01.心優しき娼婦
王都オルロはロレントの北西、魔動バイクを走らせて1時間ちょっとというところにある。商業の栄えるこの街には王国時代の名残の貴族もいたが、実質的に街を仕切っているのはオルロ商人組合という商人の連合組織であった。組合はオルロで大きな力を持つ十数人の商人によって運営されており、ニールバー連邦内の五家の領主たちとほとんど同等の力を持っていた。各領地間の交易ほとんどがオルロを通して行われていたから、組合のさじ加減ひとつで経済活動を滞らせ、領地経営を立ちゆかなくさせることもできたのだ。
街の雰囲気はロレントと比べると雑多で騒がしく賑やかで活気に満ちている。恵里は街の散策もそこそこに、まず拠点となる宿を探そうと宿屋街をうろうろしていた。あまり宿代のかからないところ、と最低ラインを下げていくうちにどんどん細くいかがわしい路地へと入り込んでしまった。
「偉そうな口を聞くな!」
突然聞こえた男の怒鳴り声に恵里が驚いてその方向を見れば、いかにも娼婦然とした格好の女が男に殴られているところだった。娼婦はその場にくずおれ、流れ出る鼻血もそのままに男の足に縋りつく。
「ねえ、お願いだから」
「しつけえんだよ!」
男に乱暴に振り払われて娼婦は倒れ、その腹を蹴りつけられて苦しげに咳き込む。
頭にカッと血が上った。恵里は、気づけば手近にあったレンガで男の後頭部をぶん殴っていた。男は前のめりに昏倒し、そのまま起き上がる様子はない。
「ああッ、ちょっとあんた、なんて事を!」
慌てて立ち上がる娼婦の血に濡れた顔を、恵里はポケットに突っ込んでいたハンカチで拭った。鼻血はもう止まっているが頬は腫れてしまうかもしれない。湿布を作ってやれば抑えられるだろうか。恵里がそんなことを考えていると、女は恵里の手を引っぱった。
「何をぼんやりしてんの、早く逃げなくちゃ…!」
男は気絶しているだけだし、顔も見られていない。周りに人影もない。全く無関係なのだから恵里が犯人と特定されることはまずないだろう。けれど、恵里は手を引かれるまま娼婦の後をついて行った。
そこは住民がひしめき合うようにして暮らす、四階建ての共同住宅だった。四畳半ほどの狭い部屋はベッドに小さなテーブルと椅子、それに小ぢんまりした棚でもういっぱいだ。それでも部屋は小綺麗に片付けられていて、パッチワークキルトのベッドカバーは場違いにセンスが良く丁寧に作られたものだった。娼婦はミーズと名乗った。
「手配師にあんなことして、見つかったらただじゃ済まないわ」
「ミーズが言わなきゃ見つかりっこないよ」
「ここで待ってて。私はとりあえず手配師のところに戻るから」
一緒に居なくなったのでは疑われる可能性があった。今ならば、犯人を追ったが捕まえられなかったと言い訳もできる。バタバタと部屋を出て行くミーズの後ろ姿を見送りながら、恵里は自分のした無法行為に呆然としていた。いきなり知らない人の頭を殴るなんてどうかしている。自分はもう警察も法律もないこの世界に染まりきってしまったのだろうか。魔法だの魔獣だのと非日常に慣れすぎて善悪の判断もおぼろげになっているのだろうか。だけど、と恵里は思う。見過ごすなんて出来ない。どういう理由があるにせよ無抵抗の女を殴ることに正義などあるわけがない。この世界にいる間は自分の正義を直截的に表現してもいいんじゃないか。ここには悪を捕らえる警察も悪を裁く法律も存在しないのだから。
ミーズは一時間もしないうちに戻ってきた。手配師は気絶したまま倒れていたので人を呼んで手近な宿へ運んでもらい、気がつくまで介抱していたのだそうだ。手配師は怒り狂っていたものの、ミーズを咎めるようなことはなかったというので恵里はホッと安堵のため息を吐いた。八つ当たりにまた暴力を振るわれたりしないか心配だったのだ。
ミーズを待つ合間に、恵里は手持ちの薬草の中から打撲に効果のあるものを煎じ、布に染ませた湿布薬を作っていた。粘着性がないから仰向けになる必要がある。ミーズに横になるように言い、赤くなった頬に湿布薬を貼りつけて氷の魔法で熱を持つ患部を冷やしてやった。
「ありがとう。ああ、気持ちいい…」
頬を冷やすために当てた恵里の手に、ミーズの手が重なった。指先はささくれていたが、爪の間に汚れはなく清潔そうな手だ。恵里の手よりも一回りほど小さい。
「メルの酷い頭痛が治まらないから今日は休ませてあげたかったの。それで手配師に頼みに行ったら、」
ミーズは言葉を切った。その後は恵里が見た場面に続くのだろう。
「可哀想なメル…力になってあげられなかった」
ああ、なんて良い子なのだろう。自分が酷い目に遭ってなお友人を心配してみせる。
「ねえ、私ちょっと眠るけど、部屋から出ちゃダメよ」
恵里を信じ切った様子でミーズは言い、目を閉じるとすぐにすうすうと寝息を立て始めた。時刻は正午前。彼女の仕事は夜に始まる。少しでも睡眠を取っておきたいのだろう。恵里はミーズの柔らかな長い髪の毛を手ぐしで梳いた。まだ二十歳そこそこだろうか、寝顔は幼い。どういう事情があって春をひさぐのか恵里には分からないが、清く優しい彼女の心がいつも安らかであるよう祈らずにはいられないのだった。




