3 名前すら曖昧な私に、誰が微笑んだ?
「ねえ、ひなたもカラオケ来るんでしょ?」
「え?」
呼ばれて私はハっとしたの。
そうか‥‥そう言えば私の名前は、ひなた、だった。
何でだろう?‥‥それが何となく私の名前だって事に気が付かないなんて。
もちろん、今は、どんな状況なのか詳しく言える。
私は新山ひなた‥‥近くの高校に通う、二年生の女子。成績も運動も中ぐらい。特に目立つような事もなく、クラスの中では何人かの友達の後ろをついて歩く感じ。
家は都心の中にあるけど、特にお金持ちというわけでもなく、普通の家庭。
今は学校の帰り道、すっかり暗くなってて、交差点にある信号機の光と行き過ぎる車の光が眩しいし、人混みの中、独特の雑踏に取り囲まれている。
とにかく私は大体、普通だ。
ずっと普通に、無難に生きてきた‥‥はずなんだけど、最近、頭がぼーっとしてる。
あんまり昔の事が思いだせない。この歳でぼけるのは嫌だなあ‥‥なんて、友達の笑ってる顔を見ながら、私はそんな事を考えてる。
「‥‥どうしたの?」
「ううん、何でもない」
私は笑い返す。
大丈夫、私は私‥‥普通の女子高生。一応、友達もいるし、気になってる人も‥‥いる。
それは斜め前の席の小野君。
彼も、私と同じで目立たないけど‥‥いつだったか(一年生の時?)朝の朝礼中に私が貧血で倒れそうになった時、サっと手を添えて、ゆっくりと床に寝かせてくれた(無理に立つのを支えないのがポイント高し!)。その手際がもう見事と言うか、優しくて‥‥それ以来、ずっと彼を後ろの席から見てる。
多分、好きなんだと思う。
けれども、とてもそんな事を口に出しては言えない。
いつか言えたらいいな‥‥と思うけど、
いつかって‥‥。
いつだろ?
「‥‥‥‥」
よく分からなくなってきた。
「じゃ、ひなたも一緒に行くって事で」
「え? うん」
カラオケか‥‥実は苦手だったりする。
「実はね、大橋先輩も来るんだよ」
「‥‥‥‥」
その名前を聞いた私は、胸がズキっとする。
大橋俊介先輩は、一つ上で三年生。テニス部のエースで、勉強も運動も出来て、爽やかイケメンで他の人に気配りも出来る。家も大きな会社の社長で、それはもう非の打ちどころがない。もちろん女子には絶大な人気だ。
だけど私は別に‥‥と、思ってる。
私が好きなのは小野君。
‥‥それなのに、先輩の名前を聞くと、何て言うか‥‥意識がぼうっとしてくる。
自分ではどうにもならないこの感情は、好き‥‥っていうものに似てはいるんだけど。
何かが違う。
心の奥の奥で何かがそう叫んでる。
「良かったじゃない。ひなた、先輩の事、好きだもんね」
「え?‥‥う‥‥ん‥‥」
まるで小野君への好意への矢印を、無理矢理変えられたような‥‥。
「早く早く」
「あ、待って」
走っていく友達‥‥の姿が人の波に飲まれて消えていく。雑踏の音が重なってただザワザワと波の様に聞こえてくる。
私の伸ばした手は行先を無くして‥‥そのまま下ろしたの。
このまま、はぐれた事にして帰ってしまおうかな‥‥。そんな事を考えたけど、それは絶対にしてはならない‥‥頭の中でその言葉が響いてくる。
「‥‥‥‥」
行先は分かっているから、そんな言い訳は通じない。
意志とは逆に私の足はカラオケに向かって勢いよく走って行った。




