14.母の声
どうやって帰ってきたのかをほとんど覚えていない。気づいたら家にいて、母の腕に包まれていた。
「以前に続いて、本当に申し訳ない」
「いいえ、シュテル様のせいでは。食事処に入店できただけでもありがたいことで……」
「……ナタリアの……寵は…………」
「――……、……」
部屋に戻り、鎧を脱がされながら、シュテルの見送りをするのを忘れたことに気づいた。
「今はお父様とお話されているわ。お見送りはしないでいいそうだから、着替えてこのまま寝てしまいなさい」
マルグリットの店は酒場兼食事処だ。酒から煙草から、全身に雑多な匂いが染みついている。でも風呂に行くだけの気力は残っていなくて、言われるままに身を横たえた。
「ねえナタリア、今日は新しい靴をいただいて嬉しかったわね?」
嬉しかった。
いくら名工たる親方の手とはいえ鎧は鎧。まさかあんな素敵な足甲がつくれるだなんて思っていなかった。まるで普通の靴を履いているような歩きやすさで、誇張ではなくダンスを踊れると思えたのだ。
「そう。デートは楽しかった?」
楽しかった。
突然デートだなんて単語を出すから慌てたけれど、普通の女の子みたいにエスコートを受けて歩くのは夢のようだった。冷たいはずの添えられた手甲に、けれどシュテルは少しも嫌そうな顔をせず笑顔を見せてくれた。
行先だって最高だった。まさかお店の中に入れるなどとは想像だにしなかった。それも、一度は断られた場所だ。シュテルがナタリアのことを普段から考えてくれていたことも嬉しかったし、今までナタリアを見ていた人たちがナタリアのために動いてくれたことも泣きそうなくらいに心が震えた。
あんなに大人数でご飯を食べるのは初めてだった。ピクニックのときよりもっと人が多くて、ずっと距離が近かった。行儀の悪い食事の風景が、癖になりそうなほどだった。
嬉しくて、楽しくて、だから、落差に耐えられなくて。
「……そう、悲しかったのね。何が悲しかった?」
何が悲しかったかと言われると、少し悩む。
悪意は勿論悲しかった。ナタリアは箱入り娘だ。決して深窓の令嬢と呼ばれるものではないが、親方のところくらいにしか出かけることはなく、人生の大半を家の中で過ごしている。
ゆえにほとんど真正面から悪意をぶつけられる機会はなく、耐性がない。言い返したこともなければ、受け流すやり方もわからない。
でも多分、ナタリアがこんなに傷ついているのはそのせいじゃない。
「酷いことを言われた?」
色気づいて、気持ち悪い。そう言われたことがショックだった。
鎧という分厚い外皮を纏うことで、ナタリアは女という性別を覆い隠された。それ自体はいいのだ。親方がナタリアを守ってやりたいと思ってくれた証だから。
でも、だからといって女であることを捨てたくはなかった。髪も肌も綺麗に整えて、鎧の中身はただの女の子であると己に示していたかった。
ナタリアが「女性」を捨てないのは、ナタリアの自己満足である。誰にわかって貰おうとも思わなかったし、肌や髪を見て貰いたいと思ったわけでもなかった。
だから、自分がこんなにショックを受けているのが不思議だった。自己満足であるのなら、気持ち悪いと言われても知ったことではないと跳ね除ければいいのだ。
深く、深く、傷ついた。なぜなら、そこに、シュテルがいたから。
「彼がいたから、傷ついたの?」
彼に聞かれてしまったから傷ついた。人から気持ち悪いと思われた。そう知られてしまっただけでも痛い。その上、もし「そうかもしれない」と万が一にも思われたら、もう一歩だって歩けないと思った。
武骨な鎧に飾りをくれた。親方と共に美しい足をくれた。いつか踊りたいと言ったナタリアに肯定をくれた。全部覆されて、鎧のくせにと思われたら。
考えるだけで息が止まりそうだ。目の前が真っ暗になる。涙を止める術が見つからない。
「シュテル様はそんなことを思う方ではないわ。そうでしょう?」
それは勿論、そう。大らかなシュテルはそんなこと思わない。冷静に考えれば明白なのに、ありもしない万が一が頭から消えてくれない。
ぐすぐすと無様に流した涙を、たおやかな指が拭う。熱を持つ目尻に、冷たい手が心地よかった。
子供のように無防備なナタリアに、母は優しく微笑んだ。
「あなた、シュテル様が好きなのね」
「好き……?」
「そう。恋を、しているんじゃないかしら」
すとん、と何かが腑に落ちた。そのまま腹におさまってしまった知らない気持ちに戸惑う。
ナタリアの世界は狭くて、その分関係性も少ない。年齢の近い異性など一人もいなかったから、培った感情の中に恋などという言葉はなかった。
本で恋物語を読んだことはある。一緒にいると楽しくて、ずっと一緒にいたくて、たまに苦しくて、甘い。
シュテルと一緒にいると楽しいと思う。ずっと一緒にいたいと思う。そうだな、今まさに苦しく思っている。甘い……甘い? 時折走った痺れは、甘いと表現することができるだろうか。
頭を撫でられるのは好きだ。でも妹扱いかなと思うと腹立たしい。隣に立つ距離が近いのが、最近少し恥ずかしい。名前を呼ぶ声は心地よくて、できればお前と言うよりナタリアと呼んで欲しいと思う。鋼色の目で見られると、ずっと見返していたかったり、むず痒かったり、目を逸らしたくて仕方なくなったりと心が忙しい。そばにいると安心する。そばにいると心が動き続けて疲れる。離れたくない。離れたい。矛盾だらけの自分がわからない。
これが恋なのだろうか。
……もし本当に彼にナタリアが恋をしているとして、それは叶う恋だろうか?
吐息が混ざる小さな笑い声に、ナタリアは思考の中から舞い戻った。
「ごめんなさいね、あなたは悩んでいるのに私は喜んで。……嬉しいの。あなたはいつも、他人に対して諦めが勝ってしまっているようだったから」
労わるように頭を撫で、髪を梳かれて眠くなってきた。優しい声音は子守歌のように温かい愛に満ちている。
「ねえ、気づいているかしら。あなたはパーティーで踊りたいと私たちに教えてくれたけれど、誰かと踊りたいと望んだことは一度もなかったのよ。綺麗なドレスを着て、パーティーで踊る。一人で立とうとしていたその望みの隣に、誰かを置いてくれたことがとても嬉しい」
もっと聞きたくて必死に眠気に抗うが、目蓋が重くて重くて仕方がない。
「どうかその恋を温めて。絶対叶うだなんて無責任なことは言えないけれど、その恋を通じて、きっとあなたは幸せになれるわ。だって、女神様はあなたを愛してくれているんだもの」
そう、だろうか。愛してくれているだろうか。女神フィーニは、ナタリアのことを。
――わからないの、お母様。
「おやすみなさい、愛しい子」
額に落ちた祝福の口づけを最後に、ナタリアの意識は眠りの中へと落ちていった。




