18.チンピラの現在と美少年の過去
トルドの屋敷はあまり豪邸という風ではなかった。市街地にある石造りの五階建てで、一階は武器屋になっている。中庭が少しあるくらいで通りに並ぶ他の建物と大差はなく、トルドの商売の誠実さを思わせた。
ルシアーノに案内されたその屋敷の一室にバドは寝かされていた。胸から腹を覆う包帯が痛々しいが、思ったよりも顔色は良い。かなり手厚い看護を受けているようだ。
「怪我の具合はどう?」
恵里が声をかけると、バドは体を起こそうとして顔をしかめた。
「寝ててよ、無理をしちゃいけない。これ怪我によく効く薬草ね」
恵里は傷の治りを助ける貼り薬、それに消炎鎮痛効果のある煎じ薬を持って来ていた。傷を縫った後は本人の体力と治癒力任せだということだったから、そう差し出がましくもないだろう。
「なんでお前が…」
「今度のことであんたの名前を聞いたもんだから。まっとうに働いてるんだ?」
「…前にお前に諭された後、正直言ってむかっ腹が立って収まらなかった。てめぇだってだって大した人間じゃねぇくせに、偉そうに説教たれやがって…ってよ」
「うん、まぁその通りだ」
恵里は己が恥ずかしくなってうなだれた。バドの言う通り、あの時は、いや今だって大した人間ではないが、今以上に堕落した生活をしていた頃だ。とても人様を批判できるような立場じゃない。
「いや、違う。俺、見てたんだ。お前を痛い目に会わせてやろうって馬鹿なこと考えて、付け狙ってたんだよ」
「そうだったの」
自分と大差ない者に人格否定にも近い説教をされれば誰だって腹が立つ。バドが仕返ししようと思うのも当然だ。
「でも…お前あれからすぐパンを売りはじめただろう。俺、一度顔を隠して買ったことがある。お前のパン、すげぇ美味くて、食ってて泣けてきたよ。自分が情けなくて仕方なかった。お前のパンはあっという間に評判になって客も増えてよ、でもその間俺は何やってた、物陰からお前のこと睨んでただけだ。そんな自分に愛想が尽きたんだ」
「私はバドが堅気になったと知って嬉しかったよ。お互いあの頃はどん底だったんだ」
「けど結局…マトモに働いて迎えに行くつもりだったミーズはセミオンと結婚しちまうし、挙句俺は大した働きもできずにこのザマだ」
「名誉の負傷でしょ、荷も全部奪われずに済んだんだし」
「護衛だぜ。一部でも奪われちゃ終ぇなんだよ」
バドは投げやりに言った。きっともともとは責任感の強い男なのだ、だからこそミーズとの逃亡計画の無責任さを諌められたのが堪えたんだろう。
「あんまり自分を責めなさんなよ、多勢に無勢だったんだし。仇は討つから」
「…あぁ?」
「今度のことで奪われた剣というのが友人の作でさ、今その行方を追ってる。もしかしたら犯人の手がかりがないかと思って、見舞いがてら訊きに来たんだ。何か覚えてることない?」
「役に立てるかどうか…覆面の三人組で、背格好は俺とあまり変わらない。一人腕の立つ奴がいて、後の二人は大したことなさそうだった。…そういえば、そのうちの一人が左腕に刺青を入れてたな」
「刺青?どんな?」
バドは眼を閉じ、眉間にシワを寄せて唸った。必死に思い出そうとしているようだ。
「チラッと見ただけで確かじゃないんだが…蛇か、トカゲかそんな感じだったと思う。俺がそいつの肩の辺りを斬った時に袖が破れて見えたんだ」
「てことは、相手は怪我してる?」
「掠った程度だけどな。…俺が分かるのはこれくらいだ」
バドは済まなさそうな顔をした。
「十分な手がかりだよ、ありがとう。しっかり養生して早く復帰してね」
「ああ。そしたら…お前の店、行ってもいいか」
「もちろん。待ってるよ、お大事に」
