第30話:水辺の人工呼吸と、唇を避ける絶対遠隔蘇生
魔女の塔の敷地内に広がる、透き通るような美しい淡水湖。
夏の強い日差しが降り注ぐ中、僕と師匠であるエレノア・ヴェルベットは、水辺の生態調査という名目で湖を訪れていた。
「きゃああっ! あ、足がつったわ! 溺れるぅぅっ!」
突如、湖で泳いでいた師匠が派手な水しぶきを上げ、ブクブクと水面下へ沈んでいった。
僕は慌てて『念動力』を展開し、一瞬で彼女を水の中から引き揚げて湖畔の草むらへと寝かせた。
「師匠! しっかりしてください! 息はありますか!?」
僕が呼びかけると、師匠は弱々しく咳き込みながら、うっすらと目を開けた。
本日の彼女の水辺用装備は『水精霊の寵愛型・極小ビキニ』だという。
しかし、その実態は、三枚の小さな葉っぱを極細の透明な糸で繋いだだけの、防御力ゼロどころかマイナスに突入している絶望的な代物だった。
濡れた銀髪と、水滴を弾く雪のように白い素肌。そして、荒い呼吸と共に上下する豊かな双丘が、眩しい太陽の下で完全に剥き出しになっている。
「あ、アルド……。私、お水をたくさん飲んじゃって……息が、苦しいの……」
師匠は艶やかな吐息を漏らし、潤んだ瞳で僕を見上げながら尤もらしい魔術理論を語り始めた。
「肺に入った水を追い出して呼吸を再開するには、波長の合う魔術師が『唇と唇』を直接重ね合わせ、自身の生命力を含んだ息を直接吹き込むしかないの。……お願い、アルド。私に、貴方の息を……」
そう言って、師匠は目をそっと閉じ、艶やかな唇を少しだけ尖らせて僕のキスを待った。
いわゆる『人工呼吸(合法的なキス)』の要求だった。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内で最大級の警報が鳴り響いた。
(ば、馬鹿な! この水に濡れて完全に無防備な師匠の唇に、僕の唇を直接重ね合わせ、あまつさえ息を吹き込むだと!?)
そんなことをすれば、どうなるか。
師匠の柔らかな唇の感触と甘い吐息が、僕の理性を瞬時に焼き切る。人命救助という大義名分の下で男としての『煩悩』が大暴走を起こし、僕の邪念という最悪の猛毒が、師匠の純粋な魔力回路を内部から完全に破壊してしまう!
(これも試練だ……! 『人工呼吸』という、ラブコメにおける最終防衛線を越えさせる最強の誘惑。この絶対絶命の状況下でも、決して相手の唇に触れず、完璧な蘇生術を行うという、師匠からの超高度な救命テスト!)
僕は覚悟を決めた。
口を重ねれば、必ず煩悩に支配され、過ちを犯す。
ならば、僕の唇を使わず、かつ『肺に直接、大気中の純粋な酸素を超高圧で叩き込めば』いいのだ。
「承知いたしました、師匠! 完璧な人工呼吸をお約束します!」
僕は目を閉じている師匠の唇に顔を近づける代わりに、三メートルほど距離を取り、両手を指揮者のように構えた。
「えっ? ちょ、アルド? 唇を重ねないで何をして――」
「術式展開――無属性魔法『遠隔念動力』及び、風属性魔法『超高圧酸素注入』!」
カチリ、と僕の魔力が、師匠の胸部と気道に直接干渉する。
「さあ師匠、一瞬で肺に酸素を満たしますよ!」
「酸素!? ちょっと待っ――ひゃああっ!?」
ドゴォッ! プシュゥゥゥゥンッ!!!!
静かな湖畔に、およそ人命救助とは思えない、巨大なプレス機と工業用空気入れが合体したような凄まじい駆動音が響き渡った。
三メートル離れた僕が両手を上下に振ると、見えない巨大な念動力の腕が、師匠の胸を高圧で「バッコン! バッコン!」と圧迫(心臓マッサージ)し始める。
さらに、師匠が開いた口めがけて、極限まで圧縮された純度100%の酸素の塊が、まるで大砲のように直接肺へと撃ち込まれたのだ。
「ぎゃあぁぁぁっ!? ぷはっ! ごほっ! 肺がっ! 肺がパンパンになるぅぅっ!?」
超高圧の酸素を連続で注入された師匠の体は、限界まで空気の入った浮き輪のようにピンと張り詰め、念動力の心臓マッサージの反発力で、地面の上を「ボヨン! ボヨン!」と跳ね回り始めた。
完璧に肺が酸素で満たされ、一滴残らず水が排出されたことを確認し、僕は術式を解除した。
「たのもーっ! アルド師範、湖畔の警備を――な、なんとっ!?」
その時、湖畔の森をかき分けて、水着の上に甲冑の胸当てだけを装備した王室騎士団長のシルフィアが飛び込んできた。
彼女は、三メートル離れた場所から真剣な顔で風を送り続ける僕と、地面の上で空気を入れすぎたビーチボールのようにバウンドし、ゲホゲホとむせ返っている師匠の姿を見て、砂浜にガクンと片膝をついた。
「な、なんという……ッ!!」
シルフィア団長はワナワナと震えながら、空気を入れられて跳ね回る師匠を指差した。
「指一本触れず、離れた位置から己の『気(酸素)』を直接相手の五臓六腑に叩き込み、仮死状態から強制的に生命をバウンド(蘇生)させる『虚空の竜息』……! これならば、いかなる激戦地で倒れた味方であろうと、安全圏から一瞬で戦線復帰させることができる! アルド師範、貴殿はついに、生死の境界すらも遠隔操作する神の手を手に入れたのか!!」
「えっ? いえ、これはただの密着対策の人工呼吸でして……」
「謙遜されるな! 女の濡れた唇という究極の誘惑を前にしても近づくことすらよしとせず、遠当ての如き気圧のみで命を吹き込むその絶対の精神力! 我が騎士団の衛生兵にも、ぜひその『遠隔コンプレッサー蘇生術』を取り入れさせていただきます!!」
目をキラキラと輝かせる女騎士団長。
一方で、完璧に酸素が供給され、血色も120%良くなった師匠は、芝生の上に大の字に倒れ伏し、虚無の表情で夏の空を見上げていた。
「……信じられない」
師匠は、パンパンに膨らんだ感覚の残るお腹をさすり、ワナワナと肩を震わせた。
「私……わざと足つったふりして、アルドにちゅって人工呼吸されて、『バカ……心配、したじゃない……』ってイチャイチャする予定だったのに……。なんで私、パンク寸前の自転車のタイヤみたいな勢いで空気入れられて、バウンドさせられて、またあの金髪女の衛生兵の参考にされてんのよ……」
「おや、師匠? どうされましたか? 酸素の注入圧が強すぎましたか?」
「アンタなんか……アンタなんか、一生浮き輪にでも空気入れてればいいのよぉぉぉっ!!」
師匠は極小ビキニ姿のまま、涙目で塔の方へと猛ダッシュで走り去っていった。シルフィア団長は「なんと漲る生命力! これも高濃度酸素による細胞の超回復か!」と的外れな感嘆の声を上げている。
僕のステータス画面には、新たに【気道支配】と【歩く空気入れ(人間ポンプ)】という、どんな無酸素の深海や宇宙空間だろうと味方を生存させられそうな、規格外の環境適応スキルが刻まれていた。
やはり水辺の救命措置とは、魔術よりも奥が深い。
僕はさらなる修行の必要性を痛感しながら、目を輝かせるシルフィア団長に、とりあえずタイヤの適正な空気圧の測り方を教えるのだった。




