王妃の過去と呪いの行く末
闇の静けさと泣き叫ぶような音を立て肌に突き刺さる風の冷たさ。…――心地いいとさえ思っていた。
ここには何もない。
家も建物も木も花も、そして人々すらもなにも存在していない。
音のない、いつもずっと闇夜の世界。
ぽっかりと何もなくて、上を見るとわずかに光る小さな輝きが憐憫を誘う。
あれは…星と言ったかしら?
私はいつからここにいるのだろう。
もうずっと、このまま座り続けているような気がする。痛くて立ちたくないのに、それすら恐れるとき、立ち上がると足首に鎖が掛けられている。ほんのわずかしか、余裕のない短い鎖。
何もない世界で、真っ暗で吹かれ続ける風にいつしか寒さしか感じなくなっても、身動きの取れない身体ではどこにも逃げることなどできない。震えるしか自分を守る術はないのだ。
ああ、眠い。すごく、眠い。眠れば不快な鳴き声の鳥が何羽も現れて、睡眠を奪って行くというのに。
繰り返されるサイクルに、いつしか消耗していった。
遠くで誰かの喋る声がする
遠くで自分の応える声がする
ああ、まただ。
どうして私はここにいるのに、私がどこかで喋っているの?
私はここにいるのに。
まただわ。誰も私のことなど見てもいないのに、私のことではない話しを私に着せて指を差す。
奪われて、踏みにじられて、どうして笑っていられるというの。どうして…同じような目に遭わせようとしたのに…あの子はどうして笑っていられるの。
許せない。私ばかりなんて、許せない…。
痛む腕を持ち上げると手首にも鎖がはめられている。
逃げ出すことなど許さないと言うかのように。
乾いた笑いが口から洩れる。
どこに逃げられると言うのだ。何もかも失った私が。
掌には、身の覚えのない模様が刻み込まれている。
黒くて血潮の脈図のような蜘蛛の巣、そして髑髏。
その模様を目にした瞬間、激しい痛みが胸を刺す。息を止め周りを見渡すと何気なく見ていた何もないこの真っ暗な世界に疑問を抱いた。
ここはどこ。どうして何もないの。どうして誰もいないの。
いいえ、ここがどこでもいいわ。何もなくて良い。誰もいなくていいのだ。私の心を乱す者など、もういらない。
寒い。痛い。苦しい。悲しい。辛い。憎しみ。――…淋しい。
せせらぐ風の音が、攻め立てる声を模った。耳を覆ったが何も遮ってはくれない。
そして彼女は聞きたくもない声を聞いたのだ。
……――『お前に価値があるとしたら、女の性を金で売るときだけだ!』
そして激しい痛みが頬を打ち、その反動で倒れた身体を更に打ち付けられる。
四肢と秘所を足で踏みつけられて、痛みで涙を流せばあの人は満足して部屋を出て行く。それをただ待つだけ。
私が泣けば、苦しめば、痛がれば、嫌がれば…――
あの人はとても喜んでいた。
それを見て笑う使用人たちの好奇ともっと傷めつけたいという欲の入り混じった目。
彼女たちは、元貴族の令嬢のなれの果てをみて、心底嬉しそうに笑っていた。
日頃の鬱憤晴らしに、私は良い材料だったのだ。
彼は父方の遠い親戚のあたる伯爵だった。そんなところに引き取られても、私に待ち受けていたのは使用人以下の扱いと殺人鬼の娘という重いレッテル。
すべてを失った、あの時。
皆が白い目で排除しにかかったその時、手を取ってくれたこの人を、私は最初、良い人なのだと思い込むことで生きながらえていた。
そうだと思わなければ、理不尽で苦痛しかない毎日を過ごせなかった。
異議を申し立てることなど、できない身では。目の前にあること、おきた出来事にそれがどれほど屈辱的なことでも…ひたすら這いつくばって感謝しているしかなかったのだ。
私のすべてを奪った、この男のことの本性など…あの時の私には分からなかったのだから。
彼は私が魂の果てまで傷つき、殺すことできっと満足していたに違いない。
彼の暴力に支配され、怯えながら歪に歪む彼の眼に吐き気を感じ、悟られては殴られた。
嫌悪感は隠しきれるものではない。彼は、そういったものを勘付く才能だけは随一だったのだ。
痛む身体に耐えながら、クスクスと笑われてドブの水を「誤って」かけられても、涙はでなかった。
それよりも悲しいことは、もう起きてしまったから。
…お父様。
……お母様。
かつての悲劇が脳裏を過る度に、耳朶に沁みついた叫びが蘇る。その度に、何度でも飽きることなく苦しむ。いつになったら、この苦しみから解放されるの。
――………やめて!お父様とお母様に酷い事しないで!