恵里は片手を上げて踵を返した。バドに会いに来て良かったと恵里は思う。手がかりが得られたからというのももちろんあるが、バドの人となりに触れられたからだ。同じ時期に光の見えない深みでもがいていたという仲間意識がどこかにあるのかもしれない。お互いがあの泥濘から抜け出せたことが嬉しかった。だから部屋の外で待っていたルシアーノに「どうだった」と尋ねられて、恵里は「バドは良い奴だ。気持ちのいい男だよ」と頓珍漢な返答をしたのだった。
「せっかくだから、トルドさんに会いたいんだけど」
恵里がルシアーノにそう打診してみると、彼は逡巡する素振りを見せた。
「あんたの事は何も言わないよ」
「…分かった。こっちだ」
ルシアーノは建物の最上階の一室に恵里を案内してくれた。他の部屋とは趣を異にした豪奢さで、毛足の長い絨毯にマホガニーのデスク。採光の良い大きな窓には何枚ものガラスが嵌め込まれていて、調度品こそシンプルなもののいかにも贅沢な書斎である。繊細な細工の施された椅子に座る白髪の老紳士がどうやら武器商人トルドのようだ。
ルシアーノはトルドに恵里のことを簡単に紹介した後、外で待っていると部屋から出て行った。余計なことを言ったりはしないと、恵里はそれなりに信頼されているらしい。
「はじめまして、新野田恵里と申します」
「あぁ…君は…」
トルド老人は億劫そうに体を起こした。疲れきった様子だった。その心労は察して余りある。恵里はどうぞそのままで、と立ち上がろうとしたトルドの元にひざまずいた。
「もう私も歳だ、そろそろ息子に代を譲るつもりでいた矢先にこんなことになって…」
「心中お察し申し上げます」
「心当てはついている」
が、トルドの口からは言えない。証拠は今のところ何もないのだ。
「ところで、ご同業のデンインとはどのような男かご存知でしょうか?」
「もともとは鍛冶師だった。腕も悪くなかった。だが、金儲けの味を覚えてしまった。鉄は鍛えるごとに強靭さを増していくものだが、デンインは鋳造したものを研いだ粗悪品を作るようになってね。私は当然、彼へ仕事を回すことはなくなった」
「それを逆恨みしていると?」
「そしてさっき君が言ったように今や”同業者”だからね。目障りに思っていることだろう」
「なるほど」
見舞いの言葉を述べて辞そうとした恵里を、トルド老人が呼び止めた。
「君はルシアーノをどう思う」
「どうと言われましても」
「あれは人嫌いなところがあるだろう。気を許す者がほとんどいない。君は、私とルシアーノの歳が離れ過ぎているとは思わなかったかね」
確かに、十五、六のルシアーノの父にしてはトルドはいささか老けすぎているというか、親子というよりも祖父と孫と言った方がしっくり来るような年齢差に見える。
「ルシアーノは私の一番下の妹の息子でな、本来は叔父と甥の関係だ。妹はルシアーノが六つの時に亡くなったのだが、夫だった男とその後妻というのが反吐がでるような下衆だった」
トルド老人は極めて不快な様子で吐き捨てるように言った。
「その者達はルシアーノを虐待していたのだ。まだ幼い彼を、性的にだ」
「ああ、何ということ…」
恵里は思わず口元を覆った。
「私はそれを知ってすぐに引き取ったが、それまでの三年間、彼はずっと凶気に晒され続けたのだ。…彼の心の傷の深さは如何ばかりかと思う」
「なぜ…、なぜ私にそのような話をされるのです」
「理由はどうあれ、ルシアーノがこの屋敷に連れて来て私に誰であるかを紹介してくれたのは君が初めてなのだ。彼が能動的に人と関わろうとしたことを私は嬉しく思うのだよ」
「しかし、私は彼を救ったりなどできません。そのような人間ではありませんよ」
「ただ友人であってくれ。それだけでいい。そうしてできれば、彼のために少しだけ祈ってほしい」
彼の心が平安であるように。恵里は頷き、トルドに握手を求めた。細く骨ばった皺だらけの老人の手は、握手を解くと恵里の頬を拭った。知らず、恵里の頬を涙が伝っていた。




