223話〜砂の影、ラサ・ハム港にて〜
砂と熱風の国――バハンタール公国。
その玄関口《ラサ・ハム港》は、海と砂漠がせめぎ合う境界の町だ。
かつては金貨と香辛料で溢れた交易の中心だったが、今は黒雲が太陽を遮り、潮は濁り、街全体が息を潜めている。
その海に、白帆の船が一隻。
《ラ=レグリア号》。
船首には、ヴェルド=エンの金色の紋章が輝いていた。
その甲板で、ひとりの女性が荒れた海を見つめていた。
長い黒髪を風になびかせる――
エレナー・クレスト。
ヴェルド=エンの船団を統べる船長であり、現“金座”議長メリッサの最も信頼する実行者。
彼女の背後では、波が黒く泡立っていた。
「……潮の流れが変わってる。まるで、海が脈を打ってるみたいね」
舵輪を握る航海士ダリオンが答える。
「ええ。ここ数日、南海の潮が逆流してます。
海竜も見えず、魚も消えた……。まるで“何か”が、海の底で動いている」
エレナーは短く息を吐いた。
「“黒霧”が、ついに海を越えたのかもしれない。
……金座の議長が言っていた通りね」
その名を出すと、空気が少しだけ引き締まる。
今、ヴェルド=エンは動乱の最中にある。
前議長ガルド・サーヴェンの逃亡、そして黒霧騒動の余波。
メリッサは都市の統制を保つために残り、
代わりにこの“追跡任務”をエレナーに託したのだった。
「ガルド・サーヴェン。あなたの影、掴ませてもらうわ」
《ラ=レグリア号》がラサ・ハム港に入港すると、
褐色の肌の商人たちが駆け寄ってきた。
「ようこそ、ヴェルド=エンの方々!
ですが申し訳ない……街の情勢が、今は不穏でして」
「不穏?」
「はい、公国の監察官が昨日から各商会を査察しています。
“外資の排除”が命じられたとか……」
「監察官の名は?」
「……ガルド・サーヴェン、だと聞いております」
甲板の空気が一瞬で凍りついた。
エレナーは冷ややかに目を細めた。
「やはり、生きていたのね」
航海士ダリオンが低く唸る。
「こちらの動きを読まれていたのか……」
エレナーは首を振る。
「違うわ。あの老狐は“風”を読んだのよ。
金の流れと、運命の潮をね」
そして、短く命じた。
「全員上陸準備。偽装は解かない。
ここでは“金座の名”より、“商人の顔”で動く」
夕刻。
砂漠の風が吹き抜け、ラサ・ハム港の市場は混乱していた。
エレナーはフードを被り、密かに情報屋の店に入る。
「……ガルドの行方を探しているのは、あなただけじゃない。
数日前、正体不明の“黒い商団”が港に入ってきた。
彼らは全員、ヴェルド=エンの貨幣を使っていた」
情報屋の声に、エレナーの眉が動く。
「ヴェルド=エンの貨幣? それは……」
「そう。“金座”の帳簿から消えた金。
おそらく、ガルドが流したものだ」
エレナーは立ち上がる。
「帳簿を奪われただけでなく、“信用”まで売られた……
彼は本気でヴェルド=エンを潰す気ね」
その時、外から銃声が響いた。
「っ!」
市場が騒然となり、衛兵たちが倒れる。
埃と火薬の匂いが広がる中、黒装束の男たちが現れた。
胸には、ヴェルド=エンの金章――。
「……偽装部隊。奴の手口ね」
エレナーはすぐに抜剣した。
「船員たちに伝えて! 武装を解くな!」
背後で傭兵団《紅潮》の頭領カークが笑いながら剣を抜く。
「姫の右腕さん、随分派手な歓迎だな!」
「冗談を言ってる暇があったら動きなさい、カーク!」
二人の背後で、火花が散る。
砂煙の向こうで、黒い旗が翻っていた。
そこには――**“裂けた翼を持つ蛇”**の印章。
「……“影印”」
エレナーが呟く。
それは、禁忌の契約を象徴する印。
大陸中で消えたはずの、古代商人ギルドの闇の印章だった。
「やはり、ガルドは“黒の帳簿”を継いでいる……」
銃声と砂嵐の中、エレナーは静かに剣を構えた。
「ヴェルド=エンを穢す者には――
このエレナー、容赦しない」
嵐が吹き抜ける。
砂の中で、ガルド・サーヴェンの影が、遠くの倉庫の屋根から彼女を見下ろしていた。
「……やはり来たか、エレナー。
“金の風”を吹かせるのは、私ではない。
だが“黒の潮”を止めることも、お前にはできまい」
月光が差し込み、彼の背後で黒霧が揺れた。
ラサ・ハム港を覆う砂嵐が、嵐そのもののように吠える。
そして――《金と黒》、
二つの風が交わる戦いの幕が、静かに上がった。
──続く。




