9 幸福を壊すのは誰の正義?
日の落ちかけた街の中。帰宅を急ぐ人々を尻目に、リシャンは立ち並ぶビルを眺めていた。
もうすぐ日は完全に落ちる。今はまだ辛うじてオレンジの光に照らされてはいるが、ものの数刻で黄昏の光は夕闇に競り負ける。
「どういうつもりなのですか? 違法アバターをそのまま放置しておくなんて」
「放置はしない。処分期限は発覚してから二十四時間。まだ時間があるじゃない」
「それはそうですが」
クロウはいつも細かい事を言ってくる。それもそのはずで、クロウの言葉は本部にいる局の職員が直接話している。頭が固いのは当然だ。
だからリシャンはクロウの言葉を意に介さない。
「それよりも‥‥あそこ‥‥」
鎌の刃の先には細い糸がついている。その糸はまるで何かに引っ張られているかのように、空へと張り詰めていた。その向かっている先には一つの大きなビルがある。屋上付近に赤色の光が点滅を繰り返しているのが見て取れるが、それは航空機に注意を促す注空灯だ。
「あそこがテロリストの居場所ですね」
「案外、甘いのね。凄腕ハッカーって言われてる癖に」
「気を付けてください。この世界で破壊されると、本体にも影響があります。 最悪‥‥」
「安全な本部にいるあなたが言っても説得力はないわね」
リシャンの体の輪郭がぶれる。そして次の瞬間には目的地である、屋上の上にいた。
ここはもう空の領域。遥か下にどれだけの人がいようが、その音はここまでは届いてこない。聞こえるのは風の音、そしてその風に揺らされた事による、注空灯の鉄骨の軋む音だけだ。
一人の男がそれでも、下界を覗いている。腕組みしたまま、何かを考えているようだ。
リシャンは無造作に近づく。ここに三番目の音、足音が加わった。
「あなたが、違法プログラムをこのワールドに持ち込んだテロリストね」
「‥‥‥‥僕はテロリストではありませんよ」
リシャンの姿を見ても男は慌てる事もなく、穏やかな口調でそう答えた。
「自分の利益だけの為に、秩序を破壊する‥‥これがテロリストでなくて、何だというのかしら?」
「残念ながら、その認識は間違っています。僕は自己の利益は求めてはいません。もちろん、多少は依頼者からは頂いていますが、それは全て活動資金の為。そして依頼者の希望を叶える為なのです。我々はこの世界を壊すのが目的ではない。むしろ現実では叶えられない事を可能にする、素晴らしい世界だと考えています」
「あは‥‥その依頼者の願いとやらが、この素晴らしい世界とやらを壊していくんだけど?」
「ある程度のシナリオと方向性を与えなければ人は幸せにはなりません。そのままなすがままに任せれば人は必ず不幸になります。私に仕事を依頼してきた彼は現実では初恋の人と結ばれる事はありませんでしたが、あのままシナリオが進めば、確実に幸せを手に入れる事ができました。人を不幸にしているのは管理局です」
「‥‥‥へえ‥」
もっともらしい事を言っているようだが、リシャンは彼の言葉を聞いていると、怒りが込み上げてくるのを感じた。
「じゃあ、彼の強引なシナリオ変更によって不自然な方向に人生を狂わされたアバター達はどうなるの?」
「アバター?‥‥あれはただのAIですよ。プログラム通りに行動しているだけの存在です」
「‥‥‥‥」
「アレらに人生と呼べるものは無いのです。精神接続した本物の人間の為のマネキンに過ぎません。人の役に立つ為だけにあるものです」
「‥‥そう」
リシャンは鎌を持つ手に力を込めた。青く光っていた鎌の刃の輝きが強くなる。
「僕を拘束するのですか? 無理だと思いますよ」
「そうかしら?」
「‥‥‥ではまた何れ何処かの世界で‥‥‥」
男は躊躇なくビルから飛び降りた。
「ん?」
だが、すぐ下で落下は止まる。見えないガラスのようなものに遮られた。夕闇に覆われた空の世界の真下。車の光が線のようにあちこちに伸びていた。
「‥‥‥‥」
男は見えない壁を砕こうと試みたが、傷どころか音一つ立たない。
「空間ロックですか‥‥」
「‥‥‥‥」
リシャンも透明な床の上に降りる。
「時間をかければ突破は出来ると思うけど、そんな時間を与えると思う?」
「‥‥‥管理局のいぬが‥‥お前達こそ、不幸の元凶だというのに‥‥」
「悪いけど、あなたの思想に私は興味がない」
リシャンが見えない床を歩くと、彼女の足音だけはコツコツという音として響く。
「ふん‥‥当たり前の事を言っているだけだというのに‥‥人の幸せの為に作られたAIが人の為の犠牲にならないとすれば、それは間違った世界だ。そんなものは淘汰されてしかるべきだ」
「‥‥‥‥」
リシャンは男のすぐ近くで足を止めた。
手を伸ばせば刃は男の首に届く。
「オッケー、降参です。僕は自首します。この空間ロックのプログラムを解くより、そっちの方が早そうですから、そうします。それによって刑は減免されて‥‥で、早々にまた戻ってきますよ。無意味なアバターを除去する為にもね」
男は笑って手を上げる。
「‥‥‥‥」
リシャンは男の顔を見つめる。冷たい色を放っていた瞳が赤く染まった。
「‥‥‥‥お前はリアルに返さない‥‥」
鎌の刃の色が青から赤色に変わる。
「魂ごと、切り刻んであげる」
「‥‥え?‥‥ま、待て‥‥管理局はそんな‥‥」
「‥‥‥‥ふん!」
「ぎゃあああああ!」
振り下ろされた赤い刃で二つに裂かれ、炎につつまれて燃え上がった。
しばらく断末魔の悲鳴を上げていたが、それもすぐに消え去り、跡には灰すらも残らない。
「‥‥リシャン‥‥」
クロウが現れた。
「いきなり空間がロックされたと思えば‥‥」
「事故はつきものね。局員たちも危険だからデバイス越しでしか接してこないわけだしね」
「全く‥‥被疑者死亡では、テロリスト組織の何の情報も得られないじゃないですか」
リシャンの嫌味にも、クロウは全く動じない。
「‥‥‥‥作られた幸せと、自由な不幸せ‥‥どっちがマシなのかしらね」
「ん? 何の事です?」
「ふふ‥‥あははは!」
リシャンの笑い声は孤高の空へと響き渡った。




