絵梨と玲央、芽生え始めたふたりの想い。
ダンテがついに辿り着いた美少女宅で意識を失ったころ、エリーはと言えば絵梨のデート現場をぼんやりと見守っていた。
激しい戸惑いを見せる絵梨をものともせず、あちこち連れ回している玲央。
呆然自失といった風体で現れ、玲央の顔を見るなりギョッとした絵梨の表情にr玲央が腹を抱えて笑った初デートの日には、適当にドライブをしようと言った玲央につられて頷けば、知らず隣の県にまで走っていたし、その次のデートでは動物園を見て回った後、何故か高級ホテルのレストランに行くからとドレスコード用にブティックに連れていかれたりもした。
言ってくれればドレスアップしてきたのにと頬を膨らます絵梨に、玲央は悪戯っぽい笑みを浮かべてこうでもしないと、プレゼントなんて受け取ってくれないだろと絵梨の頭をくしゃくしゃと撫でたこともあった。
よもや背後霊のごとくついていくエリーもまた、目を回していた。
そして同時に、エリーは妙な違和感に気づいて、落ち着かない心地でいた。
この世界が幸子が生きていた世界なのか分からないでいたが、絵梨が歩き玲央が連れていく風景は見たことがあるものばかりだったのだ。もちろん、前世幸子のときにだが。
親から逃げ、不幸体質からも逃げるように仕事以外の日々を家のなかで過ごしていたことで幸子が実際に目にした風景というものは限りがある。
同じように絵梨が生きている舞台は、同じ世界でもご令嬢という立場があるためか、彼女の行動範囲だけでは限りがあるため分からなかったことだ。
見たことがある、としてもそれは本屋でふと目にとめた旅行雑誌や、ぼんやり流したテレビだったりと幸子自身の目を通して見た景色ではないからこそ、ぼんやりとしたものではあるが。
それでも、エリーにとっては一歩前進した感覚だった。
何も知らないよりはずっとマシ。知っていると思える景色があるということは、もしかしたら「此処」は幸子の世界と同じかもしれないということなのだから。
パラレルワールドなどのことを考えると、一概には言えないけれどそこは考えても断定できない。
ふいに此処にジュリアンさまがいればすぐに解決策が見つかるのだろうかとエリーの脳裏に過る。
すっと視線が玲央に向く。エリーの胸をちくりと刺すのは、レオンの顔で。
目まぐるしい行動に目を回した絵梨が何故か連れて来られた海を前に、隣に座った玲央へと遠慮がちに声を掛ける。
「玲央さまの行動はいつも突拍子もなくて、驚いてばかりですわ。」
「突拍子もなかったかな。そうか、ごめん。…分からなかったから。」
ふと隣からモジモジした空気を感じた絵梨は、玲央ほうに顔を向けると白い肌を僅かに上気させた玲央が照れ臭そうに頬を掻く。
「と、いいますと?」
「……ないんだよ。デートなんて、したことないんだ。だから、どういったことがデートなのか、分からないからとりあえず有名どころを思いつくままに連れていったんだが…嫌だったか?」
「いいえ、その…驚いただけで、別に嫌だなんて思ってはいませんわ。私だけでは知ることのなかった景色を見ることができている。…海だって綺麗で、それに落ち着きますもの。」
それは本心ではあった。どこに連れていかれようと、絵梨にとって一番の驚き所といえば、何故玲央が婚約破棄を申し立てずにデートなどと自分を連れ出すのか、そのことに尽きるからだ。
どこに引っ張り回されても、その一番の驚きどころには敵わないだろう。
しばらくの無言ののち、隣に座っていた玲央が立ち上がった。
「君は驚かないの?…俺がデートしたことないってこと。信じてくれるの?」
どこか不安げな声に聞こえて、たまらず絵梨は玲央を見上げる。
「なぜ、そのようなことを気になさるの?」
「俺と初めて会ったときだって、俺の周りにはいつも、俺の一挙手一投足を審査しては奇声をあげる女性がたくさんいた。会うたびに、知らない女性たちからまでも囲まれたことだってあっただろう。それなのに、デートもしたことないなんて誰が信じる?」
そこにどこか痛みを伴い感情が籠っている気がして、絵梨は返答に困る。
何かどこかで誰かと、トラウマになるようなドラマがあったのだろうか。
「……デートなら、私もしたことなどありませんから。あまりイメージが湧かないというか…お付き合いされていた女性もいないということですか?」
「そうだよ。もちろん、過去に好きな女性はいたのだけどね。」
その言葉を聞いた瞬間、絵梨の胸にチクリと痛みが走る。
自分の突然の感情の起伏に、怯えそうになった絵梨は思わず胸に手を置いた。
