03.金持ちとチンピラとヒモと娼婦
「ねえニーノ、今日はとてもいい日だったわ」
明け方、珍しくウキウキとした様子でミーズが部屋に帰ってきた。
「良かったね、何があったの?」
「うふふ、これね、ニーノにおみやげ」
ミーズが恵里に手渡したのは、口が広く円筒形のフタ付きビン。中には干しぶどうがたくさん入っている。一粒一粒が大きくふっくらと艶やかで質の良さは一目瞭然、その辺の店で容易く手に入る代物でないのは確かだ。
「どうしたの?」
「今日のお客さんね、セミオンっておじさんなんだけど、私が昔の恋人にそっくりなんだって。それで一晩中本当にお喋りだけしてたわ。その時一緒に干しぶどうを食べたのよ。ニーノにも食べさせてあげたいって言ったら、持ってお行きって。こんなに上等の干しぶどうを全部くれたの」
「へぇ、きっとすごいお金持ちなんだね」
「うん。セミオンさんの着ているのはとても仕立ての良いものだったわ。高価な生地で丁寧な縫製だったし、きっとすごく時間をかけて採寸しているのよ、身体にぴったり合っていたもの」
ミーズは仕立屋で働いていたわけだから、その辺りの鑑定眼は正確だろう。
「また来てくれたらいいな」
ミーズは恋する乙女の表情で祈るように指を組む。恵里はミーズに服だけ着替えさせてベッドに入るよう言った。こんなに楽しそうなミーズの姿を見るのは初めてかもしれない。嬉しい半面、少しセミオンという男に嫉妬も感じてしまう恵里だった。
ミーズが眠ってしまったのを見届け、恵里は起き上がった。おみやげの干しぶどうを一粒つまんでみる。ジューシーな甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。もう一つ、もう一つ、とついつい手が伸びてしまう。このままでも十分美味しいけれど、お菓子を作るのもいいな、パウンドケーキやスコーンに混ぜ込むのもいいし、バタークリームと合わせてクッキーに挟むのもいい。ラム酒につければ風味も増す。ああ、そうだ。色々レシピを思い浮かべる内に、恵里はふと思いついた。干しぶどうをビンから一旦取り出し、空いたビンにふた掴みほどの干しぶどうと倍量の水を入れてフタを閉める。酵母を起こそうと思ったのだ。ここで普段食べるパンはずっしりと重く硬い。昔は当たり前に食べていたふわふわの柔らかいパンが恋しかった。
干しぶどうを持って帰ってきた日を境に、ミーズの話にはセミオンの登場率が高くなった。セミオンはミーズを相手に初恋の反芻でもしているのか、やれ今日は手を握っただの、初めてキスをしただのとまるで子供の恋愛のような報告に恵里は何とも言えない気分になった。微笑ましいような気もする一方で皮肉なようにも思ってしまう。けれどミーズが幸せならばそれでいい。セミオンに出会ってから、ミーズは今までよりも生き生きと輝いて見えた。
そんなある日、一緒に部屋を出て仕事へ向かうミーズと別れ、恵里がひとり定食屋にでも行こうと歩いている時だった。「おいっ!」と突然肩をつかまれ、驚いて振り返ればチンピラのような風体の男である。
「てめぇ、ミーズとどういう関係だ」
「どうって、同居人ですが…」
「できてんじゃねーのか?!」
「カラダの関係かってことならそりゃないですよ、私女だし、」
「女だって?!」
男が素っ頓狂な声を上げて恵里をじろじろと見るので、恵里はいたたまれなくなり男を定食屋へ誘った。
「俺、アール領の片田舎をおん出て、ここで一旗挙げようと思ってよ」
男はバドと名乗った。生まれ育った村でこそ腕自慢のバドだったが、オルロでは通用しなかった。まともな職にも就けないまま暮らしは思うように行かず、やがてチンピラの真似事をするようになった。そうしてどんどん生活が荒んでいったある晩、バドはミーズと出会う。
「俺は街頭に立つミーズを見つけたんだ、本当に美しい女だった。俺は有り金をはたいて一晩を共にした。彼女は優しく上品で、こんな仕事をする女じゃないと思った。生まれ故郷が同じなのは運命だと思った。目の前に光が射したような気分だった」
ミーズに娼婦という仕事は似合わない。そこには恵里も同意する。だがバドの立てた計画はいただけない。
「ミーズを連れてこの街から逃げようと思ってたんだ。なのに最近、お前がミーズの周りをウロウロしてるから…」
百歩譲って相思相愛なら全て捨てて逃げるのもひとつの方法かもしれない。しかしそうでない以上それはバドの独りよがりの妄想に過ぎない。
「あんたそれでミーズが幸せになれると思ってんの?」
「今の生活よりは絶対に…!」
「逃げて済むのならとっくにそうしているよ。あんたのは、ただの自己満足だ」
ぐっと、男は言葉に詰まる。
「けど…っ」
「もしミーズがそう望むのならそれでもいいかもしれない。危険を冒してこの街から逃げて、辛く惨めな逃亡生活をするのも。けれどミーズはそんなこと望んじゃいないよ。あんたは故郷を捨てたミーズから、オルロまでも奪う積りなの?あんたがミーズのためにできるのは、金を稼いで少しでも彼女の借金を減らしてやることくらいだね」
男は項垂れた。自分の中では完璧だったはずの計画が、客観的な視点を突きつけられてみればそれがいかにガキくさく自己中心的で、計画とすら呼べない代物だったかに気づかされるのだ。
「ミーズを助けたいのなら、しっかり働いて金を稼ぐのが一番だよ」
恵里はそう言い残して席を立った。外はもうすっかり暗くなっている。
偉そうに説教した恵里とてミーズを救い出せている訳ではなかった。対処的に癒してやるだけで、彼女の苦しみそのものを断ち切ってやれてはいない。恵里もまた、ミーズの幸せを願っていると口では言いながら、ただの自己満足で彼女のそばにいるに過ぎないのだ。バドへの言葉は自分への戒めだった。だからどうしたら良いのかも分かっている。自分でバドに言った通りだ。
「…しっかり働いて金を稼ぐのが一番だ」
夜半の風は肌寒い。恵里はジャケットの襟元を掻き合わせ、首をすくめた。




