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秘術使いの理想郷─ヴィルヘルミナの物語─  作者: 智慧砂猫


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第86話「稽古開始」

◇◇◇




 事態が動いたのは、それからしばらく経ってからだ。魔法都市内で再び行方不明者が出た。以前より派手に動いており、その数は五名。中にはヴィルヘルミナにも聞き覚えのある二年のクルトの名があった。


 どちらかと言えば嫌いな人間だが、知っている顔だけにさらわれたという話を聞くと、どうにも気分が悪い。今朝から嫌な話を聞かされたな、と朝食のトーストをかじりながら落胆する。


「ブサイクな顔してんなぁ」


「朝は誰だって眠い」


 しょぼしょぼした目に、櫛で梳いていない髪は寝ぐせが存在を主張した。


「しかし、あの小僧が行方不明か」


「ああ。昨日から帰ってないらしい。んで、魔塔が調査中」


 ヴィルヘルミナは一瞬、ウォルターのことが頭をよぎったが、すぐに振り払う。


「せっかく体育祭も控えてんのに、あんまり治安が悪いと困るよな」


「……うむ。皆が平和なのが一番だ」


 トーストがサクッと音を立てる。口元についたパンくずを指で取りながら、ヴィルヘルミナは少しぼんやりとして溜息を吐く。


 調査はリロイに任せているとはいえ、またしても入り込んできた邪法使いのことを考えると頭が痛い。結局、また誰かが犠牲になった。手練れでなくとも、相手が意図的に痕跡を残さないかぎりは、そう簡単に見つかるものではない。自分の姿を消す手段を持つことは当たり前。流石のヴィルヘルミナも手が出ないのだ。


「んでさ、今日は休みだろ。どっか行く?」


「馬鹿か。魔法使いに休日などない。せめて昼間では稽古場で鍛錬だ」


「言うと思ったよ。ちぇっ、お前が指導側だとめんどくせえなぁ」


「私が強いからといって、お前が努力もせずに強くなれるわけじゃない」


 それはそうだと否定のしようもなく、ささやかな反抗にフランチェスカが舌をべーっと出す。ヴィルヘルミナは一瞬たりとも動じなかった。


 ただ静かに、食器の音だけが食堂に響く。


「しかし、皆は朝が早いな」


「アレックスとジャックは早速、朝から稽古してるよ」


「カエデは?」


「人形のメンテナンス。指の動きが悪いとかなんとか」


「……私にも、そういう真面目な時代があったな」


 ありとあらゆる魔法を極めた二十代。特に急ぐ理由もなく、新しい魔法の開発に取り組んではいたが、かといって早朝から取り掛かるほどでもなかった。とにかくヴィルヘルミナは朝が苦手なので、毎日エセルに起こされていたのを思い出す。


「じゃあちょっとくらい遊んだっていいじゃん。融通利かせようぜ」


「都合が良いことを言うな」


 食べ終えたら食器を纏めて流し台に置く。壁には『今日の食器洗い当番』という張り紙がされている。アレックスの名札が付いてあった。


「洗い物が溜まってるが?」


「お前が起きてくんの遅いからだよ。後で洗うってさ」


「ふむ。まあ、その点については謝罪しよう」


 食堂を出ようとして、指をくいっと動かす。フランチェスカが座っている椅子ごとほんの数ミリだけ浮いてヴィルヘルミナを追う。


「うわっ、なに!? なんだ、これ!」


「歩くのが面倒そうだったのでな。そのまま行こう、楽だろ?」


「すっげぇ楽。このまま学校行けねーかな、毎日」


「……それくらいは歩け」


 呆れつつも、少し可笑しかった。下らないことでまだ笑える自分が、平穏を生きているのだと実感する。世の中がどれだけ変わっても犯罪は消えないのだ。ひとつずつに哀しみや怒りを抱えていては疲弊してしまう。


 そう考えて、今はウォルターとの喧嘩も忘れて自分のことに専念する。


「すまない、遅れた。おはよう、皆」


 稽古場の扉を開けるとアレックスとジャックが真剣にぶつかりあっている。強くなりたいという気持ちに突き動かされて、どこまでも汗を流した。それを隅で人形の整備をしながらカエデが眺めていた。


「おや、マドモアゼル。今朝は早いね、いつもは後三十分は遅いだろう?」


「まったくですよ。それができるなら毎朝すべきです」


 勝負をとめるなり、二人は待っていたかの如く苦言を零す。リロイが不在の間はヴィルヘルミナが代役を務めると聞いて、それはもう楽しみにしていたのだ。それが毎日、起きてくるのが遅い。とにかく遅い。もう不満が爆発寸前だった。


「わ、悪い……。では今日から本格的に基礎的な訓練から始めよう。既に通った道だが、復習の意味もある。魔力の流れをこれまで以上に意識して、さらに繊細に、意識的に操って身体強化魔法をマスターしてもらう」


 椅子に座ったままのフランチェスカが不思議そうに首を大きく傾げた。


「身体強化魔法のマスターって、大体は皆が出来てるんじゃねえの?」


「出来てない。むしろ大雑把だな。まずは実演してみせよう」


 そっと屈み、床に人差し指を押し付ける。


「肉体は、その人間ごとの形をした魔力の容器だ。つまり魔力を流して満たされる容量というものがある。だが、密度を高めることによって膨大な魔力を小さな容器いっぱいに詰められれば、身体強化の質も自然と高められる。こんなふうに」


 ぎゅ、と人差し指を押し付けると床にひびが入った。桁違いの力を誇り、本気を出せば指一本で部屋を壊すことも容易。研ぎ澄まされたヴィルヘルミナの身体強化は並の魔法使いには出せない性能まで高められていた。


「いきなりここまでやれとは言わない。というより、ここまで出来るようにする最初のステップだと考えてほしい。魔法とは想像こそが肝だ。────では早速だが始めよう。まずは容器の中を満たすイメージを作り、全身を魔力で満たせ」

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