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68  ありがとう、さようなら

挿絵(By みてみん)

 “‥‥サヒ‥‥”

 声が聞こえてきた。落ち着いた静かな声。

 “‥‥アサヒ”

 その声はアサヒと言っている。それは誰かの名前なのか。

「アサヒ」

「‥‥‥‥」

 リシャンは目を開いた。いつの間にか閉じていた事に気が付かなかった。

「気が付いたのね!」

 女性がリシャンに抱きついた。

 見覚えがないが、彼女は抱きしめながら泣いている。

 周りを見渡せば、壁が光る眩しい白い部屋の中。まだ目が慣れていないのか細部まで見通す事が出来ない。

「‥‥‥‥」

 体を起こそうとして、そこで自分の身体が濡れている事に気が付く。今まで水のような物質の中にいたらしい。

「一体‥‥どういう‥‥」

「やっと治ったんだよ」

 奥にもう一人‥‥男性が立っていた。中年のその男性にも、見覚えはない。

「治った?」

「そうよ。難病で体が動かせない病気だったけど、ようやく治療の目途が経ったの」

「‥‥‥‥」

 腕を動かす、握る事も開く事も出来る。

「さ、起きて良く顔を見せて、アサヒ」

「アサヒ‥‥それが‥‥私の名前?」

「そうだ。僕が父親の琢磨」

「私が母親の千佳」

「初めまして‥‥に、なってしまうのか」

 二人は少し寂しそうな顔をした。

「でも、これからは一緒だ。三人で失った時間の分も取り戻そう」

 母親に続いて父親も手を握った。

「お父さん、お母さん‥‥会いたかった‥‥」

 リシャンは二人ときつく抱き合った。

 両親の中に顔を埋める。

「これが‥‥家族というもの?‥‥いいものね」

 これが幸せ? 誰もが目指すという普遍的幸福の帰結?

「フフ‥‥」

 込み上げてくる笑いをこらえる。

「どうしたの?」

「ううん、楽しいなって思ってね」

 リシャンは寝ていたカプセルから立ち上がった。濡れていた裸足が、床に足跡をつける。

「‥‥‥‥もう少し、浸っていてもいいんだけどね‥‥‥」

 部屋中に風が巻き起こる。両親は吹き飛ばされないように、家具につかまった。

 手に持っているのは、巨大な鎌。金属の冷たい光が、柔らかな光源に包まれたこの部屋の空気とは対照的だ。

「‥‥アサヒ‥‥どうしたんだ?」

「ありがとう、お母さん」

「!」

 鎌の煌めきが母親を真っ二つに切り裂く。断末魔の悲鳴と共に、消えていった

「あ、アサヒ‥‥何を‥‥」

「ありがとう、そしてさようなら」

「ぐあ!」

 返す刃で、父親を切り裂く。

 室内には誰もいなくなった。

「ふん!」

 鎌を横に薙ぎ払う。

 室内の風景は二つに裂けていく。切り口が開いていくと、元いたマンションの玄関に戻った事が分かった。あまり実用性のない、そして高価そうな置物が目につく。涼子の浮気相手のマンションの玄関だ。

「リシャン、正面だ!」

 クロウが視線を促す。

「‥‥‥‥」

 いつもの着物姿に戻ったリシャンは、少し離れた場所からじっとこちらを見つめている人物を、逆に観察する。

 凍り付いたようにこちらを見ているのは、涼子でもアキトでもない。


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