薄幸令嬢、異次元に降り立つ。
耳元でけたたましい鈴の音が響く。
身体が自然とその音を止めようと腕を伸ばし、ツルツルしたものをパチリと押した。
すると耳障りな音は止んで、静かな部屋には時計の秒針の音と、外から車の音が聞こえてくる。
…車?
重い瞼を持ち上げると、朝の光が差し込んだ私の部屋が映った。
だがエリーではなく「薄井幸子」の現代の部屋だった。
おかしい。私は…いや、幸子は死んで私になったはず。
どうしてこの部屋で目を覚ましたのだろう。一人暮らしをしていたこの部屋で。
のそりと身体を起こすと、エリーは見たことのない記憶だけの景色が目の前に広がっていた。
ベッドから落ちた布団、部屋の隅の机にはパソコンと書類の山。
本棚に詰まり切らなかった本が、部屋の隅に積まれている。どれも仕事に関係するもののようだ。
趣味に関するものは一つもない、ただ仕事に明け暮れる人間の部屋。
温かみはないが、煩雑としていて殺風景でもない。生きていた頃は、もう見飽きていた光景にエリーは妙な懐かしさを覚えた。
そこでエリーはハタと気づく。
これは夢なのだろうか。エリーとしての人生が夢だったのか、こちらのほうが夢なのか。
どちらにせよ仕事に行かなくてはいけないのだろうかという決断が迫っている。
ふと、時計を見ると秒針の音は確かにしているのに、針が進んでいない。
まるで壊れたかのように、カチカチと進んだように見せかけて元に戻っている。
どうしよう、これじゃ時間が分からない。
焦るエリーに、「携帯」という言葉が浮かんだ。
薄井幸子として生きている間は、時間を確認して仕事の連絡をするだけに使っていた携帯。
結局、上司からの連絡が来る以外に電話が鳴ることはなかったな。
それも、クビを宣告するための呼び出しだったから最初で最後だったわけだけども。
クルクルと携帯を探し、やっと見つけたとき、エリーは違和感を覚えた。
見つけた机の様子と、椅子に掛けられたバックのデザインだ。
あきらかに社会人ではないのだ。
でも幸子が両親から避難するように一人暮らしを始めたのは社会人になってからだ。
それに前世の幸子が使っていた書類や書籍が所狭しと転がっているというのに。
どうしてこの部屋で、高校生の使うバックなんてあるのか。それも、使い込まれた形跡がない。
真新しいそれは、まるで新入学を祝うかのようにピカピカなのだ。
しかし、前世幸子の高校時代は入学早々に目を付けられてヤンキーのような女子からバックをボロボロされている。祝うかのようにピカピカ…な時は、一日もなかったはず。
エリーは更に調べると、机の中には整理整頓された教科書とノート、筆記用具が入っていた。
クローゼットを開けると、社会人時代に着用していた服はなく、見たこともない若人向けのデザインのものが並び、一番端に制服と思われるものが掛かっている。
ぞっとしたエリーは、部屋をくまなく見ていくと、幸子以外の人間の形跡はないようだ。しかし、幸子でもないような気がしてくるほどに、身に覚えのない服ばかり。部屋も、社会人時代と学生が混ざり合って、一貫性がない。
この部屋も、一人暮らしの高校生にしては広すぎる。幸子はこの部屋を借りたのは、社会人としてそれなりに稼ぐようになってからだ。
それも、露とも知らない罪を被せられて左遷を言い渡されたときに、家賃が安くすぐに入居可能というだけで選んだ。それでも、幸子はどんどん両親と嫌な思い出しかない地から離れられたと、ホッとしていたのだ。自分だけの、真っ白な空間を手に入れられたと思うことで、やるせなさをごまかしていただけなのかもしれないが。
とぼとぼと歩き適当に覗いた洗面所で、エリーは目を点にさせた。