ある日突然、土足で邸に乗り込んで来た警察隊と名乗る組織は喜色ばんでいた。気味の悪いほどに。
犯罪者を取り押さえるという厳粛さもなく、目にはある種の欲求を満たそうという理性とは程遠いものを浮かべて、薄ら笑って母を罪人として裁くと叫んだ。
邸中に悲鳴が上がり、逃げ出す使用人。
忠誠心の強い者は皆、一瞬の躊躇も見せず凶刃の獲物にされた。
あの頃の警察隊の評判は一般民間人の中で最高潮とも言えるほど、悪かった。
時が悪かったのかもしれない。
国家の権力を笠に着て、罪なき人々を面白おかしく虐待しては殺める。
そんな話が貴族の中でも飛び交っていたほどだ。
縛られて放置された私の目の前で、両親は母の犯した罪を償えと暴力を受けていた。
特に母は声だけが本人を示すものとなり、顔形は見る影もないほどに凄惨な暴力を受けた。
途中、別室に引きずられていく母の悲鳴と、やめろと叫ぶ父の慟哭。
私は、何が起きているのか、どうしてついさっきまで幸せだった私たちがこんな目に遭っているのか、理解できなかった。
ついさっきまで、私の髪を梳かしてくれた母が…朝食の席で美味しいかと笑んでいた父が…。
令嬢たるもの走ってはなりませんと口酸っぱくも優しかった執事や、使用人たちが。
どうして、目の前で血だらけでうずくまっているのか。ピクリとも動かないのか。
そこに国家の法の下で裁くという倫理は働いていなかったのだ。
彼らが突きつけた、母の犯した罪状。
それは「王妃殺人未遂」という最も重い罪だった。
けれど、幼い私でも分かった。
誰かに仕組まれている。母は、誰かに利用され嵌められたのだ。
愚かだと罵られても良い。確信は私の中で広がって、だからこそ悔しさが募る。
けれど、証明するものなどなにもない。知恵もない。
泣きながら訴えても、答えは息も出来なくなるほどの暴力だけだった。
――お父様!
泣きながら叫ぶと、父は血を吐きながら途切れ途切れにこう言った。
「…心配、するな。リリー、お前たちのことは……私が守るから。」
けれど彼らはその言葉で更に激昂した。
愛すべき王妃を殺しかけた女の夫が、反省するどころか庇いたて、麗しき家族愛を見せつけるなど胸糞が悪い。言語道断だ、と。
叫ぶ声を失った私に、ボロボロになって戻って来た母は言った。
「…お母様を信じて、きっと無実は証明される。…何があっても、希望を失ってはいけないわ。リリー、夢を見続けなさい。自分の力で掴み取る勇気、守り抜く勇気。何よりも大切なのは愛情よ。…何があっても、諦めてはなりません。………愛してるわ。」
その声を最後に、母の温もりはこの世から去っていた。
私に微笑みかける、優しい温もりが。私に向けた瞳から、光が消えた。ビー玉のような瞳がただこちらに開いているだけ。
父の咆哮、警察隊の笑い声。耳に刻み込まれていく度、私の中で何かが消えていく。
母の亡骸を移送車に乱暴に積み込むと、同じところに僅かに息を残す父を投げ入れた。
私は彼らに羽交い絞めにされ、両親と同じところにはいれてもらえなかった。
檻のような格子の中で、母の亡骸に縋る父を否応なく見送りながら、私は声もなく泣き続けた。
それから間もなくして、父は処刑された。
父の処刑が執行されたことに、民間人は胸を撫で下ろし一様にしてホッとしたと口にした。
悪魔の女を庇いたてた男をこの世から排除できた!と。
捜査という捜査のないまま、私の両親は罪人として死んだ。
貴族として生きていた二人が罪人として処刑されたら、残された娘である私の境遇などたかが知れている。
本来なら、私も鬼籍となるはずだった。そのほうが楽だったかもしれない。
けれど、私は残された。
本当の悪魔の手に渡されるために、残されたということも分からないまま私は…
その手を取っていたのだ。
母の言葉を守るために、生き残るしかないのだと。
「お父様、お母様……私、とても寒いわ。寒くて寒くて、もう何も分からない。…分からない。」
痛いのか、悲しいのか。何が辛いのか、何のために憎しみを燃やしたのか。
なんのために、……私は生きていたのか。
「もういや、…いやよ。」
私ではない『何か』が、どこかで私のフリをしている。その声を聞きながら、虚ろとしていると聞き覚えのある声が聞こえて来た。
『母上、顔色が優れませんが…お体の調子が悪いのですか?』
『あら、そうかしら。ありがとう、大丈夫よ。きっと、睡眠不足のせいだわ。』
あの子は………ユ、…リ、アス?。
あの子だけは駄目。傷つけないで…。その手で触らないで。やめてよ、お願い!!
