26.少し新しい日常の始まり
午前八時。朝の澄んだ空気の中を恵里は白い息を吐き吐き走っている。何かに追われているというわけではなくて、ジョギングだ。走り始めの三日ほどは心臓が痛くなるほど辛かったが、ひと月たった今では倍の距離を走っても苦にならない。だいたい朝のこの時間と夕方に一時間ずつ、近くをジョギングするのがここ最近の恵里の日課だ。
恵里が体力づくりを思い立ったのは、自分の体力のなさを痛感したからだった。ペギア伯爵邸での裁判の翌日、ベッドから起き上がれないほどの筋肉痛に襲われたのだ。オルロからペギア伯爵邸まで空飛ぶ盾で全力疾走したのが原因だろう。その上魔法の使い過ぎのせいか熱も出て、三日ほど寝こむ羽目になった。これでは魔動バイクでの旅などできようはずもない。どのみち西の山脈が雪に閉ざされている間は動けないのだし、体力をつけるなら今のうちだというわけでこうして走り始めたのだった。
恵里が不在の間の店番をしてくれているのはリー・ジーだ。イラケイアの剣士、今ではペギア伯爵家で剣術指南をしているドゥー・ジーの娘である。
リー・ジーが失声症になった経緯を知って、恵里はやはり魔女を紹介することにした。それというのも彼女が強い魔力の持ち主で、それを上手く制御できずに実母を傷つけてしまった苦悩のゆえだとドゥー・ジーに聞いたからだ。
「では奥様は…」
恵里が遠慮がちにドゥー・ジーに尋ねると、彼はハハ、と笑った。
「いや、妻はピンピンしている。頬に少し火傷の跡が残った程度で妻は何も気にしてはいないのだが、娘はいたくそれを気に病んでな。不用意に発した言葉が魔法を産み、また傷つけてしまうのではないかと恐れて声を失ったのだ」
「そうだったのですか。それで、奥様は?」
「小さな食堂をしているから郷に残して来ている。今回ペギア伯爵様に正式に職を頂いたので、こちらへ呼ぶつもりだ」
「ではご家族皆で暮らせるのですね、それは良かった」
「これも皆、あなたのお陰です。本当に感謝している」
「いえ、まさか、とんでもない!」
ドゥー・ジーのようなひとかどの人物に頭を下げられるのはどうにも居心地が悪い。恵里は顔を上げてくださいと慌てた。
「…それはそうと、リー・ジーの事なんですが、今どこに?」
「故郷で妻と共に引越しの準備をしているよ」
「実は私、アーデルという魔女と知り合いでして、リー・ジーは魔力の制御法を魔女に教わったら良いのではないかと思うんですよ」
「……」
ドゥー・ジーは思案顔で黙り込んだ。デンインに同じことを言われてころりと騙されたのだから、躊躇う気持ちは分からなくもない。
「私は魔法も薬草についても魔女アーデルに教わりました。ディジルを知っていたからあなたに辿りつけたし、空を飛べたからあなたを止められた。全ては魔女のお陰です」
「疑う訳ではないが…魔女アーデルなどと、あれは伝説だろう。私が子供の時分からその名は知っているぞ」
「なんてったって魔女ですからね、あのバァさんは。今もサルヴォ伯爵領の東の草原に住んでますよ。まあ、物は試し。担がれたつもりで訪ねてみてください。草原は魔獣が出ることもあるが、あなたならば大丈夫でしょう」
「相分かった。ご厚意に感謝する」
という遣り取りをしてから二、三週間経った頃である。
恵里の店を訪ねてきたリー・ジーが元気よく「お世話になります」とお辞儀をしたのだった。恵里は面食らって「へっ?」と間抜けな声を出した。
「アーデル先生が、ニーノ様の下で修行するようにとおっしゃいましたので参りました。よろしくお願いいたします」
「えっ、ちょっと待って、どういうこと?」
寝耳に水である。
「魔法の制御方法と理論については教わりましたが、精度を高めるには継続的な訓練が必要だということでした。ニーノ様は魔法で様々な作業をしておられるので、手伝って覚えるようにと」
リー・ジーは大変良い子だ。実に生真面目で礼儀正しい。だが魔女にはそれがすこしばかり窮屈だったのだろう。つまりこれは体の良い厄介払いだ。恵里は「ニーノ、頼んだよ」とニヤニヤする魔女の顔を思い浮かべてため息を付いた。魔女がそうしろと言ったのならリー・ジーの魔法制御に問題はないのだろう。それに彼女のような若くて可愛くて真面目な娘が店を手伝ってくれたらどんなに良いだろうとは思う。
