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第36話:地下迷宮の探索と、迫り来る壁を突き放す絶対無限空間



 魔術協会からの特別依頼を受け、僕と師匠エレノア・ヴェルベット、そして護衛のシルフィア団長の三人は、古代魔術文明の遺構『崩石ほうせきの遺跡』の地下深くへと足を踏み入れていた。

 今回から始まるこの地下迷宮探索は、最深部に眠るという「神代の魔導書」を回収するまでの、数日にわたる過酷なミッションとなる予定だ。


「さあ、アルド。この階層からは未知の領域よ。周囲のマナの反響エコーに細心の注意を払ってね」


 薄暗い迷宮の通路で、松明の光に照らされた師匠が妖艶な笑みを浮かべた。

 本日の彼女の迷宮探索用装備は『高感度エコー・スーツ』だという。

 しかし、その実態は、黒一色の極薄のラバースーツ(ゴム素材)を全身に隙間なく密着させた、もはや「黒い塗料を全身に塗っているだけ」に等しい代物だった。さらに、前方からの音波を拾うためという名目で、胸元のジッパーはおへその下まで大胆に開け放たれており、歩くたびにゴム特有の艶やかな光沢と摩擦音が響く。


「し、師匠……! いくらマナの反響を拾うためとはいえ、そのお姿は……あまりにも体のラインが露わになりすぎています! それにゴムの擦れる音が逆に魔物の注意を引くのでは!」

「あら、全然分かってないわね」


 師匠は艶やかな吐息を漏らし、ラバースーツの胸元を強調しながら尤もらしい魔術理論を語り始めた。


「迷宮内に充満する微細なマナの振動は、布の繊維で吸収されてしまうの。この特殊な密着ラバーは、皮膚に伝わる振動を鼓膜へと直接届ける究極のソナーよ。そして、いざ罠に落ちた時は、波長の合う弟子の体と密着することで、互いのスーツを共鳴させて索敵範囲を広げることができるのよ」

「な、なるほど……! 己の羞恥心と防御力を犠牲にしてまで、迷宮の隠された罠を暴き出す究極のセンサー!」


 僕は深く頷いた。

 危険な地下迷宮において、自らの肉体を索敵レーダーと化す大魔女の覚悟。やはり師匠は偉大だ。

 だが、その直後だった。


 カチッ。


 僕と師匠が小部屋に入った瞬間、床の石板が微かに沈み込んだ。

 ガコンッ!という重たい音と共に、背後の石の扉が猛スピードで閉ざされ、入り口に立っていたシルフィア団長と分断されてしまった。


「なっ!? 扉が!」

「エレノア殿! アルド師範! ご無事ですか!」


 分厚い石の扉の向こうから、シルフィア団長の焦った声が響く。

 だが、真の危機は扉が閉まったことではなかった。


 ゴゴゴゴゴゴゴッ……!


 小部屋の左右の壁が、地響きを立てながら、ゆっくりと中央に向かって迫り出し始めたのだ。

 いわゆる『迫り来る壁の罠』である。


「きゃああっ! 壁が! 壁が閉まってくるわ!」


 師匠が悲鳴を上げ、僕のそばへと駆け寄ってきた。

 だが、その顔には恐怖よりも、どこか嬉しそうな、隠しきれない期待の笑みが浮かんでいた。

 おそらく、事前に迷宮の地図(トラップの位置)を把握しており、わざとこの罠を踏んだのだろう。この壁は完全に閉まり切る直前、中央に大人二人がギリギリ抱き合って収まる程度の隙間を残して停止する仕様なのだ。


「あ、アルド! このままじゃ潰されちゃう! 早く、私を強く抱きしめて! 二人で重なり合えば、中心の隙間で生き残れるわ!」


 師匠が潤んだ瞳で僕を見つめ、ラバースーツの胸を押し付けるように両腕を広げて迫ってくる。

 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内で最大級の警報が鳴り響いた。


(ば、馬鹿な! この逃げ場のない小部屋で、あの全身ラバースーツの師匠と、壁が止まるまでの数分間、完全に密着して抱きしめ合うだと!?)


 そんなことをすれば、どうなるか。

 ゴム越しに伝わる師匠の柔らかな体温と、極限の密着状態。少しでも身じろぎすれば鳴り響くであろう、ラバー特有の艶かしい摩擦音。

 そんな状況下で男としての『煩悩』が暴走しないはずがない! 僕の邪念という最悪のノイズが、師匠の繊細なエコー・スーツを完全に狂わせ、迷宮の索敵を不可能にしてしまう!


(これも試練だ……! 『迫り来る壁による強制密着』というダンジョン特有の絶対絶命の誘惑。この状況下でも、決して相手に触れず、己の空間を清浄に保つという、師匠からの超高度な空間把握テスト!)