――うるさい。
毒の籠った声が、私の中で響き渡る。その瞬間、胸が詰まるように息ができない。
――おまえはもはやワタシのモノだ。この躰も、この声も、この眼も…すべてワタシのモノだ。
やめて。いやよ。…あの子だけ、あの子だけが私のすべてなのに。
――それらすべてを投げ捨てたのは、おまえだ。拾ってやったのは、ワタシだ。
消えて。…私の中から、……私の子に…さわら…ない、で。
――歯向かう気なら、消すまでだ。おまえを、な。
息ができなまま、目の前がちらつく。霞む視界に、きらりと光るものが自分に向かってきている。
避けることもできない、鋭い一瞬の閃光が自分の身体を貫いたとき…
リリーはその衝撃とともに、ふたたび意識を失っていた。
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ダンテが出ていってからかなりの時間が経ったころだった。
エリーの部屋の扉が叩かれたのは、ここにはもう戻ってはこないかもしれないなと思い始めたときだ。
エリーも晩御飯を終え、城の皆もおおかた晩餐が終わったであろう時刻。そのころにはすでに、王城住まいの貴族以外の幹部たちの大半は自邸に戻っているころだ。残る幹部や各役職補佐役に命じられた貴族の子息、宰相閣下などは今も執務中か別室で晩餐や仮眠を取っているだろう。
エリーがここで寝込んでいることは、彼らには知らされていない。理由が理由のためだ。
エリーにとっても、リリー王妃にとっても、この段階で貴族連中に知られるのは分が悪い。
どのような理由、内容であれ、呪われた事実、呪い行った事実に変わりはないからだ。
だが唯一、宰相閣下だけには事実を伝えているらしい。
第一王子の婚約者であることは、貴族幹部たちの一部は把握しているが、国王陛下による箝口令によって自邸に持ち帰ることのできない重大な秘密事項として彼らの口は強く塞がれている。
故に、彼らのお嬢さま方からもそれはもう嫌がらせという嫌がらせを受けているのだが、父親である彼らがそれを把握していないのか、それとも「承知の末」に黙認しているのか、エリーには判断しかねた。
後者であった場合、個人的な理由からか、家を大きくさせたい野望のためなのか分からないからだ。
「夜分に失礼する。レオンだ。ジュリアン共に参った。入れてもらえるか。」
ドア越しの声に、マリーがちらとエリーに確認の視線を寄越した。
エリーはそれに頷くと、少しだけ姿勢を正す。
ゆっくり開く扉から、レオンの姿が見えると、エリーは無意識に彼の様子を見入った。
ユリアスの様子を気に掛けたときに、レオンは何かに苛立っているかのような様子で去っていった。
あれから良く考えたが、もしかしたら「嫉妬」なのではないかと思い至ったのだ。
エリーの中では「いや、それはないわ。」と冷静になれと促す部分と「あり得るわ!」というはしゃぐ声の半々で、揺れ動いていたのだ。
入って来るレオンを見つめながら、エリーは唐突に思い知った。
あの態度は、嫉妬であってほしい。
と思ったとき、エリーは泣きそうになった。
そんな望みは、彼のことをなんとも思っていなければ抱かない。けれど、もう…。
気づかないふりなんて、もうできない…。
私、彼のことが好き。
金色の輝くストレートな髪が、歩くたびにさらさらと風に靡く。青紫の瞳はいつも憂いを帯びて、時々見せる熱い視線も、揶揄うときの目も、優しく見守る温かい眼差しもすべて…私の中に刻み込まれて、思い描くたびに切なくて愛おしくて。
彼に会いたくて、声が聞きたくて、彼の視野の中に少しでもいいから私がいたらいいって思ってときめいて、彼の後ろ姿を見るたびに抱きしめたいし、その両手で抱きしめてほしいと思っていた。
一番大切な想いだけ口にできなくて、自分自身さえ騙して、ただいつか来る別れに怯えていた。
友達のままでいられるの?
