07.領主と大商人の因縁
「ご無沙汰しております」
邸内に招き入れられた恵里は、久しぶりに会う伯爵の温和な笑みにホッと心が休まるのを感じた。
「元気そうじゃないか、“ニーノのパン”の評判は聞いているよ。買いに行けなくて済まなかったね」
まさか伯爵にままごとのようなパン屋の真似事のことを知られているとは思わず、恵里は小さく呻いた。いくらなんでも耳が良すぎる。
「とんでもないことです。まだ商売というのもおこがましい状態でして、全くお恥ずかしい限りです」
「それで今日はどういう用かな?顔が見たくなっただけじゃないだろう?」
さすが伯爵には回りくどいご挨拶など無用のようだ。
「実は…今日こうして恥を忍んで参りましたのは、伯爵にご相談したいことがございまして」
「さて、何かな?」
サルヴォ伯爵は楽しげな表情でじっと恵里を見つめている。そのフランクな空気に促されるように恵里はミーズのことを話し始めたのだった。
「伯爵は北のアール伯爵領にあるボネット家をご存知でしょうか」
「ボネット…はて、王国時代、王の側近として権力をほしいままにしたというボネット家かね?王権争いに敗れて表舞台から消えたと聞いていたが、アール領に身を寄せていたのか」
「ボネット家に二十年ほど前女の子が生まれました。名はミーズ。両親は彼女を大切に育てます。しかしこれは親子ほど、いやそれ以上に歳の離れた大商人の元へ嫁がせ、ボネット家を復興するためでした。ミーズはこれに反発して家を出た。十五の時です」
同じ年頃の娘を持つサルボは複雑な心境のようだ。貴族に生まれついた以上は政略結婚もある意味仕方のないことではある。だが意に沿わぬ結婚を強いるのは酷だとも思うのだろう。
「単身オルロに出てきたミーズは男に騙され借金を負い、ついには娼婦へと身を落とします」
「おお、なんということだ…」
サルヴォ伯爵は天を仰ぎ嘆じた。
「そうして娼婦生活を始めて五年、彼女はとある人物に見初められ求婚されます。大変名の通った資産家です。彼女も彼のことを好いていた。でも…」
「ニーノ、この話は幸せな結末を迎えるのかね?ハラハラして仕方がないのだが」
ミーズとアメリアを重ね合わせてでもいるのか、伯爵は憔悴したようにハンカチで額を拭った。
「ええ、ご相談したいことというのはそこなんです。この物語をハッピーエンドにするために是非、伯爵の力をお借りしたいのです」
「というと?」
「ミーズは資産家との結婚でボネット家復興に荷担する結果になりはしないかと懸念するのです。彼女は両親の顔など見たくない。特にその喜ぶ顔は」
サルヴォ伯爵はうーむと唸った。
「なるほどね、話は分かった。君はその娘をボネット家から解放して欲しいというのだね?」
サルヴォ伯爵は値踏みするような視線を恵里に向けた。サルヴォ家の将来にも関わってくる話である。おいそれと承諾できるものではないし、まして慈善などでできることではない。特にミーズはすぐ結婚する身だ。当然、
「その資産家というのは?」
そこが焦点になってくる。恵里は祈るようにその名を口にした。
「セミオン・エイデック」
恵里は伯爵の表情を注視する。嫌悪が浮かぶか、打算の笑みか、それとも。しかし伯爵の反応は、恵里の予想を遥かに超えていた。
「セミオン!ははは、セミオン・エイデック!」
呵々大笑である。恵里は面食らった、まさか大笑いされるとは予想だにしなかった。
「ニーノ、この話喜んで受けよう。くっくっ、君ねえ、きっとセミオンに相当恨まれることだろうね」
「なぜです」
「この私がセミオンの義理の父になるのだから!」
サルヴォ伯爵は実に楽しそうにそう言うと、こらえ切れないという風に笑い始めたのだった。どうやら二人は知己の間柄らしい。恵里がわからない顔をしていると、伯爵はようやく説明してくれた。
「私は十六で伯爵領を受け継いでね。父を急な病で亡くしたからなんだが、突然だったしやはり若年ということでなかなか信用は得られない。軽んじられることも多かった。そういう私の領地運営は順調だとは言い難かった。セミオンと出会ったのはそんな頃だ」
伯爵は昔を懐かしむように目を細めている。口調は軽やかで楽し気だ。
「領主業の傍らで連邦議会にも出なくてはならない。自然、オルロにもよく足を運んだ。ある時、私は商人組合の爺連中に食って掛かる若い男を見た。慣習だのしきたりだのは無意味だとか弊害だとかなんとかいう正論だったよ、実に青臭いがね。私は連邦議会で同じ思いをしていたから思わず男に声を掛けた。それがセミオン・エイデック。当時は駆け出しの穀物商人だった」
さて、と言ってサルヴォ伯爵が立ち上がる。恵里が腰を浮かしかけると伯爵はそれを手で制し、ガラスのグラスと酒瓶を手に戻ってきた。にやっと笑って言う。
「最後まで付き合ってもらうぞ」
「喜んでお相伴に預かります」
伯爵が手ずから注いでくれたのは琥珀色のウィスキー、グラスを揺らせば馥郁とした香りがふわりと広がる。
「ああ、なんと芳しい。命の水もかくやですね」
「ほう、命の水とな。それは良い」
サルヴォ伯爵はポンと膝を打つ。
「私の生まれ故郷にはそういう言い方がありまして」
「ではニーノ、この素晴らしき命の水で乾杯しよう」
「お二人の友情に」
「思い出話に」
乾杯!ガラスのグラスはここでは貴重品だ。グラスを合わせると軽やかに響く澄んだ音色は、何にもまして心を楽しくさせるのだった。