鏡に写っていたのは、思春期の幸子ではなく水玉模様のパジャマを着たエリーの姿だったからだ。
夢だ。夢ならば、エリーの姿で一人暮らし時代の部屋をうろうろすることも自由だし、突飛でもない展開を見せる。それが夢というもの。特段、驚くことではない。ないのだが…
だが一応、教科書の類に記名されていないか、確認することにしたエリーは急いで机に戻った。
乱暴に引き出しを引き、中の教科書を持ち上げて裏返す。
『蓮田絵梨』と書かれているのをエリーは呆然と見つめた。
エリー・ハッシュトンで蓮田絵梨というのも分かったけれども。…シャレだろうか。
探索しているなかで、エリーとしてまじまじと前世の顔を見ることになるのかと薄ら思い始めていたというのに、夢というものは突拍子もないものだ。
「あ、あ、あー。」
試しに発声練習してみると、やはり声もエリーのまま。
だが、確実に違うのは前世の記憶として認識しているのみだった言語が、目の前に広がっているということと、それらを難なく理解しているということ。
エリーの世界の言語と、幸子の世界の言語はまるで違う。
幸子の記憶を思い出したと同時にその違いは承知していたが、いざ目の前に広がるとカルチャーショックを覚える。
そこにインターホンが鳴った。
ビクりと身体を大きく揺らしたエリーは、恐る恐る受話器に手をやる。
言ってはなんだが、幸子の世界を主軸に舞台が広がっているのなら、幸子には朝に会いに来るような人物は誰一人もいない。
「はい、どちら様でしょう?」
『おはよう、絵梨ちゃん!私よ!夏鈴よ!準備できた?』
――…かりん?
初めて聞く名前なのにエリーの耳はすぐに記憶を呼び寄せた。
この声は、きっとキャサリン・バルト…。
「準備、って…?」
思考が停止しかかったエリーがやっとのことで聞き返す。
『もう!嫌だわ!学校に遅れるじゃない!まさか寝ぼうしたの?』
「えっと、そ、そうかも?」
学校?遅刻?ということは、彼女は同じ学校に通っていて、一緒に通学でもしているのだろうか。
だとしたら、何も知らない私からしたら彼女の存在は非常に助かる。学校がどこなのかも分からない…どころか、学生なのかも判断しかねていたのだ。
エリーは咄嗟に玄関の鍵を開けて、扉を開けた。
すると、やはり想像していたとおりの姿でキャサリン…いや、夏鈴が朝陽にも負けない輝きで立っていた。
彼女の美しさは、舞台を変えてもこれほど光るものなのか。と、呑気なことを考えた。
「ふふ、私も手伝うわね!」
と言うと、夏鈴は勝手知ったるかのように部屋に入って来ると、まっすぐに机に向かいカバンに教科書を詰めてくれている。
「絵梨ちゃんったら、昨日も寝落ちしちゃったのね。ささ、早く着替えて、朝ごはんもまだでしょ?作るわ。」
「う、うん…?」
夏鈴(キャサリン?)はニコニコと微笑みながら冷蔵庫の中を確認すると、手際よく料理を始めた。
エリーはその様子を横目に見ながらクローゼットの扉を衝立代りにして夏鈴と同じ制服に着替える。
これで、絵梨は高校生であることが分かったのはいいが、まるで話しが掴めないままなのは変わらない。
あの仕事場のような荒れた書類の山は何なのか、…宿題のようにもまず見えない。あの書籍類の山は?高校生が使う辞書や事典ではない。それらの詳細を、まだ見ていないのだ。
今から確認しようかと、そっと足を踏み出した瞬間、夏鈴が朝食の準備ができたと呼びに来た。
手際が良いにしても早すぎるわ…。
そろりと出した足を、そそくさと夏鈴のいるほうへと向けた。
「ありがとう。いただきます。」
手を合わせると、夏鈴は嬉しそうに私の様子を見守っている。
カリカリベーコンに目玉焼き、野菜サラダ、薄くバターを塗ったパンには薄くスライスした林檎とシナモンパウダー。