「その女性とは、どうされたのですか?」
「告白したさ。けど振られて、…その時はひどく悲しかったね。」
「もしかして…その方に、信じて頂けなかったから、今も悲しそうなんですか?」
ポロリと零れた絵梨の言葉に、玲央が息を止める。
「…ごめんなさい。嫌な事かもしれないのに、掘り返すみたいなことを…。」
「いや、その通りだ。」
ますます申し訳なさに身が竦む絵梨に構うことなく玲央はポツリとポツリと振り返る。
「俺が彼女への想いを伝えたところで、遊びの一環で彼女を弄ぶだけの余興だと思われたらしい。仕方ないさ。俺が望むも望まないも関係なく、俺の周りには女性が沢山寄ってくる。そういった女性たちの間で諍いも絶えなかったようだし、知っていても俺は放置していた。だから彼女もまたその標的にされただろうからね。結果として…これで良かったんだ。」
滲む彼女への想いに、絵梨は誰とも知らない彼の想い人に、八つ当たりしたい気分になった。
これが嫉妬というものだろうか。
「……お優しいんですね。…でも、その彼女だって本当に貴方を軽薄と思い込んでいたわけではないのかもしれませんよ?…女性は敏感で鋭いんです。もしあなたのいう女性たちが貴方の心を見透かして彼女への想いに気づいていたとしたら、その嫉妬心を怒りに変えて彼女に向けていたかもしれないじゃないですか。」
「すでに被害に遭っていたかもしれないということか?」
「憶測です。でも、あなたは女性たちの間で諍いがあったことに気づいておられた。自分を巡る女性たちへのあなたの想いは分からないけれど、彼女たちの間で何が起こっていたのか把握されているのは凄い事です。そして彼女たちの強い想いが引き起こす懸念事項の想定まで。そこまで考えられる男性はそう多くないと思います。気づかないで、振られて、想い人を恨む人だっているのです。好きな人を憎むことだってできた。でも、あなたは違う。…すごいことですよ。」
「………あ、ありがとう。励ましてくれて、彼女の本心は分からないにしろ、君がそう言うなら、そうなのかもしれないと思えてくる。……過去のことだけれど、少しは報われるような気持ちだ。」
「そうですか……。」
降りた沈黙は、どこか気恥ずかしいもので絵梨は何か喋るべきなのかとチラチラと玲央の背中を盗み見る。
そんな彼の背中がゆっくりと遠ざかる。
階段を一段一段降りていく様に絵梨は見惚れた。長い足を優雅に裁き、まるで野生の豹のようにさえ思える。
そんな玲央が、地平線の向こうに落ちていく夕陽を手で仰ぎ見ながら、つぶやいた。
「不思議だといつも思うんだ。このどこまでもつづく海を見ていると。」
「どうして?」
「これほど広くて陸のように区切りがない。途方もなく大きくて…自由なはずの海の上を走りまわる生業を父は興した。大きな夢と繁栄を目指して叶えた。それを継ぐ者として生まれた自分と言えば、この海に縛られているようにしか思えない。やりたいものとは違うことを義務付けられる舞台が、この海だなんて皮肉じゃないか。」
釣られるように絵梨は立ち上がり、同じように今に海の底へと飲み込まれそうな夕陽を見つめる。
「……他にやりたいことが、おありだったんですか?」
乾いた笑いが漏れ聞こえる。
「そうだね、ずーっと昔にね。だから、君がこのまえ夢があると言い切って、すこし羨ましかった。なんらかのペナルティーを受けてでも…、縁談を蹴って実家を捨ててでも夢へ走って行きそうな君の勢いが潔くていっそ清々しいとも。」
カッと頬に熱がこもるのを感じた絵梨は、慌てて言い繕おうと口を開くが、その前に玲央が笑いながら続けた。
「すべてが新鮮だったなあ!君は。」と言うと、思い出しながら振り返るように囁く。「令嬢らしい口調でいて、まるで令嬢らしくない言動。結婚への考え方も、夫婦の在り方を説くとこも、破棄しろと迫ってくるとこも、何か…酷く怯えているのに強気なところも。」
「あの…恥ずかしいので思い出さないでくださいませんか?」
「いやだね。君はもしかしたら、俺がデートに誘うのは嫌がらせか何かの一環なのかと疑っているだろう?」
後ろに振り返って絵梨を見つめるの玲央の顔は、最後のあがきのように燃え盛る夕陽の逆光で見えない。
気まずいながらも素直に頷くと、玲央はそれもそうだと一人納得していた。表情が見えないせいで、酷く不安に感じた絵梨は口早に言い訳を募る。
「嫌がらせとまでは考えてはいませんでしたが…その初対面の印象があれでしたので、先に進むことになるなんて思いもしなかったんです。私のことなど、生意気な小娘だとお嫌いになられたものだとばかり…。」