まだ出逢ってもいない主人公との真実の愛を育む彼を想像しただけで、これほど苦しいのに。
もう二度と、その手に触れたいと願うことも許されない関係になっても…平気なの?
けれど、本心を告げたところで運命は変えられるのだろうか。既定路線の分からない私に。
ああ、どうしてこんな時に、気づいてしまうの。
生きていたい。死にたくない。………レオンから、離れたくない。ずっと、一緒に…。
レオンに続き、ジュリアンが入って来る。
マリーは壁際で控え、レオンはエリーのベッド横に設えたソファーに座り、ジュリアンはレオンの反対側の横に立つ。
レオンがエリーの顔をじっと見つめて、言った。
「変わりはない?」
「ええ、大丈夫ですわ。」
大丈夫だけれど、戻ってくると言っていたダンテはどうなったのだろうと胸に過る。
聞いて良いものかどうか、判断に悩む。この前のように、そそくさと帰られてしまうのを見送るのは、嫌だ。
「良かった。」
すると、黙っていたジュリアンが唐突に切り出して来た。
「ならば、この前中断していた話しをしようではないか、エリー君。呪いについて、もう少し詳しく知りたいのではないのかな?」
エリーが頷くと、ジュリアンはどこからともなく椅子を創り出し、そこに座った。
驚いて見ていると、その視線に気づいたジュリアンが説明してくれる。
「ああ、これは魔法使いとしては初心者レベルの魔法で創れる椅子だ。どこででも空気や微粒子を寄せ集めて形作り、椅子だけでなくベッドやテーブルなど自由自在だ。魔力の維持が難しい場合は長時間の使用は不可能とはなるが、学校で覚える初級となるだろうな。」
「それなら、ジュリアン様ならずっと維持できそうですわね。」
「ん?まあ、難しいことではないが、こんなものに魔力をずっと使っている気にはならないな。やむを得ない場合は可能だが。ところで、話しを戻そう。呪いについてだ。」
エリーがこくんと頷くのを確認したジュリアンは言葉をつづけた。
この世界においての呪いはあまり詳しい文献が残されていない。
それは古代人において呪いとは呪いとしての認識が薄かったか、不吉で縁起の悪いものをわざわざ記して残しておくことのほうがよほど恐ろしかったか。何にせよ、記録が残されていない。
だが、200年以上前に遡ると、霊験を積んだ神父が呪いによって被害を被った人々や、その対処についての詳細を記した書物が発見された。
この神父が広く世間に認知させ、国に直談判したことにより「呪い」の定義が議論され、その性質を鑑みたうえで法が定められていくことになった。
呪いがもたらす不幸。
それは呪いの源(発信者)である者の使う呪術の種類にもよるが、憎しみや怒りの強さでその術の振れ幅は変わってくる。
どれほど簡単な術でも、思念の強さによっては認められている効力以上のものを相手にもたらすのだ。
大抵、そこまでの強い意志を持つとき、相手がどのようになってほしいのか明確な望みが存在している。
例え、ぼんやりとした言葉にならない朧気なものでも、呪術によって生まれた黒く禍々しい「生き物」はその願いを聞き取って、相手に向かっていく。
それがほんのひとときの気の迷いで、やっぱり取りやめたいとなっても、一度でも発動し禍々しい生き物を生み出したら最後、最初に描いた望み通りの結末になるまで…――食い尽くす。
禍々しい生き物は、基本的に決して生み出した者の支配下には属すことはない。
呪いを受けた者の多くは、何かよく分からないが最近運が悪いな、という軽い程度から、社会的信用を失い普通に生きることが困難になったり、原因不明の体調不良、意識混濁や最悪の場合、死に至る重いものまでその差は大きい。
最も、最悪の場合に至りやすいのは発信者が魔力保持者だった場合だ。
呪いの特徴として、術さえ知っていれば魔力がなくても使うことができるということにある。それが魔法との大きな違いになるが、魔力保持者である人物が同じ術を使えば、その効力は一般のそれ以上の力を「禍々しい生き物」に与えることになる。
エリーの場合、リリー王妃の過去が不明瞭なこともあるが魔力は保持していないと見られることから、それほど酷いことにはならないだろう、というのがジュリアン含めた神職者たちの見解だった。
