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  穏やかな日常と、不穏な夜③

 

 夜。


 星が幾重にも重なり、連なり、瞬く。

 星が最も明るく輝くのは春だが、初夏の夜空であってもその輝きは十分に地上を照らしている。

 夜目の利く『獣』(フィグル)にとっては、十分すぎるほどの明かりだ。


()()だ」


 グレインの低い呟きに小さく頷き返す。


 目の前には、見覚えのある街の男の遺体。

 他の街からの移住者の一人で、鍛練所から程近い繁華街の端に住んでいた男だ。

 特に外傷も損傷もなく、身につけている衣服も綺麗なものだ。表情に苦悶はなく、一見すればただ眠っているようにさえ見える。街の中なら、病死か自然死で片付けられただろう。


 だが、ここは『外』。

 街を囲む境界を超えた『外』では、それは不自然すぎる程に綺麗な遺体だった。

 街から大分離れ、腹を空かせた(フィグル)どもが跋扈する領域で、少なくとも死後二日は経過している遺体が獣にも野生の動物にも食い荒らされていないということは。


「毒か」

「ああ。見ろ」


 グレインが遺体の項を指す。

 肌の一部に小さな白い斑点が現れていた。


「・・・厄介だな」


 ひっそりと咲く野花のような、その特徴ある痣には覚えがある。

 『レイヴィスの恵み』。

 愚かな狂人が作り出した、たった一滴で千人を殺す猛毒。

 無味無臭でそれ自体には何の特徴も無く、痛みも苦しみも自覚症状は一切出ない。そのまま服用すれば、ただ眠るように死の床につき、首筋に小さな花のような白い斑点だけが残る。

 その一方で、調合次第では内臓の病に劇的な効果を生む妙薬にもなるという。

 死を望む者にとっての恵みであると同時に、生を望む者にとっても恵みとなる『レイヴィスの恵み』。

 だが、その精製技術を知る者は、ごく、僅か。


「昼間の連中とは全くの別物、か」


 妻たちを狙った襲撃者たちは、二人の命をその場で奪おうとはしていない。むしろ誘拐目的で絡め手を含め、なるべく無傷で捕らえようとしている。

 数が多く、後を絶たない苛立ちはあるが、すぐに叩ける程度の素人臭い動きで俺たちの脅威にはなり得ない。

 グレインによって幾重にも仕掛けられた罠に次々とかかり、生け捕りにした細い「根」は、尋問を得意とするフィリウスに渡してある。ほどなくより太い「根」を引きずり出せるだろう。

 それに昼間の連中が狙っているのは妻とレインのみで、他の訪れし者にその矛先が向いたことはなかった。


 だが、これは違う。


 街で毒殺した成人男性をわざわざ『外』へと運びだし、その存在さえ掴ませない。

 街の人間なら一人で『外』に出ることはしない。彼らにとって、『街』は(フィグル)から我が身を守れる唯一の場所なのだから。


 この男は数日前から行方不明の届けが出ていたが、夜も人通りの多い繁華街でただ一人の目撃者も無い。

 手口が、あまりにも鮮やかすぎる。


「ヴォルフとフィリウスの件と絡んだな。明日、合流だ」


 苛立たしげに髪を掻き上げたグレインがエウレカに騎乗するのに続き、男の遺体を自分のエウレカに乗せて騎乗する。


 『レイヴィスの恵み』と夜の襲撃者。

 ヴォルフとフィリウス。

 そして、その妻と同居人。


 絡まねば良い、と思っていた根が絡み始めている。


 それに、気がかりなことがもうひとつ。

 ・・・ここ数日、グレインに余裕がない。


 あの月に一度の勉強会をきっかけに「レインと一緒なら出かけていい」と勘違いした妻は、レインと二人で頻繁に出かけるようになっていた。

 妻たちはあまり単独行動はせず、人が多く集まる場所を好んで訪れている。仕掛けとは別にグレインと交代で彼女たちの周囲を警戒していたが、グレインが担当していたある日を境に彼女たちを狙った襲撃が極端に減った。

 ほぼ、皆無になったと言ってもいいだろう。


 その日から、なぜかグレインの機嫌が悪化の一途を辿っている。


 ただ機嫌が悪いだけではない。

 まるで何かに追い詰められているような、忍耐の限界に到達しかけているような緊迫感が、鋭い針のように伝わって来る。

 襲撃者絡みなら何も言わずとも情報を共有するはずだ。

 それがないということは、おそらくレインに関することなのだろう。


 何があったのか尋ねてみても殺気立つだけで返答はない。

 妻の話を聞く限り、その日に何か特別なことが起きたわけでもなく、グレインとレインも別段不仲という訳でもないらしいのだが。

 フィリウスのように上手く口を割らせることができるならそうするが、俺がグレイン相手にそれをするのは幼児が素手で(フィグル)を狩ろうとするのと同じくらい無謀なことだ。