「…君はあのとき、『あなたと私はお互い様』だと言ったね。……その通りだ。俺は…君との縁談をぶち壊すために向かった。だからあの態度に出た。…君自身をどんな人なのか知ってからだなんて考えもしなかった。家のための結婚にしたって、理解できない縁組の犠牲になる気などないと。だが、……気が変わった。」
彼のシルエットから、強い視線を感じて絵梨は身が竦むような心地になった。
知らず呼吸は乱れ、息が上がりそうだ。
彼の美しい瞳が見えないことを、今だけは密かに感謝するほど鼓動が乱れた。見えていたら、どうなっていただろう。
「もちろん、早急に結婚の決意を固めるには互いに早計すぎる。でも、知りたいと思う。君が何を夢見て、走って行きたいのか。何に悩んでいるのか、何から守れば、その夢を追いかけることができるのか。」
ゆっくりとした動きで一段、階段を昇る玲央に絵梨は焦ったように後退すると、上手く足が上がらなかったせいか後方に倒れ込むように態勢を崩す。
「……っ」
お尻への衝撃を身構えていたはずの絵梨は、時間が止まったかのような感覚に息を止めた。
転ぶはずだった絵梨の手首を玲央が咄嗟に掴んで、自分のほうへと引き寄せたのだ。
ふいに肺を満たした玲央の香りと、自分の身体を包み込むように回された力強い腕と感じたことのないぬくもり。
「…ご、ごめんなさい。ありがとう…。」
弱々しい絵梨の声を聞き流したのか、玲央はそのまま抱きしめつづけ絵梨の耳元まで顔を近づけさせると、話しの続きに戻った。
「君や俺の意思に反してこの婚約は成立することになる。君と俺の両親を納得させなければ解消は難しい。でも、ある意味でこの関係を維持することが一番有益だ考えている。」
「え、と?」
「婚約を維持したまま、入籍ははぐらかす。その間、君は夢を追いかける。婚約解消の件は情勢を見て考えていけば、君はその間だけでも違う男との縁談を持ってこられなくて済むだろう?」
「どうして、そこまで…。それに…、私の夢はすぐには叶わないかもしれません。すごく、時間がかかるかもしれないのです。貴方の時間をそれまで頂くわけにはまいりません。」
「それじゃあ君が気に病まないように契約しよう。もし、君か俺のどちらかに本当に好きな人が現れたその時には、なんとして解消すること。そして、どちらに理由があるにせよ、俺は君の夢を叶えるためのバックアップは惜しまない。」
「それでは一方的です。私に好きな人ができてお別れを申し立てたのに、夢のために力を貸せなどと誰が言えますか。」
「もしこの間に互いに両想いになったら、一方的ではなくなるが…。最初は婚約者として、そしていつか解消したら投資家として君を支えたい。だから…夢を追いかけろ。生家か、夢かなんてどちらかを今選ぶ必要はない。」
「それなら……私にもあなたを応援させてくださいますか。どんな夢なのか知らないのに、どうしてそこまで仰って下さるのか、分からないけれど…応援してくださる方の力に、私もなりたい。」
「…対等でありたい。と、言っていたな。」
玲央ははあとため息を零すと、身体に回していた右手をポンと絵梨の頭に乗せた。
「俺の夢は投資家になって、才気ある人物を引き上げることだった。君が夢を追いたいと言うなら、俺がそれを後押ししないわけにはいかない。…つまり、持ちつ持たれつ。君が夢を追いかければ、俺の夢も同時に叶ったことになる。」
「投資家?」
「ああ。…絵梨、君の夢を教えてくれないか。」
エリーはもどかしくなった。
エリーの目から見れば、二人は既に両想いと言っていいほどに特別な感情を抱き始めている。
婚約解消を視野に入れることによって、互いに自分の本心から目を逸らす結果になりかねない。
二人は気づいていない。
どうして、その人の存在を目で追うのに、いざ目が合うと逸らしてしまうのか。胸が無意識に苦しくなって、息もできずにいるのに、相手の存在を肌で感じることに安らぎと幸せを覚えるのかも。
絵梨の心にも少しずつ芽生え始めていた恋心があったし、玲央のほうも決して夢を実現するためだけに絵梨を守りたいと思ったわけではなかった。
けれど人生とは残酷なもので、それぞれが自分の本当の気持ちに気づいたときには、二人は決して結ばれてはいけない関係になってしまうことなど、だれも知らなかった。
きっと、神様以外だれも知らなかった。
絵梨の友人である夏鈴が、絡むまでは。
「私、小説家になりたいのです。」




