絵梨の婚約は、喧嘩から始まる。
私には、大嫌いな言葉がある。
「可哀想」
その言葉は、ある種の呪いだと思うからだ。
それは誰かから発せられた時、自らがあたかも可哀想な自分を表現するとき。
見えない鎖で縛られていくようだ。
同じ理由でもう一つ、苦手な言葉がある。
「優しい」
その言葉もやはり同じように人を縛る効力があるのだ。
誰にも気づかれず、誰の目にも触れないところで、その言葉の真の力は発動している。
でも、いつだったのだろう。私がそう思うようになったのは。
ううん、もうそんなことはどうでもいいのよね。だって、私は死んだのだから。
あれほど凍えていた身体の感覚はもうない。視覚も聴覚も、すべて。
闇の中、強い力で圧力をかけられているかのように、「私」は何かに縛られている。
これは私の過ちの代償。でも、もう遅いのだ。何もかも。
王妃と呼ばれた彼女が、闇に溶け切るまで…あと、4日。
だが、彼女には時間の感覚は既に喪失している。長いとも短いとも永遠とも一瞬とも思えるその時を、彼女は過ごす。
胸に突き刺さった矢に手を持って行っても、その手が矢に触れることはなかった。
::::::::::::::::::::::::
絵梨が婚約者となる男性と会うことになったのは、両親の宣告を聞いてから5日後のことのようだ。
その日まで瞬時に切り替わった映像に戸惑いながらも、絵梨の婚約者の登場を絵梨の様子を見ながら待っていると、にわかに騒がしい一画に視線が吸い寄せられる。
ドクンと多きな鼓動が、息を詰まらせた。
エリーの目に映ったのは、紛れもない大人のレオンの姿だったから。
人混みの中から抜きんでて高い背、そこから覗くブロンド、遠くからでも分かるまるで人形のような造形と象牙肌の美しさ。女性の歓声と熱い視線の中を伏目がちに、でも颯爽と歩く彼はふと瞼を持ち上げる。
そして見えた青い瞳は、ある一点に集中する。
何か一言、周囲の女性たちに零すと彼女たちは心底ガッカリしたと言うように声を上げると、渋々道を開けた。去る後ろ姿を、熱い眼差しで見つめ行き先を確認しようと首を長くしている。
彼は迷わず絵梨のもとへと向かった。
互いの両親は立ち会わない異例の初対面。相手方の親はどうなのかは知らないが、絵梨の父はこう言った。
「能無しなりに女の武器を使って上手いこと取り込めよ。いらないなんて突っ返されたら、お前はもうこの家の者ではないと思え。」
そして既に決まった縁談に忙しい両家の親がわざわざ出向いてやる必要はなし、と一人で行くように絵梨に命じたのだ。前日には「行くべき」だという妻にもしっかり釘を刺していた。いや、脅していた。
息を止めて命令に頷く妻の姿を見るのは、気分のいいものではない。
「失礼、君が蓮田絵梨さん?」
まっすぐと絵梨を捉える視線。ああ、やっぱり似てる。
「ええ、そうですわ。」と頷くと絵梨は立ち上がって手を差し出した。
「あなたが榮田さま?」
一瞬、目を丸くした彼は、ふと微笑んで彼女の手を取った。
「様、なんて堅苦しいのはおやめください。私はたかだか貿易商の長男坊ってだけの男です。榮田玲央。どうぞよろしく。」
「よろしくお願いしますわ。」
さらりと離れていく手に二人はなんの関心も示さず、絵梨は当たり前のように自分の前の席に座るよう手で促した。
それからしばらくは他愛もない世間話が続いていた。
どこの高校に通っているのか、友人とはどんな関係か、両親とは仲が良いのか、好きな人はいないのか。
そんな質問を至って冷静に受け応える絵梨。
絵梨は絵梨とて聞かれたことをそのまま彼にオウム返しで質問を返していた。
新しく何かを問う、ということはあまりしないのは絵梨にとってはどうでもいい婚約だったからだ。
特に表情が変わることのない二人だったが、玲央の一つの質問がその空気を打ち砕いた。
それまで友好的な雰囲気で接していた玲央の態度が一変したのだ。
「なぜ、うちだったんでしょう?」
「なぜ、とは?」
「いえ、貴女は蓮田家の一員であるお嬢さまだ。きっと事情や理由をご存知かと思いまして。正直、うちからしたらなんのメリットもない政略結婚だ。いくら子供とは言え、そのくらいなら貴女も分かるだろう?」
