09.二つの家族、二つの祝福
ミーズを一目見て伯爵は、「おお…」と言ったきり絶句した。恵里が伯爵?と声をかけるまでのたっぷり十数秒、伯爵の時は止まっていた。
「いやはや失礼した、あまりにお美しいのでね。あなたのような方を養女に迎えられて光栄です」
「ご配慮に心より感謝いたします」
ミーズは品格高き淑女に相応しい所作で礼をした。思わずほう、とため息の出るような流麗さだった。オルロで過ごした十年近いブランクをまるで感じさせない、それは純然たる貴族の姿だった。心を穢されぬ彼女はこうも気高く美しい。
「手続きは既に済んでいる。君の新しい家族を紹介しよう」
「家族…」
ミーズが呟く。本来ならば何よりも温かく誰よりも信頼できるはずの家族。ミーズの頬を涙が伝った。サルヴォ伯爵はそれを親指で拭って諭すように言う。
「いいかい、ここが君の帰る場所だ。セミオンに虐められたり、虐められなくても何かあったり嫌いになったりうんざりしたり飽きたり、何もなくてもいつでも帰っておいで。君は私の娘だ」
泣き笑いを浮かべるミーズを伯爵が抱きしめる。ああ、サルヴォ伯爵に頼んでよかったと恵里がうるうるしていると、後ろから声がかかった。
「そのレディが僕らの新しい妹なのか?」
フェーデレだ。ロベルトとラウレッタ、そしてアメリアもいる。
「皆様はじめまして。アール伯爵領より参りましたミーズと申します。この度伯爵様のご厚意で…」
ミーズが挨拶を言い終わる前にアメリアは駆け出し、飛びついた先は恵里ではなくミーズだった。待ち構えていた恵里は、拍子抜けしてガクッと片膝を折った。アメリアはミーズにくっついて離れないし、皆驚いたような顔でミーズを見ている。最初のサルヴォ伯爵の反応そっくりだ。恵里は怪訝に思ったが、拒否されているというわけでもないようだ。セミオンの元に嫁ぐまでの数日間、ミーズはサルヴォ邸で過ごすことになっている。既に伯爵とアメリアはミーズを受け入れているようだし、他の皆ともすぐに打ち解けるだろう。サルヴォ一家の面々に曇りのない笑顔で対応するミーズを見届け、恵里はサルヴォ邸を辞したのだった。
サルヴォ伯爵一家の不可解な態度については、その後、セミオンが親しい者だけを招待して行ったミーズのお披露目パーティーの時に判明することになる。
ほとんど身一つで嫁いでいったのでミーズの部屋はそのままになっていたが、ミーズが是非にと言ってくれたので恵里が代わりに住んでいた。そこへセミオンの使者がたいそう立派な披露宴の招待状を届けてくれた。この世界ではじめて受け取る自分宛の手紙に恵里はいたく感動した。どこへ居ても何をしていてもずっとよそ者の感覚は抜けなかった。どこか落ち着かない、ソワソワした気分だった。それが一通の招待状で、すんなりと地に足がついたというか、この世界での居場所を得られたような、そんな気分になった。それは言い様のない安堵感を恵里にもたらした。ここにいても良いのだと、この世界での自分の存在が認められたという安心感だった。こうして恵里は異世界の住人の一人となった自分に気づいたのだった。
さて、恵里は淑女の装いに身を包み、ミーズの残していった化粧道具で久しぶりのメイクをし、共同住宅の前で待っていると、招待状にあった通り迎えの馬車がやって来た。スラムにほど近い雑然とした裏路地にはあまり似つかわしくない瀟洒な馬車である。早朝パン屋のお陰で共同住宅や近所には見知った顔も多々あり、彼らが白馬の馬車の登場に驚きざわつき始めると、恵里は急に自分の出で立ちが恥ずかしくなった。どうやら誰もそれが恵里だとは気付いていないようだったが、恵里は顔を隠すようにそそくさと馬車に乗り込んだのだった。
川べりの高級住宅街の一角にセミオンの屋敷はある。門から白い壁の屋敷が小さく見えるほど広い庭には青々とした芝生、丁寧に手入れされた庭木、そして色とりどりの花。趣きのある庭だ。成金趣味とは程遠い、とは屋敷内に招き入れられても同様の感想を抱いた。落ち着いていてさりげない一級品ばかりの調度品。ミーズに毎日のように聞かされていたから会ったような気になっていたが、実際に会うのは初めてのセミオン。サルヴォ伯爵の言葉から、もっとギラギラした野心家かと思っていたがなかなかどうして、スラリとした長身の品の良さそうな紳士である。
「初めてお目にかかります、新野田恵里と申します」
「やあ、君がニーノか。まったく、君は余計なことをしてくれたものだ。まさかディアゴを父と呼ぶことになろうとは、何たる屈辱!」
セミオンは芝居がかった口調でそう言い、恵里の肩をガシっと抱いた。
「出すぎた真似をどうかお許し下さい」
「いいや、ダメだね。君にはたっぷりと働いて償ってもらう。まあ、その話は後でゆっくりとすることにして…」
恵里は償いって何だ、と落ち着かない気持ちだったが、セミオンがこっちだと促すので大人しくその後について行った。
三々五々に集う祝宴の招待客はみな一目で上流階級と分かる雰囲気の人々で、生まれも育ちもれっきとした庶民の恵里はこのセレブリティな空気にはどうにも居心地の悪さを感じてしまう。しかしミーズはこちら側の人間だ。彼女が相応しい世界に戻れたことが何よりも喜ばしいと思う。
「おお、ニーノ?ニーノか?見違えたぞ!」
後ろから声を掛けられて振り向けば正装姿のサルヴォ伯爵である。
「なぜいつもそういう格好をせんのだ。勿体ない…」
大げさに嘆く姿が妙にコミカルで、恵里は思わず笑ってしまった。
「お父様のおっしゃるとおりだわ、ニーノ。とっても綺麗よ」
しなやかな足取りで現れたのは、この場の誰よりもきらびやかで美しく華やかな微笑をまとったセミオン・エイデックの若き妻。ああ、ミーズ…!




