目を通して見てみたい。』…さっき話ていて思ったんだ。もし君にここを見せたら、どう思うんだろうと俺も知りたくなった。」
「どうって…もう!本当にすっごく素敵!小さな妖精たちが暮らしていそうだわ!どうやったらこんな風に作れるの?どうして作ったの?どれもこれも、可愛い!」
ガラスをはめ込んだ窓の前に、小さなソファーとカフェテーブルが置いてある。
見渡すと小さなキッチンテーブルや煙突を外に突き出して暖炉までもある。燭台の前に蝋燭が置いてあるので、光が必要なときはそれを灯すのだろう。
窓から木々の隙間から洩れる光が照らし、幻想的な雰囲気だ。本当に妖精も住んでいるかもしれない。
そんな空間に気を取られているエリーは、さきほどまでの動揺も吹き飛んでいた。
「気に入ってくれたみたいだね。」
「すっごく!初めて会ったばかりの私を連れて来てくれるなんて、嬉しいわ。ありがとう!」
「・・・喜んでもらえて良かったよ。少しでも詫びたかったし。」
そうか。睨んだり口を噤んで無視したり、そんな険呑な空気で威圧しようとしていたことを悔いて、言葉で詫びるだけでなく、こんなに素敵で大事な部屋を見せてくれたのか。
私からしたら、さっきの言葉でもう十分なくらいだったのだが。
エリーは嬉しくなった。
なんだかんだで薄幸な境遇だった幸子の影響もそれほど強くはないのかもしれない。そんな風に想えるほどに穏やかな気持ちだ。
いや、待て待て待て。
今目の前にいる王子の継母。彼女こそ私が避けたい重要人物なのかもしれないのだ。思い出しきれていない話しがある以上、断定はできない。幸子から得られる情報は限りなく少ないからこそ慎重であらねばなるまい。
それにこんな空間を作れる王子だからと婚約しても良いかな、なんてことにはならないのだ。
16歳の運命の分かれ道が来る前に、私は戦線離脱したいのが本音だ。いずれ彼の前にはキャサリンが現れ、真実の愛に出逢うことになるのだから、私には平穏無事な人生があってもいいだろう。
ハタと気づく。
彼らとの縁を切ったところで、エリーとしての人生が平穏だけで終わるなんてことはない。
人は多かれ少なかれ、大なり小なりの苦しみや悲しみを経験していくものだ。それに耐えうるような自分だけの幸せや大切な何かに支えられて生きていく。…幸子にはなかったが、彼女だって未来に望みを託していた。
最初から分かっている不幸のシナリオ通りに進みたいわけがないが…どこまで物語の改変が出来るのだろう。そもそも物語も分からないのに。
ぼんやりとしていると、王子はそのソファに腰を下ろし、エリーにも勧めた。
「ここを見つけたのは一年前さ。城での生活が苦しくて堪らなくて、今日みたいに使用人の目から逃れてさ迷っていたんだ。とは言っても、敷地内だけどね。そうこうしているうちにさっきの道を見つけて、ここを見つけた。」
一年前。そのころ私は調度、度重なる怪我や行ってもいないお茶会で苛めを働いただのと醜聞を撒かれたりの不幸が続き、これって前世の影響なのかと悩んだものだ。その時、王子もまた何かで悩んでいたのか。
「入口になりそうな小さな穴を見つけて入ってみて、この空間に出会ったんだ。それから少しずつ物を持ち寄ってキャンプみたいにして、今よりも簡素だったんだよ。でもこだわっているうちにこうなった。ここにいる間だけは城の喧騒からも逃れられる。聞こえるのは鳥の囀りと風の音だけ。」
耳を澄ます。
確かにここは澄んだ空気と、自然の音楽だけが満ちている。
「落ち着ける場所があるって、貴重だろ?」
「ええ、分かるわ。私もそんな場所が欲しいって思っていたところだったから。」
そのためには貴方との婚約を破棄したいのだが。
親たちはもう決定事項として今後の方針を固めているところだろう。もはや回避する道はない。最初からなかったのかもしれないが。
「あの、王子殿下。」
「・・・レオンで良い。俺もエリーと呼ぶから。」
「れ、レオン様…。お聞きしたことがあるんですが…。」
思い切って切り出すしかないだろう。婚約についてどう思っているのか、どうしたいと思うのか。
なんだ?と言うレオンの顔をじっと見て、エリーは言った。
「私との婚約をレオン様はどう思っておりますの?」
「・・・あ、ああ、そのことか。」
そう言うとしばし悩んだレオンは申し訳なさそうな顔で切り出す。
「正直なことを言うと、王子として早々と婚約させられることは不精ながら覚悟はしていた。…だが、やはり嫌だと思っていたのだ。それも他国の姫を娶れという命令でもなく、先祖の恩だ約束だとかで結婚なんて、この国の利益にもなるわけでもないのに、何を言っているのかと。王族同士の身分でなく、貴族階級から選んでいいなら、自分で選びたいとも思った。」
なんて正直な王子なんだろう。こうも喋ってくれるとは思ってもいなかったのでエリーはわずかにポカンとしていた。
いずれは貴族階級を持たない女性を愛するようになり、その人の手を取る日が来ますよ。と思ったが、口には出さない。
「だから、さっきまでの態度はエリーのことが気に入らないから取っていた態度ではないんだ。…国王の判断や自由のなさの苛立ちが表立っていた。幼稚なことだったと思う。でも、それでエリーが結婚を嫌だと言ってくれたら良いとも考えていた。浅はかだったよ…。」
いやいや、浅はかでもなんでもいいから王子の口から婚約拒否していただきたいほどです。いくら箝口令が敷かれても人の口に戸は立てられない。もう既に噂となって駆け出しているだろうが、公式に発表されていない今なら私の体裁的にも有り難い!
