16.魔女の家からの旅立ち
アーデルによる薬草学講義の最終試験は難関だった。何度も挑戦した末にようやく合格し、人に処方して良いとお墨付きをもらった今、恵里の旅立つ機は熟したと言えよう。もともと徒手空拳でこの世界で来たのだからどこへ行くにも身軽な体である。旅の準備は特に必要なかったが、縁あって出会った人たちにはせめて出立の挨拶をしたいと思い、恵里はロレントへと向かった。
サルヴォ邸の庭園、ラニエロ卿の彫像の前に現領主のディアゴ・サルヴォ伯爵が佇んでいる。声を掛けるとゆっくりと振り返ったその姿は、彫像とどこか面影が重なって見える。血縁というのもあるだろうが、領民への思いが二人の姿を似て見せるのかもしれない。
「やあニーノ。良い天気だね」
「おはようございます、伯爵。魔女の家を出ることになりましたので、今日はそのご挨拶に参りました」
「そうか。行き先は決まっているのかね」
「はい。王都オルロへ」
王都オルロ。ニールバーはもともとひとつの王国であったが、世継ぎを流行病や戦で亡くし、王族や国の中枢にいた貴族たちが後継者争いで揉めるうち、実質的に領地を治めていた領主たちがなし崩し的に独立を果たした。度重なる戦で疲弊した領地の回復を再優先したい各地の領主は王権争いに参加する余裕も意思もなかったのだ。国が分裂状態にある中で他国から攻め込まれることを恐れ、領主たちは王を名乗らずその立場のまま同盟を結び、これが現在の連邦制の前身となる。連邦国の形態を取るニールバーで、本来ならば首都と呼ぶべきオルロは王国の名残りの王都を冠し、今もそれぞれの領地を結ぶ街道の始点であり、人と物と金の全てが集まる地であった。連邦議会など国としての機能も集約されており、王国が失われてなおニールバーで最も栄えた都なのである。
「しばらく逗留して路銀を稼ぐつもりです」
「私も会議などでオルロへ赴くことも多い。落ち着いたらぜひ連絡してくれ」
「ええ、きっと。ところでアメリアはどこに?」
「さて、いつもの庭だろう」
恵里は伯爵に一礼して辞し、アメリアの秘密の庭へ向かった。小さな木戸をくぐれば、さざ波のような笑い声が庭の奥の東屋から聞こえてくる。どうやら、庭は秘密ではなくなったようだ。ツタが絡まり庭の隅にひっそりとしていた東屋は、アメリアと二人の兄たちがティーカップ片手に談笑する楽しげな茶話会の場となっている。
「皆さん、ごきげんよう」
「ニーノ!」
飛びついてきたアメリアを抱きとめながら、恵里は二人の兄に会釈した。ロベルトが立ち上がる。
「先の魔獣の時は助けられた。礼も出来ないままで済まない」
「いいえ、大したことはしておりませんのでどうかお気遣いなく。今日は出立のご挨拶に参ったのです。明日オルロへ発つことにしました」
「王都オルロ?」
「うん。しばらくそこでお金を稼ごうと思ってるんだ」
恵里がそう答えると、アメリアは知っている場所の名だったせいかホッとしたような顔をした。
「オルロなら私知っているから遊びに行くわ、そんなに遠くないもの。でもニーノも時々遊びに来てね」
「うん、落ち着いたら連絡するよ」
「そうか、オルロへか。私に何か出来ることがあったら言ってくれ」
「ありがとうございます、その時はお世話になります」
恵里がロベルトに頭を下げると、その隣に居たフェーデレが無言のまま恵里に手を差し出した。唇をへの字に引き結んでそっぽを向きながら握手を求める様は、何とも不器用で弟分っぽい可愛げがあるのだった。
恵里がサルヴォ邸を出る時には、皆が門まで見送りに出てきてくれた。バイクを走らせながら何度も振り返って手を振る。何だか今生の別れのような気分になって、少し涙が出てきた恵里だった。
その足でジッロの職場である鍛冶場へ向かった。ちょうど仕事の最中であったようだ。吹き出す汗を拭うこともなく、一心に鉄を鍛えるその横顔を恵里はしばし眺めた。そうして鉄に向き合うジッロの姿はどこか神聖で犯し難い雰囲気があった。ふう、と一息ついてジッロの手が止まったので、恵里は声を掛けた。
「やあジッロ。明日オルロに発つことにしたんで挨拶に来たよ」
「ふうん、オルロか。でかい街だもんな」
「しばらくオルロで路銀を稼ぐつもり。長い旅になりそうだからね」
「旅?」
「うん、生まれ故郷に帰る方法が見つかるかもしれないんだ。遥か西の島に手がかりがあるらしくて」
「旅か、そうか。俺はこの街を出たことがない。外の世界はどんなものなんだろうなあ」
ジッロはまだ見ぬ世界に思いを馳せるような表情をした。一度根を下ろしてしまうとなかなか動けない。けれども新しい世界を求めるか求めないかは、人それぞれだ。小さな村の中にも日々新しい発見があり、そこにはより深く穏やかな喜びが満ちているのだろう。
「ま、とりあえずはオルロならそう遠くはねえ。それならたまに飲みに行けるよな、お前、店の目星付けとけよ」
あっさりそう言ってジッロが仕事に戻っていったので、恵里はバイクにまたがり魔女の家へ向かった。
街からのこの草原は今まで何度となく走ったが、それももう走り納めと思うと寂しいような気持ちになる。風景が途端に得難く美しいものに見えてくるのだから不思議なものだ。恵里は日が傾くまで草原のあちこちを駆け回ったのだった。
「ねえアーデル。色々あったけど、私アーデルには感謝してるんだ。今までありがとう」
これからはそうそう顔を合わせる機会もなくなるのだと思えば、照れくさい台詞も気負わずに言えた。じっと恵里を見つめる魔女の眼は穏やかで優しげだ。
「アンタは突然訳もわからずこの世界に連れて来られて、だけど泣き言も恨み言も言わずによくアタシの言う事を聞いてくれた。アンタは強くて優しい本当に良い子だ。魔女アーデルありったけの祝福魔法をアンタに贈ろう」
魔女の唇は恵里には聞き取れない複雑な音色の言葉を紡ぎ、その指先はキラキラと光を零しながら優雅に流線を描いた。恵里の身体が柔らかい光に包まれる。お腹の辺りがじわりと暖まる感覚がして、それは次第に足先や指先まで満ちていった。
「ニーノ・ダエリ。その行き先に幸いあれ!」
第一章 〜異世界の異邦人〜 完
次回、第二章〜異世界の住人〜からは王都オルロでの生活編です。