「もちろん、だからと言って放っておくことなどできない問題ではあるのだがね。」
とジュリアンは言う。
そして、ちらりとレオンの様子を確認したジュリアンは、溜め息を零すように続けた。
「術を使った者の多くは、『禍々しい生き物』が自分の支配下につくわけではないことを知らない場合が多い。時には、『自分であればなんとなかなる』と妙な自信を持っている者もいるのだがね。だが、彼らは一様にして、その恐ろしさというものに気づいていない…。」
するとジュリアンは、指先から光線を出し空中に映像を映した。
まるで前世の言うところの、スクリーン映画のようだ。スクリーンではなく、空中なのだが。
…何が恐ろしいか、それは呪いの源となった者の多くは最終的に禍々しい生き物に喰い付かれ、本人の意思を失うことだ。それは生きながらの死と言えることなのだ。
もちろん、自らで生み出したモノを自らで始末して開放された例もあるが、それはあくまで稀な話し。
多くの人は、廃人となるのだ。それが、知らずに交わした「契約」だから。
見た目はその人でも、中身はまるで違う人間ではないモノになり果てる。
そのモノの性質によって、変わらず人間のように思えるものから、狂人と言えるほどに変わり果てる場合もある。
後者であれば、他者が異常に気づきやすいから魔法省に連絡し、王室専属魔法使いや聖職者たちが確認、その後、化け物と化し本人ではなくなってしまっている場合は捕縛され、投獄される。
長い時を経て、なんとか浄化しこの世から自然と消えていくまで、その身はそのままの状態を維持し、中から化け物が消えた時、躰も朽ちる。
食われることなく飼い馴らすという曲者がごく稀にあることもあるが、それは意志の強さが尋常ではないか、生まれながらに禍々しく黒いモノの波長と似たものを身に宿しているかのどちらか。
「ここまでの話しで分かったかとは思うが、呪いを発信する側には法の罰だけではない重い代償が待っている。だが、源となった者の多くは、そんなことなど考えもしない。相手を不幸に陥れることに執念を持ち、自らも呑みこまれるのだと理性が働かないのだ。『アレの不幸をこの目にするためになら、なにをも引き換えにしてやる』という気持ちが強いのかもしれない。人は生きていれば、大なり小なりの憎しみを覚え、消えることなく嵩んでいくこともあるからな。」
その通りだ。と、エリーは思った。
前世幸子は、必死だった。必死だったからこそ、憎しみに身体を蝕まれる前に、次から次へと災難が続いていたせいで泣く余裕もなかった。
憎む気持ちが薄いなんてことではない。ただ、積み重なっていただけ。
眠る間際。静かで、自分の鼓動だけが聞こえるときに、すべてまとめて襲い掛かってくる日もある。もう終わったこと。変えられないこと。だけど、無性に悲しくなるのだ。自分の何が悪いのだろうとか、自分があの時、ああしていればこうならなかったのだろうか、とか。できもしないことを思い描く。
そして虚しくて、辛くて、起きた出来事を何度も振り返って、また悔しくて。憎んだ。
憎しみが鼓動を激しく打ち鳴らすとき、決まって身体も小刻みに震えていて、幸子は己の感情の激しさに眩暈がしていたのだ。
やがて耐えられなくなって、憎む気力すら失っていく。その狭間に眠って、起きて。また絶望する。繰り返していた。
だから、幸子の中にあったのは、繰り返し失って来た希望の残骸と、心底憎い者の顔だけだった。
それがまるで戒めのようになっていくと、いつしか希望を抱かなくなった。希望があるぶんだけ、絶望も深くなるのだと、思うようになっていたから。
からっぽのまま、日々は過ぎていった。
胸の奥底で眠るように望みが隠れていたとしても。
「私たちが一番、恐ろしいこととして捉えていること。それは呪いの源と呪われた者の間に存在する呪詛の糸に関係する。それが存在することによって、恐れる事態が発生しやすいのだ。その中で、最も重く避けたい事態。」
源が化け物に喰われ尽くす前に、コード(呪詛の糸)を切らない限り、源の事実上の死と共に受け手もまた死へと誘われるのだ。
特殊な糸は、ある意味での運命共同体となり得るということ。
