11 最も幸福な悪夢9
歪み切った指輪を見てそれを察したのだろう。
令が存命ならば、仁が指輪を持っているはずがない。
悲し気に令はそう言う。
「少し心配だったの。もしも私が居なくなったら仁は生きていけるんだろうかって」
その心配は慧眼だったと言えよう。
生きていけなかった。
令の居ない世界に価値を見出せなくて。
でも自殺することも出来なくてただそこにいただけの二年間。
死ななかったのは結果論だ。
あの時の自分はいつ死んでも構わなかった。
上官がそれを案じている事さえも疎ましく思い。
ただ死に場所を求めていたあの頃。
「でも、今の仁は大丈夫ね」
「……そうだな」
澪が変えてくれた。
彼女と出会わなければ自分は何時か死んでいただろう。
地面に足を付けていなかった仁を、繋ぎとめてくれたのは澪だ。
澪は仁のお陰で生きてこれたという。
仁の幸せを奪って生きていたと。
だが逆だ。
仁の方が澪のお陰で生きてこれたのだ。
澪のお陰で幸せを感じられたのだ。
彼女が無邪気に向けてくる愛情に満たされて。
その愛が無ければ、仁はいずれ死に向かっていた。
そうしなかったのは彼女の愛だ。
それを一身に受けていたからこそ、何時しかそれを返す様になれたのだ。
「約束したんだ。二度と一人にしないって」
仁の物語は既に終わっている。
令を亡くした瞬間に、そこで終焉を迎えた。
望ましかった結末は迎えられず、焼き尽くされて灰となったのだ。
そこから先はただのエキストラ。
澪の物語を支えるための端役だ。
だが端役だとしても――端役には端役の役目があるのだ。
「だからごめん。行かないと」
これは夢だ。
有り得たかもしれない可能性の夢だ。
例えこれがもう一つの現実だとしても、今の仁にとっては夢なのだ。
夢にしないといけない。
だからもう目を覚ます時間。
澪を迎えに行く時間だ。
そう分かっていても名残惜しさを感じない筈がない。
握り締めていた手を放した。
玄関へと向かう。この家から――令と十年を過ごした家から外へと旅立つために。
この令の待つ家には二度と帰ってこないだろうと確信しながら。
ここに誰かが戻ってくるときには、もう自分ではない――令と十年を過ごした東郷仁なのだろうと。
その時間を自分が見る事は無いのだろうと、理解しながら。
「待って」
玄関で靴を履いた仁を令が追いかける。
振り向いた仁の顔を令は掴み。
その唇を重ねた。
逢瀬は一瞬。
特別さなど無い、日常の一ページ。
仁が知らなかった、本来積み重ねる筈だった物。
「貴方の所に私が居ないとしても」
仁の身体を抱きしめた令は少し寂しそうな視線で仁の瞳を見つめる。
その瞳に写っている自分の姿の何と頼りない事か。
「こうやってキスしたこと。抱きしめあった事。触れ合った事は仁の中の思い出に、貴方の歴史の中に刻まれている」
「ああ」
令の身体を抱きしめ返す。
もう遠い記憶になってしまった温もり。それをもう一度。きっとこれが最後だと分かっていたから。
頬を触れ合わせながら抱きしめる。
「私がいなくても、貴方の中に私は居る。貴方の中の歴史が、私を象ってくれる」
囁くように。令は仁にそう言う。
「それはきっと、とても素敵な事。貴方が生きている限り、私は永遠に側にいる」
令らしい。
自然と仁がそう思える言い回し。
こうやって、令が歴史の事や、家の事、料理の事。色んな事を語るのを聞くのが好きだった。
在りし日の陽だまりの様な幸福を思い出す。
「……ああ」
「だから、仁。貴方の中の私も、貴方の娘に与えてあげて。仁の娘なら、それは私の娘だから」
「伝える。必ず、澪にも」
力を込めて抱きしめる。少し苦しいだろうと思ったけど止められなかった。
何時までもこうしていたい。
この一瞬が永遠になれば良いとさえ思う。
時が止まってしまえば。
「令。心の底から、君を愛している」
仁が抱え込んできた、ずっとずっと伝えられなかった十年分の思いを込めて。
今も変わらぬ愛を令に伝える。
「ええ。私も――私は貴方を愛している」