それらの言葉には、絵梨への冷たく見下した響きが含まれた蓮田家への侮辱が込められている。
その色に気づいた絵梨もまた、瞬間的に冷たい空気で応戦しようと身構えた。
彼は知っているのだ。蓮田家の現状を。
双方の家の利害を満たした条件下でなければ、政略は成り立たない。
蓮田家は由緒ある財閥一族で、名前に価値があるとしても今や日本の主要貿易と称された榮田グループにとって名前の価値など取るに足らない。
絵梨が不安になった理由の一つだ。
だが、その政略結婚を了承した理由は蓮田家側の絵梨ではなく榮田家こそが分かることではないだろうか。
脅されたか、何か他の甘い汁を匂わせたか、何にせよ。
本来なら、媚でも売って何を言われても笑ってやり過ごして懐に入ろうと踏ん張るのが令嬢の務めだろうが、絵梨はそんな気にはなれなかった。そうでもして気を張り詰めていなければ、崩れ落ちそうな感覚だったのだ。
この結婚に不満があるとしたら、ある意味で同士だというのに。
「それは『蓮田家の逼迫した財政状況を助ける騎士の役目を、なぜ榮田貿易グループ御曹司である貴方に与えたのか』とお聞きしてると受け取ってよろしいでしょうか?」
「ですから、そう言っていますね。同じ言葉の繰り返しを聞いているほど私は暇ではない。」
小馬鹿にしたように笑みを歪めて嘲笑っている玲央に、絵梨はいささか呆れ返った。
いくら落ちぶれた家の令嬢とは言え、年下の高校生相手に自分ではどうしようもできないお家事情の不満をぶつけてくるような幼稚な人間の嫁になど、なってたまるものかとさえ思った。
「さあ?困りましたわね。私には蓮田家当主の考えなど、推測しかねますし、当主同士の話し合いの場にも同席してはおりません。そちらのメリット、なんて言えることは朽ち果てる寸前であっても蓮田の家名しかございません。双方のやり取りを知らなう者が推測で物事を無闇に語るのは邪道ですから、私からはなんとも…。あなたは貴方の家の当主にお確かめください。…私は蓮田家のための人形であって、チェスの駒でしかない。ですから、何も教えてはもらえないのです。ですが貴方も、同じなのでは?私にわざわざお聞きするくらいですもの。ならば私の立場もご理解ください。」
ピクリと眉が動くのが見えた。けれど、謝る気などない。
いっそ蓮田家から追い出されたほうがよほど良いと思えて来たのだ、どうとでも言って婚約話などなかったことにすればいい。
投げやりな気持ちの隙間を縫って、わずかに恐怖心が込み上げる。
――家を追い出されるだけで、済めばいいが。
この縁談が流れたら、父は激情して何をしでかすか分からない。
もしかしたら、よもや老人と言える年齢のリッチな独り身を探し出して娘を売り込むやもしれないのだ。
そんな考えが過ると、さっと血の気が引いた。
――どうして、こうも父の意向に怯えていなければいけないの。
「それではまるで家の命令ならば、いつでも裏切ると言ってるように聞こえる。君は誰と結婚しても蓮田家の人形なんだろう?そのような女性など、信頼できないね。」
「何度も申しますわ。それは、お互い様です。私が榮田家のものとして従順に仕えても、蓮田家の言動一つで私の立場など榮田家にとっては塵も同じなのでは?私の意思ではないもので、きっと私を裁くのよ。」
「ならば自分の意志とはなにか、知っているのか。」
「あら、このような態度を蓮田家が命令しているとお思いなの?命令通りなら、今頃私はあなたの肩にもたれかかって甘い世迷言の一つ二つ吐いてるところでしょうに。」
「…君は、自分の立場の弱さを認識してはいないのか?」
竦み上がった心にはひどく刺さる言葉が彼の口から出る。
刺さったと同時に、口からは乾いた笑いが零れた。
じっと絵梨を見ていた玲央の表情に、ふと謎めいた揺らぎを見る。
「立場の弱さ?……弱ければ……だから虐げられることも、理不尽に怒りをぶつけられることも当然だと仰りたいの?傲慢なことだわ。どんな始まりであっても、夫婦にたる信頼関係を築くのに立場の強弱は足枷でしかない。なんの土台になりましょう?」まるで父みたいな傲慢なことを言う。とは口にしなかった。