源が先に事実上の死を迎える前に断ち切ることができなかったとしても、源の魂がいる次元まで行くことができればもしかしたら、断ち切ることができるかもしれないが、やはりそれも万に一つの可能性にすぎない。
今までの過去、それを可能にした実例はない。
けれど、その考えを先の神父レイが書物に記していたのだ。
『蒼き神聖なる輝きを持ちて、紅き深淵なる炎の灯火に委ねよ。
それ即ち、神代の扉を開く鍵。神の御心の幾重の世界を渡る者。
その者、黒き鎖を絶ちえる唯一無二の調べ。
未だ現れず。未だ道のり険しく。未だ謎に満ちる。
人の子の苦しみを神のみぞ、救わん。
なれど人の子の御魂の輝きに我は在り、我、真の救いを与えん。
そう私の夢の中で、仰った。私はその声を神の御心の言伝と受け止めた。』
これは、神職者及び、魔法使いの間で長く議論されることになった彼の一説だ。
夢の中の夢の話しを真剣に受け取るなどと眉唾ものだと反対する者、夢の中にこそ神聖なるものの手が届くものだから夢と言わずに真剣に考える必要があると言う者。様々な意見が飛び交った。
レイ神父による数少ない呪いへの参考文献だけが、唯一の情報源。そして増えていく現代における呪いの実態調査結果。
照らし合わせて研究し、やっと『蒼き神聖なる輝き』は何を示しているのかが分かったのだ。
だが、それが未だに見つけることのできない救いの魔法石であることに気づいたとき、研究者は一同に溜め息を零した。研究はそこで終わり、呪いからは誰も救えないのか。と、皆の溜め息が嘆息に変わるとき、事態は急変した。
ふうと、ジュリアンは口を閉ざし振り返った。
エリーと王妃のことが起きた後、石を持っているかもしれない少女がこの街にいるかもしれないと神託が示されたのだ。
秘密裏に探すにも、探し手にその石の気配は掴めず難攻を極めた。ならば、我ら魔法で突き止められないかと粘ったが、魔法石の力なのか気配がまるで読めない。というより、掴めないように魔法石の意志で気配をあちこちに分散させているようで特定できないのだ。
今度は少女の居場所を探せばいいと試みるも、魔法石の力のせいか掴めなかった。
代わりのように神託が示して来た目印は「金色の輝く髪の美しい少女」ということだ。この街に輝く金髪の少女がどれほどいると思っているのかと、神託を小一時間ほど問い詰めたい気持ちになったものだ。
美しいというのも、言うなれば主観の違いによっては美しさなど定まることのないあやふやなもの。
その線はレオン王子に任せているが、ある少年の手を借りることにしたのだそうだ。
それはともかくとして。
「青い石までは分かったが、紅い炎の灯火は何なのか未だに掴めない。だが、レイ神父が遺した書物で分かる通りに、そこに何かヒントがあるのだと考えている。一番良いのは、早くに断ち切ることだ。だが、幸いなことにリリー王妃には魔力もなく現時点でも術の変更や追加もされていないから、間に合うだろう。今、さっそく儀式のための準備をしているところだ。」
エリーのことについては、これほど何度も大丈夫だと繰り返しながら、どうしてここほど詳しい話を聞かせるのか、エリーには何か意図があるのではないかと勘ぐった。
石がなくても儀式さえ行えば、呪いは解けると口にしていても…何か思い当たる節があるのだろうか。
「ジュリアン様、…儀式を行って、私が助かったとして…王妃様はどうなるのでしょう?」
「…それは、彼女の中に根差した魔の手がどれほど喰ったのかに関わってくる。エリー君の命と引き換えになることはまずないから気にすることではない。」
「ですが…友人の、母でもございましょう。私はご本人様のことも気にはなりますが…その方を慕う方のことのほうが気がかりですわ。」
「なるほど…そういうものか。」
ちらとジュリアンがレオンの様子を見ると、なるほど彼はどうにも弟君への嫉妬心を持て余しているようだ。厄介なものだな。
エリー君には、弟君へ異性としての感情は見えないというのに。
それどころか、レオン王子への想いをも困惑し、見て見ぬふりをしている様子だというのに。
エリーが呟く。
