第84話「実った努力」
今は幻覚が解けている。もう一度だというのならば立ち上がるだけのこと。ジャックには敗北への道を歩むほどの諦観は欠片もない。首だけになっても食らいついてやると覚悟を決めた猛獣の眼光がヴィルヘルミナを捉えた。
「────《シャドウ・パレット》」
泉の如く溢れだす実体化した影が地面を広がっていく。ヴィルヘルミナが確かめるように小さく足踏みをすると、ぱしゃっと跳ねた。
「(影が液状に実体化している……。これは初めて見るな)」
にやりと口角が上がった。杖を握りしめる手に、より力が籠った。
「面白い。見せてもらおうか、お前の秘術を!」
「もちろんですとも! ショーはこれから、まだまだ楽しみましょう!」
ばっ、と大きく手を広げて、そのまま仰向けに倒れていく。どぷん、とジャックの体が影の中に消えた。身構えるヴィルヘルミナの前に、何かが正面から迫った。目に映ったのは大きな魚の背びれ。危険を察知して飛び跳ねた瞬間、影の中から飛び出したのは影で出来た鮫。食らいつこうと空高く追い────。
「《ウィンド・シュート》!」
構えた杖が碧く輝き、球体に渦巻く風を放って鮫の口の中へ入り、体内で炸裂する。飛び散った影が自分に接触しないように魔力の壁を張って防ぎ、周囲を見渡して次の手がどう来るかを探った。
「(実体化した影は光を直接当てたくらいでは消えん。一帯を吹き飛ばして炙り出したいところだが、その隙を狙っているとしたら迂闊に魔法を放てない。となると、やるべき行動はひとつだけ。────内側から破壊する)」
空中で身を支える風の魔法を解いて急降下する。最初はただの水たまりのように広がった影と思っていたが、その実態は違うと考えた。ひとつの結界魔法。自身を空間内部に閉じ込めることで、影の届く範囲をドーム状としてあらゆる想像の具現──本人の知識にある限りで──を行うもの。
ゆえに道はひとつ。結界を壊すこと。影はそう簡単に払えるものではなく、光を放ったところで展開された結界は即時に膨大な魔力消費によって再生する。今のレオニード並みの魔力を持つジャックなら、その回数に縛られない。範囲こそ限られているものの、絶対無敵の結界魔法。
しかし、盲点がひとつある。想定された敵が、自分と同列か劣っていることだ。残念ながらヴィルヘルミナ・デヴァルには当てはまらない。
「やはり、レオニードに追いつくにはまだ若いな」
多くの魔法使いが憧れ、畏怖を抱いた魔法使い。否、秘術使いとまで呼ばれるほど独自の魔法を持つヴィルヘルミナ・デヴァルが、最も優れているのはどこか。あらゆる魔法を網羅していることではない。────あらゆる魔法を解析・理解することにある。視覚に捉えた魔法の現象から魔力の構築を突き止め、その弱点を見抜き、あまつさえ実践して一度で形にしてみせる。最強の魔法使いと呼ばれた所以。まさに神の領域に匹敵する眼を持っていた。
その身は影の中へ静かに沈み、僅かな波紋を広げた数秒後────影は飛び散った。内部からの魔力爆発によって構築が乱れ、結界が維持できない。瞬く間にジャックは影の海を奪われ、陸へ引き上げられた。
「くっ、アタシの結界魔法まで破られたんですか……!?」
「別に難しいことではない」
どん、と杖を地面に突き立て、ヴィルヘルミナはまっすぐに。
「お前より私の方が優れていた。それだけのことだ。なにせ、私は全ての属性に通じている。元来より闇の要素を抱く魔力を持つのはレオニードの血だけではない。火。水。風。土。雷。それよりも遥かに多くの属性を操れる。選ばれた人間しか扱えないと言われているのは光と闇の属性だが、私はどちらも使えるのでね」
顎を擦りながら、思い出すように空を見上げて。
「それでも影を操る魔法は非常に扱いが難しい。奴ほど巧みに操れる者は当時から今まで誰もいなかった。この結界内を含めれば、お前以外には誰も」
思わぬ言葉にジャックから表情が消えた。信じられない瞬間。相手は伝説とも言える魔法使い。そんな人間に認められたのだ。祖先にも勝る才能がある、と。
「……し、信じていいんですね。その言葉」
ぎゅっと口を結び、目は潤んで涙が溢れそうだった。握りしめた剣がカタカタ震える。今まで誰にも認められてこなかった。悍ましいものとして見られてきた。バラライカ家は呪われている。たったひとり生き残った娘も狂人に違いない。
どれほどの努力を重ねても、生きていること自体を否定されてきた。後ろ指を差されて来た。あんな連中の言葉など聞くものかと思いつつも、言葉は剃刀となって心をズタズタに傷つけていた。壊してしまおうとさえ思った。
狂気に堕ちる理由はあった。堕ちても良かった。だが、堕ちなかった。
『あれの子孫なら優秀で当然だが……』
些細なことだった。きっと口を衝いて出ただけの何気ないひと言。状況は最悪でも、ジャックはそのとき、仄かに嬉しさを覚えた。血に染まった家系だと言えども優秀で当然だと認められた気がしたのだ。
それでも、ライバル意識は消えなかった。自分より若く努力もせずにあがってきた天才肌など認めたくなかった。自分の努力など本物の天才の前では無意味なのだと言われているようで悔しくて。だが、それを違うとヴィルヘルミナは言った。
『その程度は天才なら誰でもやることだ。環境に文句を言っても、現実はお前に奇跡を起こさない。積み重ねたものを自慢して無駄にするな』
今なら、どういう気持ちでヴィルヘルミナが言ったのかが理解できる。
「フッ。信じるかどうかは好きにすればいい。だが、お前は間違いなくレオニードよりも遥かに強い魔法使いに成長するだろう。それだけは保証するよ」
やっと何かが動いた気がして、ジャックは我慢ができなくなった。わんわんと大きな声で泣き、腕で何度も涙を拭った。勝負が終わり、ヴィルヘルミナは寄り添い優しく抱きしめて、ぽんぽん、と頭を撫でた。




