第16話:計算されたつまずきと、物理干渉を完全無効化する絶対透過術
魔女の塔の奥深く、師匠であるエレノア・ヴェルベットの私室には、巨大な『月光スライムのベッド』が鎮座している。
特殊なスライムを極薄の絹で包み込んだそのベッドは、雲のように柔らかく、上に乗れば波のように揺れる極上の寝具である。
「さあ、アルド。ここへ座って。今日は『深層意識の同調』の瞑想訓練よ」
波打つベッドの中央に腰を下ろした師匠は、艶然と微笑んで僕を招き寄せた。
本日の彼女の装いは『精神感応型・瞑想装束』だという。
しかし、その実態は、透き通るような薄紫色のベビードール一枚であった。胸元は大きく開き、肩紐は今にもずり落ちそうに危うい。さらに、スライムベッドの不安定な足場のせいで、彼女が少し動くたびに、その豊満な果実がブルンブルンと扇情的に揺れ動いている。
「し、師匠……。いくら私室での瞑想とはいえ、その格好は……あまりにも無防備すぎるのでは?」
「あら、全然分かってないわね」
師匠は妖艶な吐息を漏らし、尤もらしい魔術理論を語り始めた。
「他者と深層意識を繋ぐには、肉体という『物理的な鎧』が邪魔になるの。つまり、極限まで布を薄くし、心の警戒を解き放つこの無防備なスタイルこそが、深層意識へ潜るための絶対条件なのよ」
「な、なるほど……! 自らの精神を完全に開放し、大いなるマナの海へと溶け込むための正装!」
僕は深く頷いた。
師匠の探求心には限界がない。己の羞恥心をかなぐり捨て、無防備な姿を晒してでも魔術の深淵に触れようとしているのだ。
「さあ、アルド。私の正面、息がかかるくらい近くに座って。そして、目を閉じて……」
師匠に促され、僕はベッドの上に上がり、彼女の正面に胡座をかいた。
スライムベッドがぐにゃりと沈み込み、僕たちの距離がさらに縮まる。
師匠の甘い香水と、火照った肌の熱気が直接伝わってくる距離。僕は必死に般若心経を唱え、理性を総動員して意識を保っていた。
その時だった。
「あっ……!」
師匠が小さく声を上げ、不自然にバランスを崩した。
スライムベッドの反発力を利用したのか、彼女の体は前のめりに倒れ込み、そのまま僕の胸へと向かって飛び込んできたのだ。
「きゃっ! ご、ごめんなさいアルド、足場が……っ!」
わざとらしい悲鳴。そして、ギュッと目を閉じて僕の胸に飛び込んでくる師匠の姿。
普通の男なら、とっさに彼女の華奢な肩を抱きとめ、そのままの勢いで柔らかいベッドへと一緒に倒れ込むだろう。
いわゆる『押し倒し』の体勢である。
だが、その瞬間の僕の脳裏には、恐るべき警鐘が鳴り響いていた。
(ば、馬鹿な! 今の師匠は、ほぼ下着姿だぞ!? このまま彼女を受け止め、ベッドに押し倒すような形になれば、僕の全身に彼女の柔らかな感触が叩き込まれる!)
そんなことをすれば、どうなるか。
僕の精神防壁は一瞬で崩壊し、男としての『煩悩』が大暴走を引き起こす。
深層意識の同調を行おうとしている最中に、邪念という最悪の猛毒を発生させれば、師匠の精神世界を卑猥な妄想で取り返しのつかないほど汚染してしまう!
(これも試練だ……! 『不意のアクシデント(密着)』という最強の誘惑を前にしても、決して己の理性を手放さず、同調を維持するという、師匠からの究極の抜き打ちテスト!)
僕は覚悟を決めた。
受け止めれば、必ず煩悩に支配される。
物理的に弾き返せば、師匠が怪我をしてしまう。
ならば、僕の肉体そのものを『この次元から一瞬だけズラせば』いいのだ。
「術式展開――時空魔法『位相転移』及び、無属性魔法『完全霊体化』!」
カチリ、と僕の存在座標が書き換わる音がした。
「さあ、師匠! そのまま安心してお倒れください!」
「えっ? ……んんっ!?」
目を閉じて僕の胸に飛び込んできた師匠の体は、そのまま『僕の肉体をすり抜けた』。
ドスッ!
僕の体を幽霊のように通過した師匠は、勢い余って僕の背後にあるスライムベッドに顔面から激突し、ボヨンと無様に跳ね返った。
「いったぁっ!? 鼻打った! ……って、えええええっ!?」
師匠は涙目で鼻を押さえながら、信じられないものを見るように僕を振り返った。
僕は先程と全く同じ姿勢で、スライムベッドの上に胡座をかいている。
ただ、僕の体は少しだけ半透明に透けており、ベッドの沈み込みすら発生していなかった。
「アルド……アンタ、今、どうやって避けたの!? 私、アンタの体を通り抜けたんだけど!?」
「ご安心ください、師匠! 不意の接触による『精神の汚染(色仕掛け)』を完全に防ぐため、僕の肉体を一時的に別次元(アストラル界)へと移行させました!」
「は……?」
「これぞ究極の防御術! いかなる物理干渉も僕には届きません! さあ師匠、私の体など気にせず、存分に素振りのように通り抜けてください! これが次元を超えた深層同調です!」
僕は半透明の体のまま、胸を張り、ドヤ顔で言い放った。
完璧な回避だ。僕と師匠の間には一ミリの物理的接触もなく、煩悩が入り込む余地は皆無。師匠の無防備な肉体による誘惑は、次元の壁によって完全に無効化されたのである。
「……信じられない」
ベッドに突っ伏したまま、師匠は絶望的な声を出した。
「私……わざとバランス崩して、アルドに押し倒されて『もう、どこ触ってるのよ……』って赤面するつもりだったのに……。なにこの、壁抜けのバグみたいな現象……。私、ホログラムと瞑想してるの……?」
「おや、師匠? 何か仰いましたか?」
「アンタなんか……アンタなんか、一生幽霊と恋バナしてればいいのよぉぉぉっ!!」
師匠の悲痛な叫びが、私室に空しく響き渡った。
そのまま枕に顔を押し付けてバタバタと暴れる師匠の姿は、ひどく不憫に見えたが、これもまた魔術の深遠に至るための試練なのだろう。
僕のステータス画面には、新たに【物理無効(常時)】と【次元のすり抜け】という、どんな伝説の暗殺者の刃すらも素通りさせる、神と見紛うような防御スキルが刻まれていた。
やはり精神の探求とは、魔術よりも奥が深い。
僕はさらなる修行の必要性を痛感しながら、半透明の手で師匠の頭を撫でようとし、そのままスッと頭蓋骨を通り抜けてしまってさらに怒られるのだった。