「…虐げてもいないし、理不尽に怒りをぶつけているわけでもないでしょう。」とため息を零す玲央。「ああ、…そうか。子供と言われてへそを曲げたのか?本来なら頭を下げて結婚してください、お金を援助してくださいと言うべき立場だ。それもできないとは、どんな教育を受けてきたのやら。」
令嬢としての振る舞いもできない子供が粋がって意見を言うな。そう暗に言われた気がした。
耳鳴りがする。彼は令嬢としての絵梨のプライドを引き裂こうと、最も的確な点を突いている。
玲央の冷たい瞳を見つめながら呆然とした気持ちで返す。ぼやけた視界の中でわずかに玲央の表情が動揺に染まっていることなど絵梨には気づかなかった。
「あら、幼稚さで言えば私は今目の前にいる殿方には負けますわ。私は事実、まだ子供の域ですわ。ですが貴方は成人されているのに、意味もなく私を見下し嫌味を言う。私の目には、貴方は『自分の意に反する婚約をさせられる被害者の自分』に酔いしれ、その怒りを私にぶつけているようにしか見えないわ。それに「お金を援助してください」ですって?そんなことは私が言わずともお家の意向によって私の首を締め上げる重い鎖。あえて口にしないのが私たち駒の暗黙のマナーかと存じますわ。侮辱なさる貴方のほうがよほど幼稚よ。それが…その言葉がどれほど重く恥ずかしいことか、私だって分かっております。・・・それがあなたのお望みだとは思いますが。」
あ、声が勝手に震えてしまう。まるで泣き出す寸前みたいな声。嫌だ。
「……それは…。」
結婚しても、結婚相手の顔色を窺って、相手の言葉に従うだけの人形のような人生。
「お金を下さい」「これを食べてもいいですか」「申し訳ございません」「どうか許してください」同じ言葉だけを繰り返すだけの毎日になるのは目に見えている。
それは、父のもとで生きている今と…母親の人生と変わらない。
それが絵梨にはとても耐え難い未来予想図だった。
少しだけでもいい、私のことを一人の人として見てくれる人の手を取って、どこかに逃げてしまいたい。
そんな想いが過ると、絵梨は思いもよらず胸がいっぱいになって言葉にならない悲しみがせり上がってきた。泣くまいと大きく息を吸い、瞼を閉じてみるも、ツンとするものは絵梨の努力も虚しく力いっぱい閉じていたはずの瞼の隙を縫って、ぽたりと落ちた。
ハッとした空気を感じたが、冷静に応戦してやると決めていた絵梨にとってはとんでもない失態だ。それが恥ずかしくて、絵梨は玲央の顔を真正面に捉えて更に言葉を募る余裕もない。
それに我慢ならないのが「泣けばいいものだと思っている」や「やはり子供のようだ」と笑われることだ。
先程の彼の発言を聞けば、泣き落とし作戦だと誤解されかねないのだ。
「…ごめんなさい。これはちょっと、砂埃が酷いせいよ。でも、ちょっと嫌なことを考えてしまったこともあるわ。…私だって平凡で平和な些細な幸せな家庭を築ける方と結婚したいわ。あなただってきっと自分の自由と責任のもとで結婚なさりたいでしょう?けれど、私には捨てがたい夢もある。両親からは気が触れたと扱われ、あげくに家のために結婚。覚悟はしていたつもりだったけれど、「言いなりになって生きる」ことばかりを求められていることが辛いのに、結婚するかもしれない貴方からまでも同じような言葉を聞いて、私…どうしたらいいの。我儘なのは分かっていますわ。この家に生まれたから与えられた立場があって、守るべきものがあることも。…でも、夢も見てはいけないの?子供だと笑ってくださって構わないわ。」
相手を見ることなく滑り落ちる言葉。絵梨はゴシゴシと涙を拭いながら聞く。
「もし破談となったら、あなたに科せられる罰はありますの?」
「罰?…どういうことだ。」
彼の目が驚きで見開くのを見て、絵梨は肩を竦めた。
「ペナルティ…と言ったほうが聞こえが良いかしら。…例えば、うちから何らからの圧力がかかっていて、婚約せざるを得ないなんて事情があった状況で破談となったとき、あなたになにか不都合なことがあるの?」
何も答えられないのを見て、絵梨は続けた。
「…私よりはきっとマシよね。蓮田家側から破談の申し込みがあれば、かえって好都合かしら。でも、私はどちらであっても与えられる罰は変わらない。それだけは分かるの。」