これをあの着替えタイムだけで作り上げるとは、彼女は一体何者だろうか。
ふと、気になって探りを入れてみたくなった。
彼女の様子を見ると、何度もここで料理をしているようだ。なら…
「…本当、いつも手際が良いわね。どうしたら、こんなに美味しいご飯をあんなに早く作れるの?」
そう言うと、夏鈴は目を見開いた。
「もう、忘れちゃったの?私、家でいつもやってるから早くならざるを得なかったのよ。だって、急かされるし、遅くなると怒られるし…痛いのは嫌だもの。」
さっきまで光っていた瞳が、急に陰りを帯びた。
エリーは罪悪感と同時に、本来の絵梨はそれを知っていたという情報に急に焦りを覚えた。
彼女と共に行動するということは、いつもの絵梨ではないことがバレる可能性が高い。そして、事実を教えたところで信じてもらえないかもしれないし、教えなかったら今のように彼女を傷つけるかもしれないのだ。
…夢だというのに、真剣に悩んでしまうのは、今しがた頬張ったリンゴのパンがあまり美味しかったせいだろう。
現実味がありすぎるのだ。良い香りに釣られて、無防備に齧りついた焼きたてパンは熱かった。ちょっと舌も火傷した。それがヒリヒリと痛い。
夢にしては、身体的な感覚がリアルすぎる。
エリーは試しにパンと頬を叩いた。
夏鈴が驚いて目をパチパチとさせているが、気にしない。何度も右、左と叩く。
やっぱり、痛いものは痛い。
「え…絵梨ちゃん?どうしたの?どうして、そんなこと…」
怯えた夏鈴に、エリーはハッとして答えた。
「悲しいこと思い出させたのだから、私も罰が必要だと思って。ごめん、単純にすごいなって思っただけなの。」
「やめて、そんなことで自分を叩かないで!私のことすごいなんて言ってくれるの、絵梨ちゃんくらいだわ。…でも、私は絵梨ちゃんのほうが料理上手だと思っているのよ?」
料理?…前世幸子時代なら必要に迫られてから作っていたが、エリーとしてはそれほど料理はしていない。ハッシュトン家令嬢として、厨房に立つということは必要なことではなかった。
この世界の絵梨は、料理をしているということなのか。
どうしよう、これって夢じゃないのかな。
と、エリーがビリビリする頬を撫でながら、いよいよ疑惑が膨らんでいく。
そうだとしたら、ここは一体どこなの。
だって、私…。
王城の一室で横になって…ジュリアンから色々な呪いの話しを聞いて、…レオン様に自分の気持ちを伝えたいって、それで…。
彼に手を伸ばしたところで、急に胸が苦しくて、息ができなくなった。
私、死んだの?ううん、それならきっと、痛みもないはず。多分だけど。
当然ながら、エリーには死後の世界など存在するのかも分からない。死後、魂にかえっても身体的な感覚があるのかどうかすらも分かる由がないのだ。
だが、エリーはレオンのことを思い出した瞬間、寂しい想いに駆られた。『エリー』のまま、見知らぬ世界に一人で立っているのではないだろうかと思えば思うほど、会いたくてたまらない。
ふと、目の前にキャサリンそっくりの夏鈴を見て、エリーは唐突な嫉妬に胸が焦がれた。
捜索が上手くいけば、蒼い石を持っているかもしれないキャサリンに行き付くはず。
そうしたら、きっと王城に彼女を招き、その場でレオンはキャサリンと出会うかもしれない。
出会い方が変わるだけで…。
出会ったら、原作通りの展開になるような気がしてエリーはたまらず恐かった。
不思議そうに首を傾げて、自分を見つめている夏鈴をぼんやりと見つめながら、エリーは甘酸っぱいミニトマトを噛んだ。
不意に、ハッシュトン家にお忍びで遊びに来たレオンの姿を思い出して、鼻がツンとした。




