04.ふわふわパンは転機の予感
ミーズを中心にした恵里のヒモ生活は相変わらずだったが、そこに新しい日課が加わった。パンを作ることである。
ミーズがセミオンからもらってきた干しぶどうを水につけてから三日目、ようやくビンの中に小さな泡が生まれた始めた。それからさらに二日置くと干しぶどうが浮き上がり、シュワシュワと大きな泡が出るようになる。フタを開けてみればワインのような爽やかな良い香り。発酵は上手くいっているようだ。初日から数えて一週間ほどで大きな泡が収まり、酵母液を舐めてみると甘いだけでなく少し苦味も感じられるようになっている。こうなれば発酵は十分だ。すかすかになった干しぶどうをガーゼに取って絞れば、
「酵母液の完成!」
「なあにそれ?」
寝ぼけ眼のミーズが不思議そうに恵里の手元を覗き込む。
「干しぶどうで作った天然酵母液だよ」
「てんねんこうぼ?」
「これでパンを膨らませるんだ」
「さっぱり分からない…」
ミーズはあまり興味なさそうにひとつあくびをすると出勤の支度を始めた。恵里は酵母に構うのを一旦中止して、ミーズが髪を結うのを手伝った。
酵母が上手く起こせたら次は酵母種作りである。新しく小さめのビンを買ってきて、少量の小麦粉と酵母液を混ぜて一日置く。二倍ほどに発酵したら、再び小麦粉と酵母液を足して半日発酵させる。さらにもう一度掛け継ぎをすれば、今度は五時間ほどで発酵する元気な酵母種の出来上がりだ。
ここまで順調に行ってようやくパン生地作りを始められるのだった。水に塩と砂糖を溶かして酵母種を混ぜ、そこに小麦粉を入れてよくなじませる。ある程度まとまったら台に取り、両手で力をかけて捏ねていく。始めはベタベタと手に引っ付きまくっていた生地が次第につるんとなってきたら、バターを加えて練り込むようにしっかりと捏ねる。
「ふうーっ」
恵里は天井を仰いで息を吐いた。生地作りは結構な重労働だ。ビッタンバッタンと生地を台に打ち付ける大きな音がするから、これはミーズが仕事に出た夕方過ぎの作業になる。
一時発酵には六時間ほど必要だったので、生地が捏ね上がったら恵里は眠った。起きるのは二時ごろ。発酵した生地を成形し、次の二次発酵には暖かいところに置いて二時間ほどかかる。ミーズに焼きたてを食べさせてやりたくて逆算して作っているのだ。
一番最初に作った時は酵母種の比率が悪くて上手く発酵せず大失敗。二度目も発酵が不十分でこれまたずっしり重くて硬いパンになってしまった。何とか形になったのは三度目で、そこからさらにはちみつや自家製練乳を加えるなど試行錯誤した六度目にして、ようやく満足のいくパンが完成した。
ミーズが帰宅する少し前、恵里は思い通りに焼き上がったパンを持って部屋に戻る。ずっとミーズに内緒でこっそりしていたパンづくりも、とうとうお披露目の時がやってきた。恵里はワクワクしながらミーズの帰りを待つのだった。
「すっごく良い匂いね、ニーノ!」
部屋に帰ってきて開口一番そう言ったミーズは、眼を閉じて焼きたてパンの香りを胸いっぱいに吸込み、匂いのもとを探るように顔を動かした。そうしてテーブルに置かれた手のひらサイズの丸パンを見つけるのだ。ついに完成した、恵里渾身のほんのり甘くてふわふわの柔らかいパン。恵里に勧められ、さっそく一口頬張ったミーズは目をまん丸にして美味しいと声を上げた。
「私こんなにおいしいパン、今まで食べたことないわ!」
指で押せば潰れてしまう柔らかさ、しかし二つに千切ればひきの良さが分かるだろう。もっちりとした噛みごたえに香ばしく薫る小麦。焼き立ての温かいうちにバターを挟むとまた美味だ。柔らかい生地にバターが染み込みジュワッと口に広がる濃厚な風味。硬いパンしか知らないミーズには驚きの代物だったに違いない。美味しい、美味しいと小ぶりな丸パンを五つともペロリと平らげてしまった。
「ニーノ、このパンきっとまた作ってね、約束よ!」
そうして恵里のパン作りが日課になったのだった。
パンは共同住宅一階の炊事場にあるパン窯で焼いていた。主食がパンのこの地ではこうした誰でも自由に使えるパン窯はそう珍しいものではなく、街にも幾つかあるようだった。そういう共有パン窯で日課のパンを焼いていたある日、ミーズの娼婦仲間のメルが恵里に話しかけてきた。
「いい匂いだね、ニーノ。ねえ、アタイに一つわけてくんない?代わりにリンゴをやるからさ」
酷い偏頭痛持ちのメルに恵里は時々薬草を処方していたから、そう親しいわけではないものの会えば話す程度の間柄であった。
「リンゴと交換なら二つあげるよ」
メルは恵里から受け取ったパンにさっそくかぶり付く。そして第一声、
「何これっ?!やわらかくって、ふわんふわんで、すっごく美味しい!」
そうしてあっという間に二つとも平らげてしまって物欲しそうに恵里の顔を見るものだから、恵里は苦笑してもうひとつメルの手に乗せてやった。
「仕方ないなあ、サービス」
「大好きよニーノ!あんたならアタイ商売抜きで抱かれたげる」
しなだれかかって色気たっぷりに体をくねらせるメルに恵里は苦笑した。
「はは、気持ちだけで充分。私も女だもの」
「あ、やっぱり女なんだ?そんな気はしてたあ」
さして驚く様子もなくメルはあっけらかんと言った。
ミーズもそうだが、人間相手の仕事をしている人は外見には惑わされないらしい。それだけ様々な人と接してきたからだろう。恵里を男と勘違いするのは人生経験が足りないのか、それとも人を見る目がないのか…。さしずめジッロはその両方だ、と思いついた恵里は不意に感じた懐かしさに目を細めた。ロレントを出てからずいぶんと時間が経った気がする。いつか連絡するつもりではあったものの、定職もなくヒモ生活をしている現状では恥ずかしくてとても近況報告などできるはずもない。早くこの状況を打開しなければ。恵里は焦る気持ちを持て余しつつ日々を過ごしていたが、転機はそれからそう遠くないうちに訪れたのだった。