「そうしてもらいたいのはやまやまだけど、今はお給金を払えるほどの余裕がなくてさ…」
「修行させていただく身ですから、まさかお手当は必要ありません。ただ、住み込みで働かせて頂けると助かるのですが」
店舗の地下は倉庫、二階は物置として使っているので、そこを整理すれば寝起きするスペースくらいは確保できる。それぐらいはどうということもないし、リー・ジーの申し出は願っても無いことだが。
「でも、いいの?それで」
「では置いていただけるのですね!ありがとうございます!」
ぱあっと花が咲いたような笑顔。こんなに邪気なく喜ばれてしまってはもう否とは言えないだろう。恵里は苦笑しつつ手を差し出した。
「これからよろしくね、リー・ジー」
「お願いいたします、ニーノ様」
というわけで恵里の店の従業員となったリー・ジーは、初めこそ力加減なく製パン機を回してそこら中を小麦粉まみれにしたり、ホットドッグ用のウィンナーを消し炭にしたりしたものの、魔法の使い方に慣れた今ではすっかり店の看板娘になっている。器量良しの上にしっかりした所もあって、恵里は安心して店を任せられるのだった。
このところの恵里にはジョギングの他にもうひとつ日課がある。ルシアーノに剣の指導をしてもらうことだ。
デンインに殺気を向けられた時、恵里は対処することも逃げることすらもできなかった。そんな自分の不甲斐なさが悔しかった。旅に出ればいつかまたそういう場面に遭遇するかもしれない。その時に同じ轍を踏むようでは今度こそ命はないだろう。客死なんて真っ平だ。そう思って、恵里はルシアーノに手を合わせて拝んだのだった。
「お願い!この通り!」
承諾を得るのは難航するかと思いきや、ルシアーノはあっさりと「いいよ」と頷いた。その時は少し拍子抜けした恵里だったが、指導を受け始めてからその訳を思い知ることになる。
ルシアーノと恵里はトルド家の中庭で剣を手に相対している。緊迫した空気。ルシアーノが誘うように半歩下がった。恵里は右足を前に出して剣を振り下ろす。があっさりと避けられ
「踏み込みが甘い!」
としたたかに小手を打たれる。恵里が思わず剣を取り落とせば
「剣を手放すな!」
と一喝、剣を拾おうとすれば
「相手から目を離すな!」
今度は肩口に厳しい指導が打ち込まれるのだった。恵里は涙目でルシアーノを見上げるが、飄々と見下ろす彼は一辺の酌量もする気はないらしい。
「ルカってば私をいたぶって楽しんでんじゃないの!?」
ルシアーノによる剣の講習を受けるようになって以来、身体に青あざがない日はなかった。とにかくスパルタなのである。思わず恨み言をつぶやく恵里だった。
「まるでセンスのないド素人に初歩から教えてやっているんだ。感謝しろ」
「そりゃ感謝してるしありがたいとは思っているけど、もう少し優しくさあ」
「理論を教えて実践できるならそうしている。お前は、身体で覚えないと駄目だろう」
恵里はうっと言葉に詰まった。確かに自分はそのタイプだ。恵里は返す言葉が見つからず、「ひどい言い草」とブツブツ言うことしか出来なかった。
「最初はこいつに剣を教えることなんて出来るのかと頭を抱えたんだぞ」
「そんなにヒドかった?」
ルシアーノは腕組みして眉根を寄せ、ため息まじりに深く頷いた。…何それ、傷つくなぁ。
「お前、剣を捨てて目をつぶっていただろう。もう、言葉がなかった」
ルシアーノに教えを乞うた初日、お前の実力を見たいと言われて剣を持って向かい合った時のことだ。ルシアーノが剣を振り上げると、恐ろしくなった恵里は剣を放り出して両手で頭を庇ったのだ。だって仕方がないじゃない、真剣の勝負なんて今までしたことがないだもの、と恵里は唇を尖らせた。
「それをひと月でここまでにしたんだ。文句があるのならやめたって構わないんだぞ」
ルシアーノの言う通り、今ではそこまでの失態はない。目の前で剣を振られても目をつぶる事はなくなったし、型の練習をしているからかそれなりに対処できるようにはなっていた。ひとえにルシアーノの指導の賜物である。恵里は頭を下げた。
「いえ、申し訳ありません。続けて下さい。お願いします」
「よし」
ルシアーノは短く言って、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。やっぱり私いたぶって楽しんでるでしょ!と心の中で叫ぶ恵里なのだった。