言ってしまえば婚約破棄なんて互いに体裁的に良いイメージになることはない。
王子であれば、その身分で守られているが、貴族とはいえ王族からしたら身分下の私が王子から破棄された女と醜聞になり良い縁談はなくなり、かと言って自ら破棄を申し立てたら、身分の低い女風情が一国の王太子を袖にするなど何様だと叩かれるだろう。
比較してまだマシなのは王子からの破棄だ。良い縁談が僅かになったほうが、何様悪魔になるよりはいい。
「私の口から嫌だなんて言えませんわ。でも、…私も同じような考えでした。王太子殿下の婚約者で、未来の王妃候補だなんて私には立派に務めを果たす自信はありませんし、平凡な幸せを追い求めたいと。ですから、王子様のほうから婚約を拒否してくださればいいと思っていたのです。・・・もし、今も同じ考えであるなら二人で直談判してなんとか方向転換できたらいいと。」
するとレオンはちょっとだけ傷ついたように笑って、俯く。
「…エリーが本当に嫌ならそうしよう。でも俺の今の気持ちは違うんだ。…恋愛感情ではないけど、エリーとこうしてこれからも過ごしてみたいと、…良い友人になれるんじゃないかと、思ってしまっているんだ。」
俯くレオンの横顔を見ていて、なんだかすごく悪いことをしたような気分になった。
ああ、もう。
16歳になったら私を捨てる人なのに、なんでこんなに罪悪感で苦しむ必要があるの?
「…わ、私もレオン様と友人になれるかもしれないと思っていました。婚約とか結婚とか…今はまだ想像もできませんけど、仲良くなれたら、と。私…レオン様と喜びも悩みも共有できるような友人になりたいですわ。」
レオンはじっとエリーの顔を見て、そしてゆっくりと笑顔になった。
「ならば婚約破棄は先送り、ということで良いか?」
私の甘さが招いたこととは言え、やはり婚約は絶対に避けられない既定路線に立っているのかもしれない。
せめて何か、『私は敵にはなりませんからどうか穏便に』と示したい。
「…え、ええっと…そうだわ!もし私かレオン様のどちらかに、本当に愛する方が現れたときには婚約を破棄することをお互いに約束いたしません?」
「また約束、か。…まあ、良い。約束しよう。お互い恨みっこ無しってことだな。」
「ええ!」
レオンはくすりと笑って、言った。
「またここに一緒に来る?」
「勿論ですわ!今度はピクニックみたいにご馳走を用意して来たいわ!」
これは本心だ。こんなに素敵な妖精の家で食事や読書などをしてみたい。
そう言うと、レオンは頷いて、楽しみだと言った。
それからエリーはレオンと頻繁に会うようになった。
時にはピクニックをしたり、妖精の家でのんびり過ごしたり、乗馬で散策したり。
両家の父たちと、エリーの母は喜んだ。婚約者同士、仲睦まじい様子で語り合っている。幸先の良いスタートを切れたと特にエリーの父はホッと胸を撫で下ろした。
けれど、それとはまったくの意見で苦々しい想いでそれを見つめている人がいた。
レオンの義母で王妃、リリーである。




