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10 最も幸福な悪夢8

 嗚呼、何て酷い。

 

 この世界は仁にとって理想的だ。

 令が居る。

 ただそれだけで、最高だと言える。

 

 気付かなければ、この世界に溺れていたかった。

 

 だが気付いてしまった。


「……左手が寂しいんだよ」


 ずっと握っていた誰かの手が無い。

 逆に右手が埋まっていることに違和感がある。

 

 利き手は、誰かを守るために空けていた筈だ。

 

 令と、名前を呼ぶことに引っかかりを覚える。

 もう何年もその名前を口にしていなかったみたいだ。

 

 むしろ口に馴染んだ名前は別だ。

 この八年、何度も何度も呼んだ名前。

 

「澪」


 一度口に出してしまえば連鎖的に全てを思い出す。

 

「ああ……」


 ここは、夢のような世界だった。

 正しく夢だったのだ。

 

 令が居て澪が居ない。

 それは仁の現実ではない。

 自然にそう思えた。思えてしまった。

 

 どれだけ幸福であろうと、澪が居ない時点でそれはもう悪夢なのだ。

 

 思わず背後から令を抱きしめる。

 確かにここにある温もり。

 幻ではない、生身の令。

 

 涙が零れ落ちる。

 

 ――令はもう死んでしまったのだ。

 

 その言葉をずっと避け続けていた。

 居なくなったとは言っても死んでしまったとは一度も言えなかった。

 だけど今初めて認められる。

 

 まだ未来は確定していないのだろうと仁は察した。

 これは今じゃない。慣れた感覚でそう結論付けた。

 ライテラが完遂されて、その後に訪れる未来を見ているだけ。

 エースが持つ――だけど実際には多かれ少なかれ人が皆持つ未来予知。

 未来から送られてきたエーテルの記憶を覗いているだけだ。

 

 決して今じゃない。

 

 仁が諦めない限り。

 ライテラを認めて足を止めない限り。

 この未来は現実にはならない。

 確定はしていない。

 

 即ち、仁が一度失ったこの光景を今度は自分の手で捨て去る事が出来るのならば。

 死んでしまった令をもう一度殺すことが出来るのならば。

 

「……馬鹿な話をするんだけど」


 とても、令の顔を真っ直ぐに見ながらできる話ではなかった。


「もう、今日の仁は特別変だよ」

「分かってる。今日だけ、だから……」


 明日は来ない。

 仮にこの令が明日を迎えられたとしても、そこにいる仁は――。

 

「娘が居たんだ」

「うん」


 そっと令の手が仁の手に添えられる。

 その手を掴んで離さない。

 その感触を味わい尽くす。

 

「好奇心旺盛でちょっと目を離すとどっかに行くし、迷子には良くなるし、思い込みが強い奴なんだ」

「うん」

「でも大事な娘なんだ」


 令からすれば何を言っているのか分からないだろう。

 文字通り、馬鹿げた話だ。

 

「やっぱり」


 納得したような声を令は出した。

 

「あなたは私の知っている仁じゃないのね」


 仁が令のいない十年を過ごしたように。

 令は仁と共に十年を過ごしたのだ。

 

 そこに差異が生まれるのは当然だ。

 

 彼女は仁の知っている令じゃないし。

 彼は令の知っている仁じゃない。

 

 別人だって分かっている。

 だけどどうしても仁は令に聞きたい事があった。

 瞬間、理解する。

 

 自分が望んでいたのは、これだと。

 

 聞きたい事があった。

 伝えたい事があった。

 

 だからそれが叶う機会があると聞いて迷ってしまったのだ。

 自分の望みはもう一度令に会って話す事であって、共に過ごす事ではなかったのだと土壇場になって気付かされた。

 

「――俺は、人に愛された事が無かった」


 それを、与えられたことがない。

 幼い日々は奪われるだけだった。

 軍に入ってからも、友情は感じてもそれは無かった。

 

 シャーリーと付き合っていた頃。

 彼女は受け止める側だった。他人から愛されることが当たり前の生だった。

 彼女は愛を求めていたが、仁はそれを与える方法を知らなかった。

 

 だから、仁は愛されるという事を知らなかった。

 言葉の上では知っている。

 だけど実感として知る事が無かった。

 

「でもお前と会って。お前と一緒に過ごしている内に自分の中にそれが分け与えられたんだって感じた」


 令は仁の言葉を黙ってい聞いている。

 

「俺は、お前に愛されていたんだって。今ならそう思う」


 その確信が持てたのは何時の事だったか。

 少なくとも、令を喪ってからの事なのは間違いがない。

 己の中に生じた空隙を自覚して漸く、そこに満たされていた物とその温度に気付けたのだ。

 

「愛されているは、分かった。でも俺は」


 気付いてしまった瞬間から不安だった。

 もしも違ったらどうしようかと思った。

 令を亡くしてから初めて気づけた愛。

 だったら彼女がまだ仁の隣に居た頃には――。

 

