02.夢見る少女と魔女の邂逅
恵里が気づいた時、眼前にはやはりのどかな青空が広がっていた。仰向けに寝転んだまま、恵里は両手を空に向かって伸ばす。
「――生きてる…」
今になって突然恐怖が沸き上がってきた。空に掲げた手が震える。心臓がこれまでになく強く鼓動して息をするのもままならない。胸を押さえて恵里はハッ、ハッと短い呼吸を繰り返した。しばらくそうして動悸が収まると、大きくため息を吐く。
「生きてる」
噛みしめるようにつぶやいた。両手を投げ出し、放心したままぼんやりと雲が流れるのを眺める。何度か深呼吸し、恵里は身体の感覚を探った。かなり激しい衝撃だったように思うが、どういうわけか痛みはどこにもない。手も足もちゃんと感覚があって動かせることを確認し、恵里はゆっくりと身体を起こした。近くに愛車の姿はなかった。そればかりか、広がっているのは見たこともない景色だった。只管だだっ広い草原。例えば北海道とか、阿蘇とか、写真で見たヨーロッパの丘陵地帯のような。少なくとも、見知ったダムでないことは確かだ。
「え、なにこれ。どこ?ここ?」
恵里は被ったままだったヘルメットを脱いだ。土と草の、青く瑞々しい匂いが鼻腔をくすぐる。痛みを感じなかった身体にはやはり傷もなく、着ていた革のライダース上下にもライディングブーツにも目立った傷や汚れはなかった。恵里はそろそろと立ち上がり、辺りを見回した。立った分遠くまで見渡せたが、やはり見えるのは緑の草地ばかりだった。
「どうしちゃったんだろう。なんだよこれ。どこだよここ。もう嫌だ」
恵里は泣きそうになった。恐ろしい目にあって、一刻も早く家に帰りたかった。誰かに慰めてもらって安心したかった。それなのに今自分がどこにいるのかすらまるで見当がつかない。ひとしきり涙目で呆然と「もう嫌だ」と繰り返していた恵里だったが、助けが来る様子も事態が好転する兆しも一向にない。自分でどうにかするしかなかった。恵里は浮かんだ涙を革ジャンの裾で乱暴に拭い、歩き出したのだった。
とにかく右も左も分からない恵里が目指したのは、遠くの方に見えた一本の大きな木だった。登ってみれば何か見えるかもしれないと思ったのだ。小一時間ばかり歩いて、恵里は目指す木が想像以上に大きいと知った。もっと近づくと、大樹の幹にドアがあることに気づいた。ドアにはアルファベットに似た、しかし見たことのない文字が綴られている。恵里は遠慮がちにそのドアをノックした。
反応はない。
もう一度ノックする。が、やはり反応がない。
「すみませーん」
恵里は大声を出しながら力を込めてドアを叩く。
「なんだいうるさいねぇ!」
と、突然ドアが開き、白髪をひとつに束ねて三つ編みにした老婆が出てきた。鷲鼻に黒いローブを羽織って人の悪そうな目つきをしたその姿は、まるで昔読んだおとぎ話の魔女のようだ。老婆は恵里の頭のてっぺんからつま先まで品定めするような視線で舐め回す。「ふぅん、まあまあいい男」、と言いかけてクンとひと鼻鳴らし、「なんだ女かい」と途端に詰まらなさそうな顔をした。確かに恵里は化粧をしていなかったし、髪はヘルメットから出ないように短めのボブ。背は女にしては高い一七〇センチで声も低い方だ。加えて胸の厚みも貧相なものだったから、ちゃんと化粧して女らしい格好をしなければ男に間違えられることはままあった。しかし面と向かってその言い草はないだろう。
「ご挨拶だね、バアさん。アンタは?魔女?」
意趣返しの気分で言ったのだが、老婆はフフンと得意気に笑った。
「いかにも。魔女アーデルとはアタシのことさ」
いかにもとは、これいかに。魔女だって?面食らったが、それで時を止めている場合ではない。
「それで魔女アーデル、ここはどこ?私、気づいたらここにいたんだけど」
恵里がそう言うと、魔女はうっと呻いて目を泳がせた。
「アタシの名を聞いて、驚きもしない。あんたもしや、別の世界から来たんじゃ…」
「別の世界かどうか知らないけど、少なくともここ日本じゃないよね?」
「ありゃぁ…」
魔女は天を仰いだ。
「すまなかったね、あんたを呼んじまったのはアタシだよ。あんたの世界と、この世界は平行の世界でね、アタシは時々そっちの草や木の実なんかを魔法で呼び寄せてたのさ」
恵里が老婆の口から発せられる突拍子もない話を驚でもなく聞いていたのは、これはもう夢に違いないと思っていたからだ。魔女だの魔法だのとあまりに荒唐無稽な内容だし、第一こうして当たり前に言葉が通じているのも都合が良すぎる。そのうち目が覚めるでしょ、と恵里は独りごちたのだった。受け入れがたい現実を夢と断じることを現実逃避と言うのは、あまりにも酷だろう。
「それであんたはなんて名前だい?」
魔女アーデルに問われ、恵里は首を傾げた。
「新野田恵里」
「いいかい、ニーノ・ダエリ。信じられないだろうが、あんたがここにいるのは現実だ。夢の中にいるんじゃあない」
恵里はアーデルの言葉をただ黙って聞いていた。どうせ夢なのに追求するだけ無意味だ。
「あんたはアタシの魔法でこの世界に連れてこられちまった。残念なことに、アタシは呼ぶことは出来ても送る魔法を知らないんだよ」
「ずいぶんあっさり言うけどさぁ」
「そりゃ…すまないことをしたとは思ってるし、責任も感じちゃいるよ。だからアンタにこの世界で困らないようにしてやるつもりさ」
謝罪の台詞すらどこか尊大に言い放つ魔女に、怒りを通り越して呆れるしかない恵里だった。




