第九話 旧街道の夜
足音が合わない。
殿下の歩幅は私の七割。旧街道の地面は石と泥が入り交じり、同じ歩幅を保つこと自体が難しい。それでも殿下は、私の半歩後ろを崩さず歩いている。
出発して六時間。太陽が頭の上を過ぎ、西に傾き始めた。
「レオン」
「はい」
「水」
革袋を渡した。殿下は三口だけ飲み、栓を閉めて返した。私は口をつけず、革袋を腰に戻した。水は二人分で四日。余裕はない。殿下が三口で止めたのも、それを計算しているからだ。
旧街道の両側に、楢の木が壁のように並んでいる。木漏れ日が地面にまだら模様を作り、時折、枝の間から鳥が飛び立つ。それ以外に動くものはない。
人の気配がない。
それが安心なのか危険なのか、今の私には判断がつかない。
---
一日目の夜営地は、崩れた石橋の下を選んだ。
四日前に一人で通ったとき、この石橋が目に留まった。橋の下に人二人が横になれる空間がある。三方を石壁に囲まれ、残る一方は川に面している。背後を取られにくい。
殿下が荷を降ろし、石壁に背を預けた。外套の裾に泥がこびりついている。靴の踵がすり減り、左足を庇うように体重をかけている。
「足を」
「何だ」
「左足を庇っています」
殿下の目が私を見た。一瞬の間があった。
「靴擦れだ。——おまえには関係ない」
「殿下」
「歩ける。明日も歩ける。それだけ確認すればいい」
殿下は外套を引き寄せ、石壁に肩を預けた。会話は終わりだという姿勢。私はそれ以上何も言わず、薪を組み始めた。
火を点けるか迷った。煙は遠くから見える。だが、三月の夜気は石橋の下まで冷える。殿下の唇が薄く白い。
小さな火を起こした。煙が少ない枯れ枝だけを選び、石壁の奥で燃やす。炎の影が殿下の顔を照らし、頬の痩せがさらに深く見えた。
「レオン」
「はい」
「火を点けた判断は正しい。私が凍えれば侯爵との面会に支障が出る。——合理的だ」
殿下はそう言いながら、両手を火に翳した。指先が震えている。合理を語る声が、体の冷えを裏切っていた。
---
交代で眠る、と決めた。
私が先に見張りを取る。殿下は外套にくるまり、石壁の隅で目を閉じた。寝息が聞こえるまで四半刻かかった。
川の水音が一定のまま続いている。風が楢の枝を鳴らし、時折、獣の声が遠くで上がる。
火の番をしながら、昨夜の考えを反芻した。
旧街道で待ち伏せされるとすれば、二つの場所がある。一つは明日通過する峡谷の入り口。道幅が馬車一台分まで狭まり、両側の崖から弓を射かけられる。もう一つは三日目の渡し場。川を渡る最中は身動きが取れない。
峡谷は回避できる。四日前に見つけた獣道がある。殿下の足で半日余分にかかるが、命と引き換えにする計算ではない。
渡し場は回避できない。上流にも下流にも、人が渡れる浅瀬は一つしかない。
火が薄くなった。枯れ枝を足す。
殿下の寝顔を見た。火に照らされた横顔。額に汗が滲んでいる。寝苦しいのか。あるいは——
視線を戻した。今は見張りの時間だ。
---
二日目。
峡谷を避け、獣道に入った。
「なぜ道を変える」
「峡谷の入り口は待ち伏せに向いています。四日前に通ったとき、崖の上に足跡がありました」
「足跡」
「革靴の。猟師の靴ではありません」
殿下の足が止まった。
「——四日前から、あったのか」
「不確かです。雨で流れかけていました。ただ——」
「ただ」
「私の手配書が東部に出回っているなら、旧街道を監視する人間がいてもおかしくありません」
殿下が獣道の先を見た。藪が深い。倒木が道を塞ぎ、足場は土と岩だけ。まともな道とは呼べない。
「この道は」
「半日余分にかかります」
「半日」
殿下の顎が引き締まった。十日の期限。すでに一日を使い、ここから半日を加えれば——
