224話〜黒の帳簿〜
砂嵐が港を呑み込んでいた。
視界は数歩先も見えず、銃声と叫びが断続的に響く。
《ラ=レグリア号》の船員たちは散開し、各商館の影へと身を隠しながら応戦していた。
その中心で、エレナーは剣を構えたまま一歩、砂を踏みしめた。
「黒い旗を掲げる者たち……“影印”を使うとはね。
まさか本当に甦るとは思わなかったわ」
隣でカークが唾を吐く。
「百年前に潰えたはずの商人ギルドの亡霊だろ。
だが連中、銃も剣も新しい。まるで――軍だ」
「……軍ではない。“契約者”たちよ」
エレナーの言葉に、カークが眉をしかめる。
「契約者?」
「影印は、命と金を交換する契約。
一度刻まれれば、金が尽きるまで死なない」
「……冗談だろ」
その瞬間、倒れたはずの黒装束の男が立ち上がった。
胸を撃ち抜かれたはずの穴から、黒い霧が漏れ出す。
「“金座の犬”め……金の女神に見捨てられろ……」
「っ、後ろだエレナー!」
カークが叫ぶより早く、エレナーの剣が閃いた。
一閃。黒装束の首が落ち、霧が砂に散る。
「死なないなら、動けないようにすればいい」
その冷徹な声に、敵味方の息が止まった。
だが彼女の視線はもう遠く――港の奥、崩れかけた倉庫群の影へ向いていた。
そこに、微かに“金”の気配がある。
「……あそこね。ガルド・サーヴェンの帳簿は」
◆
倉庫街の一角。
崩れた屋根の上で、黒衣の老人が手帳を開いていた。
金糸で綴じられた帳簿――“黒の帳簿”。
「やはり来たか、エレナー。お前の嗅覚は衰えておらん」
ガルド・サーヴェン。
かつて金座を統べた“最古の商人”は、静かに笑った。
「ヴェルド=エンはもう長くはもたん。
金は血のようなものだ。流れが淀めば、腐る」
帳簿を指でなぞると、黒い文様が生き物のように脈動した。
「これはな、“世界の帳簿”だ。
誰がどこで何を得、何を失ったか――すべて記される。
そして“支払い”がなされぬ限り、帳簿は新しい命を喰らう」
背後の黒霧がざわめく。
その中で、かつての商人や傭兵の影が呻き声を上げる。
「お前が追う金の流れは、すでに“死の金”に変わったのだよ、エレナー」
◆
エレナーは倉庫街の奥に足を踏み入れた。
湿った空気。壁の内側には無数の印章が刻まれ、光を吸い込んでいる。
足元には焦げた金貨――それらはすべて、“支払い”の残骸。
「……ガルド。あなたは何を求めているの?」
暗闇から声が返る。
「“均衡”だよ。
金座は富を積みすぎた。世界の秤が傾いている。
私はその秤を戻す――“黒の風”でな」
エレナーは剣を構え、低く息を吐いた。
「ならば、私は“金の風”で抗う」
一瞬、二人の視線が交わる。
その間に、砂嵐が裂け、月光が倉庫の中を照らした。
ガルドの背後、黒霧の中に浮かぶもの――
それは巨大な黒い羽を持つ蛇。
「……まさか、“影印”の原型を呼び出したの!?」
「契約は果たされた。
金座が築いた“虚の信用”を、蛇が喰らう」
黒い蛇が咆哮し、倉庫を破壊した。
港全体が震動し、海が逆巻く。
エレナーは風に乗るように跳び、剣を構える。
「――“金座の風よ、吹き荒れなさい”!」
剣先から金色の光が走り、蛇の眼を撃ち抜いた。
黒と金がぶつかり合い、空が裂ける。
ガルドが呻く。
「まだ……“均衡”は崩れていない……!」
「ええ、崩させはしない。
あなたの帳簿――ここで閉じる!」
金の光が倉庫を包み、黒霧が悲鳴を上げて消えた。
そして、静寂。
砂嵐が止み、海に再び月が映った。
◆
夜明け。
ラサ・ハム港の桟橋で、カークが息を吐く。
「結局、あの老狐はどうなった?」
エレナーは金の欠片を見つめた。
「姿は消えた。でも――帳簿は焼け落ちた。
ただ……“黒の蛇”の核だけが、まだ海の底にある」
「また厄介な種を残してくれたな」
「そうね。でも、潮は変わったわ。
金と黒、どちらの風がこの世界を動かすか――
それは、これから決まる」
彼女の眼差しに、朝日が射した。
船員たちが《ラ=レグリア号》へ戻り、帆を上げる。
風が再び、金の香りを運んだ。
「出航するわ。次は――“灰の都”よ」
砂の国の港を後に、白帆がゆっくりと動き出す。
遠く、波間に黒い霧が蠢いた。
それはまだ消えてはいない、“黒の帳簿”の残響だった。
──続く。