大きく息を吸い込んで、絵梨は膝の上に乗せていた手をぎゅっと握り合わせた。
「でも、それでもいい。罰も、業も受け入れるつもりです。だって愛し合えないのなら、せめて互いのために尊敬し合える関係を築ける相手との結婚であるべきですもの。そうでない結婚はやめるべきなのよ。途中でそれに気づいたときだって遅くはないわ。人生はいつまで続いているのか分からないんだもの。」
黙ったままの玲央の瞳の色を、絵梨は何の気なしに見つめる。
呆然としたままの見開いた玲央の瞳には、軽蔑も非難も浮かんでいない。だからこそ、絵梨はそれを見て感想が浮かぶ。
青空だ。
澄み切った青空。まるで宇宙に続くあの空を瞳に宿しているかのような。
「私には…あなたの仰る通り、お断りする立場にもなく権利もございません。ですから、どうか蓮田家に貴方から申告してください。こんな娘はお断りだ、結婚はできないと。」
そこまで言うと、すくっと立ち上がった絵梨はさっと玲央から目を逸らし出口を探して走り出した。
何を話しているのかやきもきしていた野次馬の女性たちが意味も分からず「ざまあみなさい。恥知らず」と投げつけてくるけれど、絵梨にとってそんなことはどうでも良かった。
「…待て!それなら君の家はどうなる!君だってどうなるんだ!!」
彼の疑問に答えられるほど余裕はない。
エリーは彼女と繋がっているように自動で移動しているために、名残惜しそうにレオンによく似た玲央の姿を見つめ絵梨の行く先へと視線を戻す。遠くなるにつれ、涙が収まっていく絵梨とはら裏腹に、エリーの目にはうっすらと涙が浮かぶ。
そうこうしていても、絵梨の感情は伝わってくる。
絵梨はすべての憂いを忘れようとしているのか、夢を描いた。
『白馬に乗った王子様が、私の手を引いてどこか遠い世界に連れて行ってくれればいいのに。そうすれば、耐え難い罵倒の日々もきっと過去にできる。きっと。』
それから絵梨は家に辿り着くと、母親の追及をかわして自室に立てこもった。
思いつく限りの荷物をベッドの上にかき集め旅行バックの中に詰め込んでいく。
彼は最初から乗り気ではなかった。そこから私との口論だ。破談にしないほうが、おかしい。
なら、父親の言いなりになるより家出したほうがマシだ。
頭に血がのぼった絵梨には、家出をしたところで行くところも生きる術もないことに気づかない。
きっと彼は私を試したのだ。
今思えば、あの最初の穏やかな態度も急に変換した冷たい態度も、どちらが本当の彼なのか分からないのに、すぐに頭にきて子供だから仕方ないなどと開き直ったのだ。
令嬢として最低の態度。さぞかし面白かっただろう。子供だと笑った彼の顔が思い浮かぶと、無性に腹が立った。
子供であることは私の考えなしの行動の理由にはならない。
子供であろうと理性と知性で堅実な行動を取ることだってできる。
私は…彼が言う以上の阿呆なのだろう。
そこに辿り着くと絵梨は深く溜息を零した。
出ていくにもどこに行けばいい。分からないのに荷物をまとめて。
ホテルも、アパートも借りることもできない。
何もできない私が、あんな大口叩いて家を捨てるようなことを言った。学生の未成年者でしかない私が、この世界でなにができると言うのか。破産したら父や母はどうなる。それに私は。
破産など父は許さないだろう。そうならないようにどんな手も打つはずだ。
例えば、父と同じくらいの男性との婚姻。
それなら、あの怜悧で美しい空色の瞳を冷たい軽蔑に染めた眼差しを受けながらも、彼の婚約を粛々と受け止めて何を言われても艶然と微笑んでいれば良かったのか。
そして同時に何かを捨てて、引き換えにお金という援助を受ける。
後悔の念に押しつぶされ、ベッドの下にうずくまる。
だが絵梨にとって青天の霹靂なほどに驚く出来事が数分後に起きた。
すっかり人生終了だと思い込んで塞ぎこんでいた絵梨の部屋に駆けこんで来た母親の一言によって。
「榮田様からの連絡よ。次のデートのお誘いをたった今お受けしたから。いいわね。」
母が去るまで、絵梨はしばし声がでなかった。
そして彼と再び顔を合わせた絵梨の顔を見て、玲央は腹を抱えて笑った。