だけど、と言う言葉と共に仁の頬へ涙が伝った。
仁の眼から零れ落ちた物じゃない。
「でも、貴方のは違う。今の貴方は私を愛している、じゃないよ」
その雫の正体に気付いた仁は、今度こそ涙を零れさせた。
「私を愛していた、だよ」
もう、仁にとっては過去なのだと。
ただ一人、仁を置き去りにして先に逝ってしまった自分を思って令は泣いていた。
再び唇が触れ合わされる。
柔らかな感触。
離れたくない。
別れたくない。
どうして、こんなことをしなくちゃいけないのだろうと仁は思う。
だってずっとずっと会いたかった。
ずっとずっと一緒に居たかった。
澪の方が大切だと言っても。
令の存在が小さくなった訳じゃないのだ。
変わらず、彼女は仁の中で大部分を占めている。
比喩抜きで己の半身と言っても良いのだ。
それなのに何故、自分の手で令を、もう一度――。
その仁の一瞬の逡巡を見透かしたように、令が身体を離す。
温もりが遠ざかっていく。
それを仁は、痛みと共に受け止めた。
もうこれは二度と手にしてはいけない物だから。
仁からも身体を離す。
心はそれを望んではいない。
だけど。選んだのだから。
仁は令ではなく澪を選んだのだ。
その温もりに縋りつく事はもう許されない。
冷たい空気が、温もりを拭い去っていく。
夢を見たのだ。
ほんの一時の夢。何よりも望んだ優しい夢。
もう二度と交わらない筈の道が、ほんの一時だけ交差した刹那の夢。
だけど夢はもう覚める物。
一歩離れた距離。
それはもう、永遠に等しい距離。決して超えることが出来ない彼方への距離。
その向こう側で。
二度と交わらない隔たりの向こう側で令が言う。
「行ってらっしゃい」
笑顔を浮かべた令が見送ってくれる。
ああ、そうだった。
令はこんな顔で笑う人だったと仁は思いだす。
その笑顔を、記憶に焼き付ける。自分の中の歴史に刻み込む。
彼女が最後に与えてくれた愛と。
自分が最後に与えられた愛を。
二度と忘れない様に。強く強く刻み込む。
「……行ってきます!」
玄関から一歩踏み出す。
もう振り返らない。
令は過去だ。
自分の後ろで立ち止まってしまった人なのだから。
一秒先の光景が消える。
有り得たかもしれない可能性が潰える。
未来を否定して仁は――現実へと舞い戻る。
ああ、だけど。
その狭間の中で。
一瞬だけまた夢を見た。
令が居て、澪が居て。
三人であの家で暮らす。そんな有り得ない夢。
夢だと分かっていてもそれはとても幸せそうで。
何で泣いているのかも分からなくなる程ぐちゃぐちゃになった感情に心を揺さぶられて。
そして。
◆ ◆ ◆
『助けて、おとーさん……!』
通信機のスピーカーから澪の声が聞こえる。
泣き出しそうな。
だけど確かに助けを求める声。
「……ああ」
胸元を握る。
今はもう、何の感触も返ってこない。
どういう理屈かなんていうのは仁にも分からない。
夢で渡したはずの指輪がこちらでも消えていた。
ただ。
静かに涙を一筋零した。
ずっとやり残していた事を遂に成し遂げたという達成感がある。
つい先ほどまで感じていた物が抜け落ちた喪失感がある。
後悔なんて無い。
後悔なんて無い。
後悔なんて無いけど、やっぱり寂しさは残る。
それに浸ってはいられない。
今、澪が、娘が助けを求めている。
仁に助けを求めている。
一人にしないと誓ったのだ。
その誓いを今こそ果たさなくてどうするのか。
「俺はアイツの親だ! 澪は俺の娘だ!」
振り切る様に叫ぶ。
未練はあるに決まっている。
結局仁はどちらを選んでも喪失感を抱く。
なら後は、仁が選んだ道を選ぶしかない。
どちらで満足できるかなんて言うのは仁にしか分からないのだから。
それに。
令には伝えられた。
でも、澪には伝えられていただろうか。
伝わっていただろうか。
――伝えたい。
仁の中をずっとずっと満たしてくれて。
ずっと無自覚だったこの思いを。
「今助けに行く!」
愛しているを。
誰よりも愛している自分の娘に伝えたい。




