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第51話:宵闇の刺客と、塔を封鎖する空間燻蒸



 全自動空調機構スマート・クライメートによって、魔女の塔は一年中快適な温度が保たれるようになった。

 洗濯、掃除、料理、空調。あらゆる生活インフラが僕の魔術によって自動化され、塔の暮らしはかつてないほどの平穏と効率化の極致に達していた。


 しかし、その平穏な夜。

 僕がリビングで魔術の専門書を読んでいると、部屋の隅の暗がりで「黒い影」がカサカサと不気味な音を立てて動くのが視界の端に映った。


(なんだ、今の動きは……!?)


 本から目を上げ、影が動いた方向を凝視する。

 そこには、床を這うようにして素早く移動し、棚の裏へと滑り込む、手のひらほどの黒光りする不気味な存在がいた。


「ひっ……!」


 僕は思わず短い悲鳴を上げた。

 まさか。あれほど自律巡回清掃機構(お掃除ロボット)で磨き上げている塔の内部に、あんな素早く黒光りする不快な『害虫』が湧いたというのか。食材の備蓄が増えたせいで、外部から入り込んでしまったに違いない。


「どうしたの、アルド?」

「アルド様、何か恐ろしいものでもご覧になりましたか?」


 お茶を飲んでいた師匠エレノア・ヴェルベットとセレスティアが、不思議そうに僕を見る。

 この時、僕は気づいていなかった。その黒い影の正体が、ただの虫などではなく、ルミナス聖教国の内部抗争によってセレスティアの命を狙って放たれた、高位の『影魔獣シャドウ・ビースト』であることを。

 影に溶け込み、音もなく対象の命を刈り取る暗殺の使い魔。それが今、僕たちの命を奪おうと棚の裏で毒牙を研いでいたのだ。


(ば、馬鹿な! あんな素早く予測不能な動きをする黒い悪魔と、同じ空間で夜を明かすだと!?)


 そんなことをすれば、どうなるか。

 寝ている間に顔の上を這われるかもしれない恐怖。いつどこから飛び出してくるか分からない精神的ストレス。害虫という最悪の猛毒が、僕の精神の平穏を完全に破壊し、魔術師としての集中力を根底から崩壊させてしまう!


(これも試練だ……! 『視界の死角に潜む黒い悪魔』という、見えない恐怖との戦い。一匹いれば百匹はいると言われるあの絶望の中で、決してパニックにならず、塔の隅々まで一瞬にして浄化するという、超広域の防衛テスト!)


 僕は覚悟を決めた。

 一匹ずつ叩き潰していては、必ず逃げられ、精神を消耗する。

 ならば、僕が追いかけるのではなく、「塔の内部のあらゆる隙間に、生命活動を強制停止させる煙を行き渡らせる『空間燻蒸』を行えば」いいのだ。


「承知いたしました、お二人とも! すぐに塔の完全浄化(害虫駆除)を開始します! 直ちに外へ避難してください!」

「えっ? 避難? アルド、いきなり何を――」

「術式展開――風属性魔法『全域充満エアロゾル』及び、毒属性魔法『致死性煙幕ペスト・コントロール』!」


 カチリ、と僕の魔力が、リビングの中央に「赤い缶のような魔力結晶」を生成した。


 プシュウゥゥゥゥゥゥッ!!


 その瞬間、赤い結晶から猛烈な勢いで「人体には無害だが、人間以外の生体マナを強制遮断する白い煙」が噴き出した。

 煙は風の魔力に乗って、リビングはおろか、塔の最上階から地下の大浴場まで、ありとあらゆる隙間という隙間にコンマ数秒で充満していく。


「きゃあああっ!? な、何よこの煙!」

「目が、前が見えませんわーっ!」


 僕はパニックになる二人を両脇に抱え、そのまま塔の窓を蹴破って外へと飛び出した。


 背後で、棚の裏に潜んでいた影魔獣が「ギヤァァァァッ!?」と断末魔を上げ、白い煙に巻かれて干からびた虫のようにポトリと床に落ちる音がしたが、煙の勢いに掻き消されて誰の耳にも届かなかった。


「――アルド師範!! 塔の窓から異常な白煙が噴き出しているのを発見し、急ぎ駆けつけ……な、なんとっ!?」


 外の芝生に降り立った僕たちの前に、王室騎士団長のシルフィアが駆けつけてきた。

 彼女は、全ての窓からモクモクと白い煙を吐き出している魔女の塔と、両脇に美女を抱えて涼しい顔で脱出してきた僕を見て、夜露に濡れた草の上にガクンと片膝をついた。


「な、なんという……ッ!!」


 シルフィア団長はワナワナと震えながら、煙を吹く塔を指差した。


「内部に潜伏した間者や伏兵を一人残らず炙り出すため、自らの本拠地すらも丸ごと毒の煙で満たし、一切の逃げ場を奪う『拠点丸焼きの計』……! これならば、壁の中に潜むネズミ一匹すらも確実に仕留めることができる! アルド師範、貴殿の兵法はついに、自らの城を捨てることすら躊躇しない冷酷な戦略の域に達したというのか!!」


 目をキラキラと輝かせる女騎士団長。

 一方で、芝生の上に放り出され、煙の匂いを嗅いでむせている師匠は、乱れた服を直すことも忘れて塔を見上げていた。


「……信じられない」


 師匠は、ワナワナと肩を震わせた。


「私……これから寝る前の軽いストレッチで、アルドに色目を使う予定だったのに……。なんで私、巣穴に火を放たれて(いぶ)り出されたスモーク・ゴブリンみたいな扱い受けて、夜の芝生に放り出されてんのよっ!!」

「ゲホッ、ゴホッ……! アルド様、塔が煙だらけで、中に入れませんわ……っ」


 師匠の絶叫と、セレスティアの咳き込む声が夜の森に響き渡る。


「申し訳ありません。あの煙が完全に抜けるまで、最低でも三日間は塔に入れません。……しばらくは、別の場所で寝泊まりするしかありませんね」


 僕がそう宣言した瞬間。

 咳き込んでいた二人の動きが、ピタリと止まった。


「……三日間、帰れない?」

「……別の場所で、寝泊まり?」


 師匠とセレスティアが顔を見合わせる。

 その直後、二人の瞳の中に、先ほどまでの絶望を完全に焼き尽くすほどの「ギラギラとした強烈な光(欲望)」が宿った。


「そうね、アルド! 塔に入れないなら仕方ないわ! 王都の高級宿を貸し切るか、それとも少し足を伸ばして温泉地にでも身を寄せましょうか!」

「ええ、神の与えたもうた試練ですわ! 今すぐ荷物をまとめて……あら、荷物は全部あの煙の中ですわね。なら、現地調達するしかありません!」


 僕のステータス画面には、新たに【空間燻蒸ペスト・コントロール】と【拠点破棄の決断者】という、どんな堅牢な要塞だろうと煙玉一つで制圧してしまいそうなスキルが刻まれていた。


 しかし、そんなことよりも問題なのは、突然の『お泊まり旅行』という事実を前に、両脇の美女たちがかつてないほどの熱気を帯びていることだった。

 やはり魔術師との共同生活とは、予測不能な危険に満ちている。

 僕はさらなる修行の始まりを予感しながら、目を輝かせるシルフィア団長に、とりあえず王都周辺の優良な宿泊施設について尋ねるのだった。


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