第27話:背後からの手ほどきと、接触を断つ絶対神経支配
魔女の塔の一階にある、広く機能的な厨房。
本日は珍しく、師匠であるエレノア・ヴェルベットが夕食の準備を買って出ていた。王室騎士団長のシルフィアが塔に居座るようになってから、師匠は「大人の女の家庭的な魅力」を見せつけるために必死なのだ。
「さあ、アルド。少し手伝ってちょうだい。この『鋼殻の玉ねぎ』、私の握力じゃ硬くて刃が入らないのよ」
まな板の前に立つ師匠が、妖艶な笑みを浮かべて僕を招き寄せた。
本日の彼女の厨房用装備は『生活魔法特化・極薄キャミソール』だという。
しかし、その実態は、寝間着よりもさらに薄く、胸元も背中も大きく開いた、防御力皆無の布切れであった。さらに、細い肩紐はずり落ちて片肌が完全に露出しており、彼女が少し動くたびに、滑らかな背中の肩甲骨が艶かしく浮き上がる。
「し、師匠……! いくら火を使わない下ごしらえとはいえ、その……あまりにも無防備な背中を晒して厨房に立つのは危険です! 油でも跳ねたら大火傷ですよ!」
「あら、全然分かってないわね」
師匠は艶やかな吐息を漏らし、包丁を持ったまま尤もらしい魔術理論を語り始めた。
「食材に宿るマナを正確に切り分けるには、術者自身の肌で周囲の魔力流を感じ取る必要があるの。この大きく開いた背中こそが、最高の料理を生み出すための究極のセンサーなのよ」
「な、なるほど……! 己の羞恥心と火傷のリスクを背負ってでも、至高の味とマナの調和を追求する料理人の鑑!」
僕は深く頷いた。
日々の食事すらも魔術の探求に昇華させる大魔女の姿勢。弟子として、僕も全力で応えなければならない。
だが、僕の背筋には滝のような冷や汗が流れていた。
「ええ。だからアルド……私の背後に回ってちょうだい。そして、貴方の逞しい両腕を私の腰に回して、後ろから手を重ねて、一緒にこの硬い玉ねぎを切ってほしいの。……ピッタリくっついて、手取り足取り、教えてね?」
師匠が潤んだ瞳で振り返り、僕に甘く囁く。
いわゆる『後ろからの手ほどき(バックハグ)』の要求だった。
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳内で最大級の警報が鳴り響いた。
(ば、馬鹿な! あの剥き出しの滑らかな背中に、僕の胸板を完全に密着させ、あまつさえ後ろから抱きしめるような体勢で包丁を握るだと!?)
そんなことをすれば、どうなるか。
師匠の柔らかな体温と、甘い香りが僕の理性を瞬時に焼き切る。男としての『煩悩』が大暴走を起こし、僕の邪念という最悪の猛毒が、刃先を通して神聖な食材のマナを完全に腐敗させてしまう!
(これも試練だ……! 『二人で仲良く料理』という新婚夫婦のような致死量の誘惑の中でも、決して相手に触れず、完璧な調理を遂行するという、師匠からの超高度な精神力テスト!)
僕は覚悟を決めた。
背後から抱きつけば、必ず煩悩に支配され、手元が狂う。
ならば、僕が『一ミリも触れずに、師匠の運動神経を完全にジャックして、僕の技術をそのままトレースさせれば』いいのだ。
「承知いたしました、師匠! 完璧な手ほどきをお約束します!」
僕は師匠の背後には回らず、三メートルほど離れた場所で、おもむろに「見えない包丁」を握るような構え(エア料理)を取った。
「えっ? ちょ、アルド? 後ろに来ないで何をして――」
「術式展開――無属性魔法『完全生体同期』及び『遠隔運動神経支配』!」
カチリ、と僕の魔力が、師匠の肉体を動かす電気信号(神経系)に直接干渉する。
「さあ師匠、いきますよ! 千切り開始!」
「千切っ!? ちょっと待っ――ひゃあっ!?」
ダダダダダダダダダダダッ!!!!