「他に手はあるか」
「峡谷を走り抜ける。ただし弓の射程内を通ります」
「却下だ。——獣道を行く」
殿下が先に藪に踏み込んだ。枝が外套を引っかける。殿下はそれを片手でちぎり、振り返らずに進んだ。
その背中を見た。王宮の広間で百人の貴族を前にする背中と同じだった。藪の中でも、この人は折れない。
---
獣道の途中で休憩を取った。
殿下が岩に腰を下ろし、干し肉を齧っている。私は少し離れた木の幹に背を預け、同じものを口に運んだ。
沈黙が長い。旧街道と違い、獣道には鳥の声が近い。頭の上で小鳥がさえずり、足元を蜥蜴が横切った。
「レオン」
「はい」
「おまえは四日前、この獣道をどうやって見つけた」
「崖の上の足跡を見て、峡谷に嫌な予感がしました。それで引き返して脇道を探しました。獣の足跡を辿ったら——ここに出ました」
「引き返した」
「はい」
「四日かかったのは、そのためか」
答えに詰まった。膝の痛みのせいだと思っていた。だが確かに、獣道を探す時間が半日あった。
「……はい」
殿下が干し肉を噛み切り、目を伏せた。
「おまえに聞きたいことがある」
空気が変わった。殿下の声の温度が一段下がる。公の声ではない。だが私的な声でもない。その中間にある——選んでいる声。
「何でしょう」
「おまえは、なぜ戻ってきた」
心臓が一つ、強く打った。
「売られたと知って。手帳を読んで。——それでも戻ってきた理由を、聞いていない」
殿下の目がまっすぐ私を見ている。獣道の木漏れ日が、殿下の瞳の中で揺れていた。
答えを持っている。持っているが——言葉にすれば壊れる。喉の奥が詰まった。二十年間、言葉にしなくてよかったものを、ここで口にすれば、もう元には戻せない。
「殿下」
「何だ」
「答えは持っています。ただ——」
枝が折れる音がした。
反射で体が動いた。殿下の前に立ち、腰の剣に手をかける。音は左の藪の奥。距離は二十歩。
二度目の音。枝ではない。靴が石を蹴った音。
「何人だ」
殿下の声は平らだった。恐怖ではなく、状況を確認する声。
「一人。——いや」
右からも気配。木の幹の陰に、もう一つの影。
「二人」
剣を抜いた。刃が木漏れ日を反射する。
左の藪が割れ、男が一人、姿を現した。革の胸当て。短剣を右手に。顔を布で隠している。傭兵崩れの体格。訓練された動きではないが、人を斬った腕の構え方をしている。
右の男は木の陰から動かない。弓を構えている。矢がこちらを向いている。
「罪人ランドルフ・ヴェーンだな」
左の男が言った。声が若い。二十代か。
「手配書の通りだ。大人しくしろ。——後ろの女は誰だ」
殿下が私の背後にいる。外套のフードを深く被っている。顔は見えないはずだ。
「道連れだ。行商人の女房で、足が悪い」
「行商人の女房が旧街道の獣道を歩くか」
左の男が一歩踏み出した。短剣の切っ先が私の胸を向いている。右の弓手は動かない。二人の連携は粗い。だが弓がある。
計算した。
左の男との距離は十五歩。詰めるのに三歩で二拍。その間に右の弓手が射る。弓を引き絞る時間は一拍。矢の到達は半拍。合計一拍半——間に合わない。
ならば。
「分かった。大人しくする」
剣を下げた。左の男の目が緩む。右の弓手の肩がわずかに落ちた——引き絞りを一瞬弱めた。
その一瞬。
剣を投げた。柄ではなく、刃を右の弓手に向けて。殺すためではない。弓を逸らすため。
弓手が体を捩った。矢が外れる。木の幹に矢が刺さる音。
三歩。左の男に踏み込んだ。短剣が突き出される。半身で躱し、男の手首を掴み、捻る。骨が軋む音。短剣が落ちた。男の顎に肘を叩き込む。崩れた。
右を見た。弓手が二本目の矢をつがえようとしている。投げた剣は地面に落ちている。距離は二十歩。間に合わない——