「お前に愛を与えられていたか?」


 愛されている事の幸福。それを仁に気付かせたのはユーリアの啓蒙活動の結果だ。

 だから不安になる。

 自分は、令にそれを与えることが出来ていただろうか。

 

「愛していると、伝えられていたか?」


 思い返せば言葉にした事は無い。自覚すらしていなかった思いを伝えられていたか。

 自信が無い。

 この幸福を令に感じさせてあげられたのだろうか。

 

「馬鹿ね」


 令は笑った。どこか諦めの様な。呆れの様な。困った様な笑顔。

 

「私は別に聖人君子じゃないんだから。幸せにしてくれない人と何て一緒になろうなんてしないよ」


 うん、と小さく頷いた。

 

「分かりにくい事もあったけど。私は確かに貴方からの愛を感じていた。愛されていた」


 その答えに、仁は心から安堵した。

 

「嗚呼……良かった」


 己の中の未練。その一つが消えていくのを感じる。

 

「安心した」

 

 自分は、令を愛する事が出来ていたのだと。

 それを肯定して貰えたことで、一つの確信を持てる。

 

 自分は人を愛せる。

 

 この場所で失ってしまったから気づけた。

 同じ位だと仁は思っていた。

 だけど――その間隙を比べた仁の中で結論は出ていた。

 

 今はもう、澪の方が大切なのだ。

 8年間育てて来た娘の方が大事なのだ。

 気付かぬうちに令と共に過ごした時間を追い越していった娘を、きっと仁は――。


「きっと俺は令の知っている俺とは別人だ。だけど愛してる」

「うん、知ってる。私も愛してる――でも、仁の今の一番は違うんでしょ?」

「……すまない」


 気付いてしまったらもう自分でも誤魔化せない。

 自分にとっての一番が代わってしまった事への寂しさ。

 それを伝える事への罪悪感。


「謝らないで。でも私も会って見たかったな。仁の大切な娘に」

「ああ。俺も会わせたかった。俺の自慢の娘に」


 心からの本音だ。

 もしも。

 もしも令と澪。二人と共に暮らす未来があるのならば。

 

 仁は魂を悪魔に売っても良い。

 

 だけど無い。

 そんな未来はどこにも無いのだ。

 

 澪と令が同一の魂を起源としている限り、そんな未来は絶対に訪れないのだと仁は思う。

 

「ねえ顔を見せて」


 そう言われて仁は腕を解く。

 真正面から二人向き合う。

 

 仁の顔を見て、令は淡く微笑んだ。

 どこか寂しさを感じさせる笑み。

 

「そっか。仁は先に親になったんだね」

「……ああ」


 令の死んでしまった世界で一人、先に。

 令の居ない世界で一人だけで。

 

「本当は二人でそうなりたかった」

「そうだね」


 だけどそうはなれなかった。

 そうはならなかった結末が今この時なのだと。

 分かっているから二人とも鋭い痛みを堪えた様な表情になる。

 

「ねえ」

「ん?」

「その子、可愛い?」

「……ああ。お前にそっくりな可愛い娘だ」


 そう言って、仁の中に激情が満ちる。

 令が知らない事を言う度に。自分たちは決定的に道を違えてしまったのだと理解してしまう。

 もう二度と同じ道を歩く事は無いのだと言われているような気分になる。


 縋る様に胸元を握り締める。

 返ってくる硬い感触。

 それはここにある筈のない、今の令の指に嵌っている指輪だったもの。

 

 仁が失った物の象徴。

 

「本当は!」


 それを令の掌に渡す。指を通す事なんて出来はしない。

 その捩じれが、今の自分と令の関係を暗示しているかのようで。知らず、視界が滲む。

 泣いてなる物かと堪える。

 最後の最後まで涙は零さないと踏みとどまった。

 

 十年の歳月を経て、歪んだ指輪は正しい持ち主の手に渡ったのだ。

 悦びこそすれ、泣く事ではない。

 泣く事じゃ、ない。

 

「これを渡して、家族になりたかった……!」


 だけどそうはならなかった。

 ならなかったのだ。

 

 声が震えるのは止められない。

 この先に待っている物を想像すると足が竦みそうになる。

 

 でも進まないと。

 我慢しないと。

 だって仁は選んだのだから。

 令を見捨てると自分で選んだのだから。

 

「ああ。そっか」

 

 今のこれはもう仁にとっては夢幻でしかない。

 決して訪れる事のない未来だ。

 

「貴方の所に、私はもういないのね」

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― 新着の感想 ―
[一言] ようやく決心できたか でも、仁はここまでずっと抜け殻だったからな……変わらないとダメだぞ、これから
[一言] ああああヽ(´Д`;)ノ
[一言] 本筋での令がみた2つの未来がこれか
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