第98話「強者への期待」
おぞましい気配の正体を知った瞬間、二人が咄嗟に構えを取った。天狐はその場から動かず、袖で口元を隠してくすくす笑う。
「何をしてもぬしらがわちきに勝てることはない。大人しゅうしておれ。……まあ、遊びたいと言うのであれば相手をしてやるのも吝かではないがのう」
袖の中に手を突っ込み、取り出した扇子をひらひら仰ぐ。
「好い、好い。童のやることじゃ、大目に見よう。逃げるも、戦うも」
アレックスはじり、と一歩近寄る。隣に立つフランチェスカを横目に見た。
「逃げなよ。私が時間をできるだけ稼ぐ。とても勝てる相手じゃない」
魔導武拳は主に反撃に特化した技術。弱き者が強き者と戦えるために創られた戦闘方法だ。時間を稼ぐなら自分以外にないと思った。フランチェスカもそれは理解しているが、だからといっておいていく選択ができない。天狐の強さから鑑みて、アレックスが敗北────死ぬのは間違いないのだ。
「ちょっと。なんで構えてるんだい?」
「悪い。常識的に考えりゃお前が正しい。だけど、ここで逃げたらアタシは永遠に後悔を背負うことになる。そいつは死ぬよりも苦しいんだ」
呆れたため息を吐きながらもアレックスは嬉しく思った。共に死んでくれる人間がいるというのは、これほどにも心に落ち着きを持たせてくれるものか、と。
「なら、まずは私から仕掛ける。今のキミの速度なら、ジョー教授と同等くらいの火力も叩き込めるはずだ。……いいね?」
「任せとけ、チャンスは逃さねえさ」
二人同時に攻めて、どちらかの攻撃が当たれば逃げる隙を作れる。あとはまた、町の中を隠れながら脱出を目指せばいい。アレックスが先んじて踏み込んだ。動かない天狐の懐に潜り込み、魔力を込めた掌底で顎を狙う。それとほぼ同時にフランチェスカは背後に回り、拳に蓄えた雷撃を打とうと構え────。
「わちきには届かねぇのう」
バシッ、と扇子を閉じた瞬間。二人は地面に叩きつけられた。
「があ……っ!? どうやってアタシまで……!」
「ぬしらが遅いだけじゃよ。遅すぎて遅すぎてあくびが出るわい」
かがんだ天狐がフランチェスカの頭を扇子でバシバシ叩く。
「阿呆じゃのう。格が違うのがなぜ一目で分からんのか。その若さにしてはやたらと出来の良さは感じるが……よほど師が良いらしい」
アレックスもフランチェスカも、完全に意識を失った。徹底的に鍛えてきた身体強化も、天狐には、その最も脆い部分を正確に突かれてしまった。
「もう終わったんですか、お館様。早いですね」
「童など所詮は十数年生きただけの動物よ。むしろ、わちきに一撃をもらっておきながら気を失うだけで済むことの方が驚きではないかえ?」
獅鬼が倒れている二人を見て目を丸くする。
「生きてるんすか。こりゃ驚いた、人間の子供が」
天狐が加減をしたとはいえ地面に叩きつけられ、いくらか石畳が砕けるほどの威力で殴られたのだ。死んでいたとしても不思議ではない。むしろ耐えられる人間など、大人でさえ片手の指で十分に数えられる程度だ。それが子供の身となれば、なおさら形さえ残らなくて不思議ではない。にも関わらず意識を失うに留まっている。獅鬼からすれば信じられない光景に、目を疑った。
「ふっ……くっくっく。こりゃあ面白いことになったのう。獅鬼よ。侵入者の中に、ぬしでも勝てぬほどの怪物が紛れ込んでおるやもしれんぞ」
「冗談言わんでください。オレも千年は負けておりゃあしませんで」
基本的に獣人の身体性能は人間をはるかに凌駕する。身体強化の魔法を用いていたとしても、獣人たちにはそう簡単に届かない。その中で、天狐や獅鬼は弱肉強食の世界を千年生きている。敗北を知らず、絶対的強者として君臨してきた。いくら侵入者に腕利きがいるとしても、獅鬼には勝てる自信があった。
「ところで、食事はどうします。子供の分まで用意してますが」
「それまでには起きる。メシを食わせたら都へ連れていく」
「は……。では、このまま準備をしておきます。子供は中へ運びますね」
アレックスとフランチェスカを軽々と担ぎ、家の中に戻っていく。残った天狐は、空に昇った月を眺めて、ニヤリと笑った。
「何者かは知らぬが、この程度の強さではすむまい。千年ぶりに血が滾るのう。強者との逢瀬は少年のように心が揺さぶられるものよ……」
千年。千年もの間。天狐は敵というものを見たことがない。千年前を最後に、宿敵は失われた。下剋上を狙う獣人たちを幾度も屠り、その度に退屈に苛まれた。最強を愛するがゆえに、己が最強であることを、心の底から嫌悪したのだ。
「お館様────! お館様────ッ!」
「なんじゃ、うるさいのう」
外から聞こえてきた声の大きさに、天狐は耳をぺたんと倒す。
都からの伝令が、焦った様子で駆けてきた。
「至急、お伝えせねばならないことが。迎撃に出た城綱様が敗北。さらには、ふたつの町で領主たちが撃破されました! 相手は少女だったと……!」
天狐が目を剥いて言葉を失うほど驚いた。島に侵入されてから、たった数時間。それなりに広い島で、ふたつの町が滅ぼされたも同義の状態に追い込まれ、ましてや側近である城綱が敗れたことに、胸が躍った。
「……おい、獅鬼に伝えておけ。メシは要らぬ。首魁が都におらずしては期待を削ぐ。中にいる人間の童が二人おる。そやつらを連れてぬしも都へ来い」
「承知致しました。すぐにお伝えしてまいります」
久方ぶりの強者の気配は、船が近づいてきた段階で感じ取っていた。だからこそ船を破壊して挑発をするつもりが、既に気配は離れて島の中にいた。そして領主二名のみならず、側近までもが容易く敗れたことに喜びが隠せない。
「うくく……くははははは! 何者か、この目で見定めさせてもらおうぞ!」