石が飛んだ。
弓手の手元に、拳大の石がぶつかった。弓が弾かれ、矢が藪に消えた。
振り返った。殿下が石を投げた姿勢のまま、立っていた。右手を伸ばし、膝を落とした投擲の構え。正確だった。
弓手が弓を拾おうと屈んだ。走った。五歩で距離を詰め、男の襟首を掴んで地面に叩きつけた。
---
二人を木に縛った。
左の男は気を失っている。右の弓手は目を開けているが、抵抗する気力を失っていた。
「誰に雇われた」
「……知らない。王都で声をかけられた。手配書の男を見つけたら捕えろ、と。生け捕りなら銀貨五十枚」
「声をかけた人間の特徴は」
「背が高い。——髪が黒くて、片方の耳に傷があった」
男の口が閉じた。末端の雇われだ。情報は少ない。
殿下が私の隣に立った。
「片耳に傷」
「心当たりがありますか」
「ない。——だが、宰相府の手の者なら片耳に傷のある男を使い走りにしない。顔に特徴がある人間は、この手の仕事には向かない」
「別の誰かが」
「分からない。だが雑だ。傭兵崩れが二人。連携も粗い。本気で私の首を獲りに来たなら——近衛を送る」
殿下の声は分析に徹していた。だが、視線は私の右腕に落ちていた。
右の袖に血が滲んでいる。左の男の短剣が、躱した際に腕を掠めた。浅い。だが血が止まっていない。
「レオン」
「浅い傷です」
「見せろ」
殿下が私の右腕を取った。外套の袖をめくり、傷を確認する。殿下の指が冷たい。傷口の周りを押し、深さを確かめている。
「水で洗う。布を出せ」
「殿下——」
「おまえの腕が使えなくなれば、この旅は終わりだ。合理的な判断だ」
殿下は革袋の水を傷口に注いだ。私の荷から布を取り出し、裂いて巻いた。手慣れてはいない。だが丁寧だった。
巻き終えた後、殿下の手が一瞬だけ、私の腕の上に留まった。
「……正直な男は、嘘が下手だ」
「殿下」
「さっきの答え。——いつでもいい。急かさない」
殿下が手を離し、獣道の先を見た。
「だが——おまえが答えを持っていることは、覚えた」
---
二日目の夜営。
獣道の途中、楢の大木の根元に窪みを見つけ、そこに陣を張った。薪になる枝は足元にいくらでもあったが、火を起こす代わりに闇のまま座った。傭兵崩れが二人いた以上、他にもいる可能性がある。
殿下は外套にくるまり、木の根に背を預けている。月明かりが木々の間から差し込み、殿下の横顔を白く照らしている。
「レオン」
「はい」
「おまえの腕の具合は」
「動きます」
「聞いたのは具合だ。動くかどうかではない」
「……痛みはあります。ですが、剣は握れます」
殿下が小さく息を吐いた。白い息が月明かりの中を漂い、消えた。
「明日で三日目だ。渡し場を越えれば侯爵の領地に入る」
「はい」
「渡し場が危ない。——おまえもそう考えている」
「はい」
「策はあるか」
「一つだけ。夜明け前に渡ります。暗いうちに川に入れば、待ち伏せがいても視界が利かない」
「おまえの腕で、暗闇の川を渡れるか」
「殿下を渡します」
殿下の目が私を見た。月明かりの中で、その瞳が光った。
「——信じる」
それだけ言って、殿下は目を閉じた。
私は木の幹に背を預け、夜を見張った。右腕の傷が脈を打つように熱い。だが剣は握れる。殿下が信じると言った。それだけで、腕は動く。
闇の中で耳を澄ませた。風の音。梟の声。遠くで水が流れている。渡し場の川音。
明日、あの川を渡る。
そして渡った先に——何が待っているか。侯爵の領地は安全ではない。ヘルデン子爵が傾けば、東部の空気が変わると殿下は言った。
空気が変わった東部で、追放された罪人と第二王女が侯爵の前に立つ。
三日目の夜明けまで、あと四刻。