静かな厨房に、およそ料理の音とは思えない、工業用フードプロセッサーのような凄まじい破砕音が響き渡った。
三メートル離れた場所で僕が高速で手を動かすと、それに完全に同期(強制ジャック)された師匠の両腕が、彼女の意思を完全に無視して、残像が見えるほどの速度で包丁を叩きつけ始めたのだ。
「ぎゃあぁぁぁっ!? 腕がっ! 腕が勝手にぃぃっ! 止まらないぃぃぃっ!」
師匠の悲鳴が厨房に響き渡る。
超硬度を誇る『鋼殻の玉ねぎ』が、僕の完璧な包丁さばき(を強制トレースさせられている師匠の腕)によって、ミクロン単位の寸分の狂いもない、透き通るような美しい千切りへと秒速で変わっていく。
もちろん、玉ねぎの強烈な催涙成分が容赦なく跳ね返り、師匠の目からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「たのもーっ! アルド師範、夕食のいい匂いが――な、なんとっ!?」
その時、ガラッ!と厨房の扉が開き、稽古着姿の王室騎士団長シルフィアが飛び込んできた。
彼女は、離れた場所で目をつむりながら一心不乱に「エア千切り」をしている僕と、涙と鼻水を流しながら自身の意思とは無関係にマッハの速度で包丁を振るい続ける師匠の姿を見て、厨房の床にガクンと片膝をついた。
「な、なんという……ッ!!」
シルフィア団長はワナワナと震えながら、僕の空を切る両手を指差した。
「己は一切刃を握らず、離れた位置から敵の『運動神経』を完全に掌握し、意のままに操り人形とする『絶空の傀儡術』……! これならば、いかなる豪傑が相手だろうと、自らの剣で自らを斬り刻ませることも可能! アルド師範、貴殿はついに、戦わずして敵を支配する魔の領域にまで達したというのか!!」
「えっ? いえ、これはただの密着対策のクッキングでして……」
「謙遜されるな! 女の裸身という最大の誘惑を前にしても近づくことすらよしとせず、糸なき操り人形として完璧な剣撃(千切り)を強制するその絶対の支配力! 我が騎士団の捕縛術にも、ぜひその『遠隔神経支配』を取り入れさせていただきます!!」
目をキラキラと輝かせる女騎士団長。
一方で、まな板の前に立ち尽くし、山のような完璧な千切り玉ねぎを前にした師匠は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、虚無の表情で包丁を落とした。
「……信じられない」
師匠は、疲れ果てて痙攣する両腕をさすり、ワナワナと肩を震わせた。
「私……アルドに後ろから優しく抱きしめられて、『師匠、手元が危ないですよ』ってイチャイチャする予定だったのに……。なんで私、最新鋭の業務用スライサーみたいに強制労働させられて、玉ねぎの汁で顔ぐちゃぐちゃになって、またあの金髪女の武術の参考にされてんのよ……」
「おや、師匠? どうされましたか? 千切りの厚みにブレがありましたか?」
「アンタなんか……アンタなんか、一生空中の見えない野菜でも切ってればいいのよぉぉぉっ!!」
師匠は極薄のキャミソール姿のまま、涙目で洗面所へと走り去っていった。シルフィア団長は「なんと見事な包丁さばきの後の残心! これも傀儡術の反動か!」と的外れな感嘆の声を上げている。
僕のステータス画面には、新たに【完全生体支配】と【冷酷なる厨房の支配者】という、どんな強大な魔王軍だろうと同士討ちさせられそうな、禁忌指定クラスの最凶ネクロマンサー・スキルが刻まれていた。
やはり二人での料理とは、魔術よりも奥が深い。
僕はさらなる修行の必要性を痛感しながら、目を輝かせるシルフィア団長に、とりあえず玉ねぎが目に染みない呼吸法を教えるのだった。