 今は、様子を見るしかないのだろう。


 不機嫌なグレインと別れ、今後のことを考えながら街に戻ったのは星がまだ中天に来る前だったが、男の遺体を夜勤の警領士の元へ運び込み、補助として詰めていた自警団員に団長への報告を依頼したりしているうちに、星は中天を大きく超えている。

 いつもより遅くなってしまった。


 あまり家に近いとウーマの気配に怯えてエウレカが嘶いてしまうから、まだ少し距離がある地点でエウレカを止める。

 眠りが深い妻はそれくらいでは目を覚まさないだろうが、念のため、ウーマの気配に気づかないぎりぎりの距離でエウレカから降り軽く首を撫でてやると、本来の主の元へ帰って行く。


 歩いて家に近づくと、とっくにこちらに気づいているはずのウーマが一心に家の方を向いたまま、落ち着き無く足を踏み鳴らしていた。

 滅多なことでは動揺しないはずのウーマが、不安と混乱を示す動きを繰り返している。


「どうした」


 殺気立っているわけではないから、(フィグル)でも襲撃者でもない。ざっと見渡す限り、仕掛けにも異常は見つからないのだが、ウーマの足踏みは止まらない。

 ようやく視線をこちらに向けたウーマから、不安げな、戸惑うような感情が流れ込んできた。

 元々分かりやすい性格で、特に名を与えてからはもっと細やかな感情の機微を感じ取れるようになっていたが、今はどうすればいいのかわからないというような強い困惑だけが伝わってくる。

 俺の後ろに回り込んだかと思うと「さっさと行け!」と言わんばかりに、鼻先で背中を思いっきり押された。


 ウーマに促されるままに家の扉の仕掛けを解除し、家の中に入る。

 途端、違和感に体が緊張した。


 食卓の花瓶の下敷きが新しいものに変わっていて、棚の上の飾りが増えていたが、特に大きく変わった様子はない。


 だが、いつもならすぐに見つけられるはずの妻の気配が、寝室にない。

 時々聞こえてくるはずの寝言や温かな寝息も聞こえてこない。


 どこに、と首を巡らすと、調理場の方で水滴が滴り落ちる音が響いた。

 そこに妻の気配がある。


 ・・・水を飲んでいたのか。

 無意識に詰めていた息を吐き出して。


 また、一滴。

 

 再び水滴が落ちる音に、ギクリ、と体が強張った。

 押し殺した、喉から漏れる荒い呼吸。鼻をすする音。


 なぜかひどく緊張しながら調理場を覗き込むと、そこには、痛々しいほど体を小さく丸めた妻が床にうずくまっていた。

 咄嗟に駆け寄って小さな体を抱き上げる。


 ・・・ウーマの様子がおかしかったわけだ。 


 一体、いつからこうしていたのか。

 小さな体は冷えきってしまっている。

 どうしてこんなところにいるのか、なぜ泣いているのか。

 その疑問を口にするよりも早く。


「・・・だれも、いない・・・」


 胸元の服を強く握り締めた妻が、また涙を流しながら囁く。


「どうして・・・。か、帰ってきてくれた、はずなのに。どうして、だれもいないの?」

 

 涙を流しながら、妻の黒い瞳が見上げてきて。

 後頭部を殴られたような衝撃に、とっさに妻を抱え直し不安げに震える手を握り締めると、妻はその手を自分の頬に当てて、大きく息を吐き目を閉じた。


「お願い、行かないで。消えて、しまわないで・・・」


 かあさま。


 泣きながら小さく呟き、そのまま眠りに落ちていく。

 しばらく妻を抱えたまま立ち尽くしていても、寝入ってしまった妻を寝室に運び込み寝台の上に寝かせても、細い指は掴んだ服を離そうとしない。


 柔らかな弧を描く頬はしっとりと濡れ、涙のあとで赤くなってしまっている。


 ・・・迂闊だった。


 妻は、訪れし者だ。

 普段どれだけ明るく振る舞っていようと、見知らぬ土地で、己の意思に寄らず家族や友人知人はおろか、本来いるべき地から引き離されてしまった孤独はいったいどれ程のものだっただろうか。


 少しも陰りを見せずに、明るく笑顔で過ごしていたから、忘れてしまっていた。

 館で初めて妻を見かけたときの、迷子になった幼子のように不安げなあの姿が脳裏に浮かぶ。


 寂しくないわけがない。

 平気なわけがない。

 恐怖も不安もあっただろう。

 故郷の人を思い泣くことも、故郷に帰りたいと思うのも当然のことだ。


 だが、そう理解する一方で。

 涙の跡が残る頬を撫でながら、諦めに似た感情と同時にひどく熱いものが込み上げてくる。


 行くなというなら、そばにいよう。

 消えるなというなら、決して消えたりしない。

 俺が、居場所になる。

 だから・・・。


 溢れ出そうになった思いを飲み込み、僅かに震える手でその柔らかな体を抱き寄せ、瞑目する。


 ・・・ああ、そうか。

 俺は、もうとっくに。


 ・・・落ちていたのか。

 

 


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