08.盟友と理想、親友と涙
「セミオンは呆れるほどの向上心の持ち主だった。満足ということを知らない。はたから見れば完全な成功だと思われることであっても、常にモアベターを探すのだ。貪欲な野心家。私は自分に足りないものを教えられた気がした。私に必要だったのは反骨心。分かるかい?ガッツだ」
伯爵の瞳の奥に若々しい光が輝く。当時のサルヴォ青年の姿がありありと思い浮かぶような凛々しく力強い眼差しだ。
「私は領主という立場を背負わされたと、その時までは思っていた。だが、なんの後ろ盾もなくただ身一つでのし上がって行くセミオンを見ていて、私は自分の幸福に気づいた。そしてそれを疎ましく思っていたことを恥じた。私は理想を実現する為に必要なものをすでに手にしていたのだ」
「伯爵の理想とは何なのですか?」
「皆が衣食住に困ることなく自由に生活の出来る国を作ることだ。あれから三十余年、未だ途上だよ」
「いいえ伯爵領は、少なくともロレントは伯爵の理想そのものだと思います」
恵里はオルロに出てきて初めて貧困というものを知った。淀み荒んだスラム街、道端に座り込む乞食、ぼろ切れをまとい駆け回る浮浪児。それらはロレントではついぞ見ることのなかった光景だった。人と物と金の集まるオルロの、それもやはり宿命なのだろう。皆が一握りの成功者になることを夢見てオルロを目指し、やがて夢破れた時に残された選択肢は決して多くはない。
「セミオンの目指す先もつまる所は同じだ。商売を広げ人々に働く場を提供し、また金と物がひとところに留まらないよう仕入れ、売る。我々は時に戦友であり時に対敵でもあった。旧習や既得権に切り込む時には手を組んだし、領主と商人として売買する時には丁々発止とやりあったものだ」
「縁とは不思議なものです、まさか伯爵とセミオン・エイデック氏が盟友の間柄だったとは。驚きました」
「そう、盟友。だが結婚のことは知らなんだぞ。ミーズという娘と出会ったのは最近のことなのかね?」
「ええ、ここ数ヶ月の間の出来事です。ミーズが初恋の女性に似ているとか」
「ふむ…ともかく、今度その娘を連れておいで」
「はい、ありがとうございます」
恵里はふっと息を吐いて手の中のウィスキーを口に含んだ。まろやかで芳醇な味わい。鼻腔を抜ける華やかな薫り。いつまでもちびちびと舐めていたい上等な酒。恵里はこの幸いに心から感謝した。ここまですんなりとことが運ぶとは正直言って予想外だった。
「実の所ニーノ、私は君が頼みがあると訪ねてきた時、少しがっかりしたのだ」
「ああ伯爵、どうかお許しください。あまりにも不躾でした」
恵里が頭を下げると、伯爵はそうではない、と手を振った。
「いいや、謝らねばならぬのはこちらの方だ。私は君の頼み事が金であるならもう二度と会うことはあるまいと思ったのだよ。援助はするがね。ところがどうだ、君は実に愉快で素晴らしい話を持ってきてくれたではないか。君を少しでも卑しい物乞いと疑った己が恥ずかしいよ」
「いいえ、伯爵は寛大なお方です。友人を養子にしろなどと頼む方が、金の無心よりも余程タチが悪いではありませんか」
「その通り。君はそれを分かっていて平然と頼んでみせるのだから恐れ入る。そこで君に提案なんだが」
「…なんでしょうか?」
恵里は酔いのせいか調子に乗り過ぎる自分に、ようやく気づいて肝を冷やした。額ににじむ脂汗を無意識に拭う。だが伯爵は意に介する様子もなくニコニコと、どちらかといえばニヤニヤと楽しげな表情で恵里を見つめている。
「ニーノ、私の妻になるのとフェーデレの妻として私の娘になるのはどちらが良い?」
「ご無体な…どちらもあまりに魅力的でとても選べません」
「私の妻になる方がお勧めだぞ。よく考えておくように」
伯爵が笑う。ええい、もう無礼講だ。恵里も笑った。
プロポーズの後からミーズは仕事には出ていない。おそらく手配師とセミオンとの間で決着しているのだろう。思えばセミオンと出会ってから彼以外の客の話は聞かなかった。結婚するにしろそうでないにしろ、セミオンはミーズを娼婦生活から救い出すつもりだったに違いない。
昼夜逆転した生活から朝に起き夜に眠る生活に戻ったミーズは、日がな一日キルトを縫って過ごしている。今では実益も兼ねていて、縫い上がったクッションカバーやバッグ、小物などを雑貨店に持って行くと良い値で売れた。ミーズの丁寧でセンスのいいキルト小物は人気商品だったのだ。
針を動かしキルトを縫うミーズはやはり優雅で上品な雰囲気を持っている。恵里はその背中に声を掛けた。
「ねえミーズ、決心はついた?」
「こうやって…キルトを縫っていると心が落ち着くわ。ひと針ずつ嫌なことを忘れるの。でも、いくら縫っても両親のことを許せない。私って心の醜い人間だわ」
「許せとは言わないけど、そんな風に卑下して欲しくないな。ミーズは幸せにならなきゃいけないんだよ。だから私、知り合いの伯爵にミーズのこと頼んできたんだ」
ミーズはガバっと、音がしそうな勢いで振り返った。瞳がこぼれ落ちるんじゃないかと心配になるほど目を見開いて恵里を凝視する。
「どうして?どういうこと?」
「ミーズは一旦その伯爵の養女になって、そこからセミオンの元に嫁ぐの。だからボネット家は関係なくなる。これで安心して結婚できるでしょう」
「だけどニーノ、その伯爵様というのは?」
「サルヴォ伯爵。セミオンとは旧知の仲のようだから快諾してくれたよ」
「サ、サルヴォ伯爵って、領主様の!?ニーノ、なんで、」
言葉が続かないのか、ミーズは唇をわななかせた。
「伯爵にとっても悪い話じゃないって事だよ。ミーズはもう何も心配しなくていいからね。明日、伯爵のところに挨拶に行こう」
「ああ、ニーノ!なんていうこと!ありがとう、私、私…」
ミーズは縫いかけのキルトを放り出して恵里に抱きついた。その勢いで押し倒されるようにベッドに寝転ぶ。恵里はミーズの背中に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
こうしてミーズと一緒に眠るのも今日が最後だろうか。可愛くて愛しいミーズ。彼女と過ごした日々は少し退廃的で少し苦しくて、だけど穏やかで。彼女のために何かしてあげられることが嬉しかった。大好きなミーズ。彼女の笑顔が私を幸せにする。だけど。恵里はミーズの髪の毛に顔を埋めて少しだけ泣いた。やっぱり別れは寂しい。