「レイ神父様の書物ですが……『神だけが救えるだろう。けれど、人の中の輝きにこそ神は在り、人の中の心の輝きにこそ真の救いがある…。幾重の世界を渡る者。蒼い石と、紅い何かが鍵となり神代の扉を開く…、だが未だ現れず。』と、言うこと合っておりますでしょうか?」
レオンとジュリアンが一瞬、呆気に取られて目を見開いている。
「…ああ。エリー君、この書を読んだことがあるのか?」
「いいえ、全く。初耳ですわ。」
だが、蒼い石。
それだけはどこかで聞いたような気がするのだ。青い石。あおい、石。
その時、ドアが叩かれた。
「失礼します。ジュリアン様、そろそろお時間です。」とジュリアンと同じ黒い服を着た青年が顔を出した。
「もうそんな時間か。エリー君、そういう訳で、今我々は儀式のための準備を行っている最中だ。君も心して待っていてくれ。…多少、辛いことには変わりないだろうから。この件は更に追って話すとしよう。それでは失礼する。」
「お時間頂いて感謝したしますわ、ジュリアン様。」
頷き去っていくジュリアンを見送ると、エリーはさっきから黙ったままのレオンに視線を向ける。
「レオン様。」
「うん?」
「お疲れのようですわ、きちんと休まれていますの?」
「いや、どうだろ。俺なりには休んでいるつもりなんだけどね。」
うまいこと疲れは取れないものだね、とほがらかに笑うレオンを見つめながら、エリーは喉から今にも飛び出そうな言葉に戸惑った。
今、言うべきではない。
分かっているのに、彼の顔を見ている、姿がそこにあるというだけで気持ちがこみあげてくる。
その時だった。
レオンがすうと息を吸い、口にした言葉で、エリーの思考は止まった。
「ジュリアンが言っていた石の件だけど。神託によって示された結果として、『金髪の少女』が手にしていると出たらしいのだ。」
カチリと音を鳴らして記憶の中でピースがはまる。
私は、ずっと前に思い出していたはずだ。
主人公の紹介文で出ていたではないか。
『私、おばあちゃんから貰ったこの青い石が大好きなの!』
確かに、キャサリン・バルトの紹介文の最後に台詞として出ていた。
関係ないかもしれない。でも、関係ないとは言い切れない。
なら、今すぐレオンに教えたらいい。彼と出会う日が早まるかもしれないけれど。
「すごく美しい少女だとも示したらしい。…その石を見つけ出したら、どうなるのか分からないがジュリアンたちはすごく今回の件に用いれたら何かもっと詳しいことが分かるのではないかと真剣に考えているようだ。その石が何かヒントになるのではないかってね。」
そう、すごく美しい少女だわ。
彼女の右に出る者はいない。レオンの隣に立っても見劣りしない、稀有な美しさ。
ああ、駄目。
レオンにキャサリンを会わせたくないと思ってしまっている。これでは原作のエリーと同じではないか。ただ少し、時期が早まっただけで。
だから、「もしかしたら」って切り出せないのでしょ?
ジュリアンを含めた人々が彼女を探している。彼女が解決の鍵となるキーパーソンかもしれないから。私以外の「呪い」の関係者たちをも救えるかもしれないから。
なら、私にできることは、それとなく情報を提供するだけ。……それだけ。
「…それは美しい……美しいブロンドの少女を……」
だが、エリーの口は先へ進めなかった。
それは嫉妬からでも思惑からでもなんでもなかった。
心臓を貫くような激しい痛みが駆け抜け、息ができなくなったのだ。
喉が詰まり、声が出ない。かすかに通る空気にしがみついて酸素を取り入れようと身体がもがく。
「…っ、レ、レオ、ン様」
「エリー!?どうした、痛いのか?」
エリーが胸を掻きむしり、片手でレオンの手を取る。
死にたくない。そばにいて、ずっと手を繋いでいたい。
「…キャ、…ッ。キャシー……」
最後に彼女の名をやっと口にすると、視界が黒く染まっていった。
手に残る温もりを必死に掴んで、エリーは胸の中で大きく膨らむ言葉に苦しくなった。
好きだと、伝えたかった。
知らず流れた涙が、ぽたりと落ちる頃、エリーの身体は無数の光の泡に包まれて、消えていた。
つんざくようなレオンの声と、泣き叫ぶマリーの声を聞きながら。
忽然と姿を消したベッドには、エリーがそこにいたことを示すようにわずかな温もりを残しているだけだった。




