05.ままごとの行方
共同住宅のパン窯でパンを焼くようになり、メルが美味しい美味しいと大騒ぎした後から、居合わせる住民たちにパンを売って欲しいと頼まれることが増え始めた。早朝四時の共同住宅のホールは夜の仕事から帰る人たちと朝早くから仕事に出る人たちが交錯する場所で、まだ店も開いておらず自炊も面倒な人にとって恵里のパンはうってつけだったのだ。
最初は自分用のものを分けていたが、次第に買いに来る人が増えたために作る量を増やしていき、最終的には早朝のパン窯をほとんど独占するまでになってしまった。幸い午前四時からパン窯を使う人は少なかったので苦情は来なかったし、むしろそういう人が恵里のパンを買ってくれているようだった。
共同住宅の住人や近所の人だけだった客は、そのうち街中から集まるまでになっていた。ただの白い丸パンのために早起きしてわざわざ尋ねてきてくれるのである。それくらいに「ニーノのふわふわパン」は評判になっていたのだ。
少しずつではあるが利益が出始めるようになり、いつしか恵里は本格的にパンを売る仕事ができないかと考えるようになっていた。美味しいと言ってくれる人々の笑顔を見るのが嬉しく、自分が作ったパンを食べてもらうことにやりがいを感じていた。商売としてはまだまだ不完全な状態だが、今はこれで良いのだろう、そう思えるようになるとふっと力が抜けて楽になった。焦り足掻いても仕方のない時はある。力を蓄えていればいつかきっとチャンスは訪れるはず。恵里はそう自分を納得させると、翌日の仕込みを始めるのだった。
恵里がぼんやりパン屋のことを考え始めた頃だった。「あのね、」とミーズが赤面しながら恵里に打ち明ける。とうとうセミオンと「結ばれた」と。恵里はこっちが恥ずかしくなると苦笑した。
「ふふ、ごちそうさま」
「それで…」
一転、幸せそうだった顔を曇らせながらミーズは小さな箱を取り出した。大きさは五センチ四方ほど、革張りでしっかりした作りの立派な小箱。中に何が入っているか、想像できるものはひとつしかない。
「私、セミオンにプロポーズされたの。彼は若い頃に奥さんと離縁してからずっと独り身で、私に後添いになってほしいって」
ミーズが小箱のフタを開ければ、中には想像通り、いやそれよりもずっと豪華で上品で美しいダイヤモンドの指輪が入っている。
「わっすごい!セミオンの気持ちは本物の本気だね。良かったねえ、ミーズ。これから目一杯幸せになるんだよ」
資産家のセミオンに"相応しい"後妻候補はいくらでもいただろう。だがセミオンはミーズを選んだ。娼婦と客として出会ったにも関わらず、セミオンはこれまでミーズをとても大切にしていたし、何よりミーズもセミオンと居て幸せそうだった。プロポーズの言葉も指輪もベッドの上での戯言やタチの悪い冗談でなどあるはずがない。それなのに、何故ミーズは浮かない顔のままなのだろう。
「セミオンの事好きなんでしょう?なんでそんな顔してるの」
「好きよ!好きだけど…信じて裏切られるのが怖いの。いつか幸せを失ってしまうのが怖いの。結婚なんて、全てを任せてしまうなんて、怖くてたまらないわ」
幸せに身をまかせることが怖いのか。幸せだった少女時代は両親の裏切りによって幕を閉じ、オルロに出てきては好いた男に裏切られ、そうして身も心もボロボロになりながら娼婦として働いてきたミーズ。さあおいでと両手を広げられても無条件に飛び込んでいくことが出来ないのだろう。全てを委ねるというのは、穿った見方をすれば逃げ道を失うということでもある。かつて味わわされたあまりにも残酷な裏切りが、今も彼女を縛る足枷になっているのだ。
「それに…セミオンと結婚すれば両親は思い通りになったと喜ぶわ。今までセミオンには家のことを隠していたけれど、調べればすぐに分かることだもの」
もしかするととっくにミーズの出自は調べられているかもしれない。その上でのプロポーズならば貴族と縁続きになるわけだから釣り合いは取れる。だが、それではミーズの気持ちが浮かばれない。娼婦に身を落としてまで辛い生活をしてきたのは、娘を使って成り上がろうとした両親から逃れるためなのだ。そういう両親を喜ばせたいなどと誰が思うだろう。
可哀想なミーズ。セミオンを愛する気持ちと、幸せへの恐れ、そして両親への憎しみとの葛藤の中で揺れ動いている。どうして相思相愛の人と結ばれるのにこんなにも苦しまねばならないのか。どうしてただ幸せなことだけを考えていられないのか。何とかしてやりたい。心底そう思う。
「ねえミーズ、セミオンにとっての幸せってなんだと思う?自分の気持ちが納得できないのは分かるけど、結婚は二人でするものだからね」
「セミオンにとっての幸せ…」
「ミーズはそのために何ができると思う?」
「叶うなら…彼の側にいて身の回りの世話をしてあげたい。いつでも彼が笑顔でいられるように」
「幸せは創っていくものだよ、ミーズ。二人で一緒に」
「ニーノ…」
「セミオンの幸せがミーズの幸せになるのなら、それに越したことはないんじゃないかな」
「でも、」
「ミーズは自分とセミオンの事だけ考えていればいいの」
恵里はミーズを強く抱きしめて、そう断じた。ミーズは幸せな将来のことだけを思い描いていればいい。それ以外は私がきっと何とかするから。柔らかなミーズの髪に顔をうずめて恵里は心に誓った。
セミオンのような、おそらくはそれなりの地位にある男が結婚するとなれば、当人だけの話でなくなるのは道理だ。ミーズが懸念する通り、二人の意思とは関係なく資産家と没落貴族の政略結婚という意味を持ってくるのは間違いない。セミオン側はどうか分からないが、ミーズの両親はそれをこそ望んでいるのだから。
ではどうすればいいか。
恵里にはひとつだけ思いつくことがあった。他力本願な計画、五分の賭け。それでも、可能性が少しでもあるのならやってみる価値はある。辛そうなミーズをもうこれ以上見てはいられない。