 僕は覚悟を決めた。

 抱きしめ合えば、必ず煩悩に支配され、過ちを犯す。

 ならば、僕たちが密着しなくてもいいように、『迫り来る壁と僕たちの間にある空間そのものを、無限に引き伸ばせば』いいのだ。


「承知いたしました、師匠! 完璧な空間確保をお約束します!」


 僕は師匠のハグを受け止める代わりに、両手を左右の壁に向かって突き出した。


「えっ? ちょ、アルド? 抱きしめないで何をして――」

「術式展開――時空魔法『絶対無限分割』及び『空間無限拡張インフィニティ・スペース』!」


 カチリ、と僕の魔力が、小部屋の空間概念そのものを書き換えた。


「さあ師匠、これで壁は永遠に僕たちに届きません!」

「永遠に!? ちょっと待っ――ひゃああっ!?」


 師匠が僕の胸に飛び込もうと、思い切り床を蹴って踏み込んだ。

 だが、彼女の体は僕に届かなかった。

 僕と師匠の距離はわずか五十センチ。しかし、師匠が一歩踏み出すたびに、僕と彼女の間の空間が『無限に分割・拡張』され、決してゼロになることがないのだ。


「な、何これ!? 走っても走っても、アルドとの距離が縮まらないぃぃっ!?」


 師匠の悲鳴が小部屋に響き渡る。

 彼女は僕に向かって猛烈なダッシュをしているのに、空間が無限に伸びているせいで、まるでランニングマシンの上を走っているかのように、一向に僕に触れることができない。

 同時に、左右から迫り来る分厚い石の壁も、僕たちから数十センチの距離まで迫りながら、そこから先は『無限の距離』に阻まれ、ゴゴゴゴと音を立てながら永遠に空回りし続けていた。


「――アルド師範!! 今、分厚い扉を叩き斬り……な、なんとっ!?」


 その時、小部屋の入り口の石扉がズバァン!と粉砕され、大剣を構えたシルフィア団長が飛び込んできた。

 彼女は、左右の壁がものすごい勢いで迫っているのに全く潰されない僕と、僕に向かって涙目で全力疾走を続けているのに一ミリも進んでいない師匠の姿を見て、瓦礫の上にガクンと片膝をついた。


「な、なんという……ッ!!」


 シルフィア団長はワナワナと震えながら、空間が歪んだ小部屋の中心を指差した。


「迫り来る死の壁を力で止めるのではなく、己と対象との『間合い(空間)』そのものを無限に引き伸ばす絶対不可侵の領域テリトリー……! これならば、いかなる神速の刃であろうと、永遠に届くことのない無限の彼方へと置き去りにすることができる! アルド師範、貴殿はついに、物理的な『距離』の概念すらも超越したというのか!!」

「えっ? いえ、これはただの密着対策のランニングマシンでして……」

「謙遜されるな! 女のラバースーツという理性を削り取る誘惑を前にしても近づくことすらよしとせず、自らの周囲に無限の宇宙を創り出すその絶対の精神力! 我が騎士団の防御陣形にも、ぜひその『無限距離パラドックス』を取り入れさせていただきます!!」


 目をキラキラと輝かせる女騎士団長。

 一方で、僕が術式を解除し、罠の魔力切れで停止した壁の間で、師匠は全力疾走の疲労により床に大の字になって倒れ伏していた。


「……信じられない」


 師匠は、汗でさらにテカテカになったラバースーツのまま、荒い息を吐いて肩を震わせた。


「私……わざとこの罠踏んで、アルドにギュッと抱きしめられて、『大丈夫ですよ、僕が守りますから』ってイチャイチャする予定だったのに……。なんで私、壁に潰される恐怖の中で、アルドの目の前で無限に反復横跳びみたいな全力ダッシュさせられて、またあの金髪女の防御術の参考にされてんのよ……」

「おや、師匠? どうされましたか? 無限の距離にラグがありましたか?」

「アンタなんか……アンタなんか、一生蜃気楼でも追いかけてればいいのよぉぉぉっ!!」


 師匠はラバースーツをキュッキュと鳴らしながら、涙目で迷宮の奥へと走り去っていった。シルフィア団長は「なんと俊敏なダッシュ! これも無限空間での走り込みによる足腰の強化か!」と的外れな感嘆の声を上げている。


 僕のステータス画面には、新たに【空間無限分割パラドックス】と【絶対に触れられない男】という、どんな魔王の即死攻撃だろうと届く前に寿命を迎えさせられる、完全無敵の概念防御スキルが刻まれていた。


 やはり地下迷宮でのトラップ解除とは、魔術よりも奥が深い。

 僕はさらなる修行の必要性を痛感しながら、目を輝かせるシルフィア団長に、とりあえずルームランナーを使った正しい有酸素運動のやり方を教えるのだった。


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