02.ヒモの一日
「ただいまぁ…」
疲れきった様子でミーズが部屋に帰って来るのは、まだ空に星が瞬く午前四時。たまに夜明けまで帰らない日もあったが、だいたいこの時間にミーズは帰ってきた。出迎えた恵里がまずすることは、ミーズの着ている服を脱がせることだ。シャワーなどないから湯を沸かして濡らしたタオルでミーズの体をくまなく拭いてやり、仕事で使う場所を水魔法で洗浄した。それから洗いたての服に着替えさせて一緒に食事をする。食事の用意をするのも恵里だ。
朝の食事はたいていパンとスープ、卵やソーセージなんかをつけることもある。部屋に台所がない代わりに一階に共同で使える炊事場があって、自由に使用することができた。パン屋で買ってきた大きくて硬いパンを薄く切って焼き、スープは豆やじゃがいも、たまねぎなどで作った。塩だけの味付けでも一日煮込めば結構味に奥行きが出た。
初めて恵里がスープを作ったとき、ミーズは食べながらはらはらと涙をこぼした。自分の為に作られた温かいスープが嬉しくて堪らないと、そう言って泣くのだ。何の変哲もない野菜のスープに幸せを感じられるほど、これまでの彼女の生活は辛苦に満ちていたのだろう。それなのに優しい心は失わなかった。奇跡のような純真さだと恵里は思う。
「あんまり泣くと、スープが塩っぱくなっちゃうよ」
恵里が言うと、ミーズは「そうだね」と笑おうとする。けれども上手くはいかなかった。涙は次から次へと溢れ出る。恵里はミーズが愛おしくてたまらなくなり、その細い身体を抱き寄せ柔らかな髪を撫でた。
「ありがと、ニーノ」
恵里の肩に顔をうずめてミーズは泣き、やがてそのまま眠ってしまった。恵里は寝息をたてるミーズをそっとベッドに横たえ、その柔らかな頬にキスをした。
帰宅したミーズが眠ってしまうのがだいたい午前六時。それから恵里は近くの共同住宅や宿屋、あるいは娼館などを巡って洗濯を請け負った。正午頃まであちこち回って日銭を稼ぐ。小さな所はそう毎日大量の洗濯物は出ないし、大きな所は洗濯女を抱えていることが多く、流しの洗濯屋は仕事としてはあまり割は良くなかった。もっとちゃんとした仕事を探そうとは思っていたのだが、正午前には部屋に戻っていなければならず、なかなか職を得るのは難しかった。
一度、仕事が長引いてミーズが起きる時間に部屋に戻れなかったことがある。その時のミーズの荒れ様は尋常なものではなかった。部屋をめちゃくちゃに掻き回し、まるでこの世の終わりのような叫び声を上げ、恵里の名を狂ったように何度も何度も呼び続けたのだ。落ち着いた後に聞いてみると、捨てられたかと思った、と泣きはらした目でポツリと言う。過去にそういうことがあったのだろう。だから恵里はミーズが目覚めるときは必ず側にいると約束したのだ。結果、恵里はミーズのヒモと言われてもおかしくない状況に陥っていた。
ミーズは午後四時ごろに仕事に出る。まず手配師のところへ行き、そこから宿屋や酒場に派遣されるのだという。そうした依頼がないときは街頭に立って客を引くこともあった。恵里には励ましの言葉も慰めの言葉も見つからない。どう言って良いのか分からなかった。愚痴を吐き出してミーズの心が少しでも晴れるのなら、いくらでも聞いてやりたいと思う。恵里ができるのはそれぐらいのことだった。
昼頃に起きてから出勤するまでの間、ミーズは恵里とお喋りや料理をしたり、市場へ買い物に行ったりもしたが、一番多いのはキルトを縫うことだった。手の込んだベッドカバーもミーズの作で、昔からの趣味だったと言う。一体どういう経緯で娼婦に身をやつす事になったのか。ミーズはちょっとした所作や言葉遣いに気品が垣間見えることがある。もしかするとそれなりの名家の出身なのではと恵里は思っていた。働かなければ食べていけないような生活で、手すさびにキルトを縫うなど悠長なことはできない。
明け方のベッド。ミーズが眠るまで添い寝して寝かしつけるのが恵里の日課だった。恵里はある時寝物語にその疑問を尋ねてみた。
「ミーズが生まれ育ったのはどういうところ?」
「アール伯爵領よ、ニーノは行ったことあるかしら。ニールバーでいちばん北にあって、冬はとても厳しいところ。でも風景は雄大でとても美しいの」
「帰りたい?」
「帰れないわ。私、逃げてきたの。十五だった。大きな商家の主人と結婚させられそうになったの。相手は五十を越えたヒキガエルみたいな男だった。でっぷり肥え太って顔は油でぬらぬら光ってて…震えるほどおぞましかった」
「なぜ断れなかったの?」
「父が望んだのよ。私の家は名ばかりの貴族で、父は家を再興させたい名を残したいっていつも言っていたわ。そんなつまらないことのために自分の人生を犠牲になんてしたくないって思った。それで家を飛び出したの」
それからミーズはオルロに出てきた。仕立屋でお針子をしながら二年ほどはそれなりに普通の暮らしをしていたようだ。その頃ある男に出会って付き合い始めるが、この男がいけなかった。酒や博打のためにミーズの稼ぎを奪い取り、気に入らなければ暴力を振るった。それでも機嫌が良い時は優しかったから、ミーズは男から離れられなかった。あまりにも世間知らずだった。ある日博打で大負けして借金を抱えた男は、返済に困った挙句ミーズを手配師に売り飛ばしたのだ。
「莫迦だったと思う。あのヒキガエルと結婚していたほうがマシだったかもしれない。でもいいの。今はニーノが側にいてくれるから。どこにも行っちゃ嫌よ」
「ミーズが望む限り側にいるよ。だから安心しておやすみ」
このままではいけないと分かっている。こんなヒモのような生活を長く続けるわけにはいかない。けれどももう少し、あと少しだけ、ミーズのためだけの生活を続けていたい。そうして恵里はずるずるとヒモ生活にはまり込んでいったのだった。




