第八話 二人の道
旧街道を三日歩いた。
膝が痛む。二十年前なら一日半の道を、三日かけている。旧街道は舗装されていない。木の根が地面を割り、雨水の溝が道を横切る。
四日目の明け方、隠れ家の裏口に辿り着いた。
殿下は地図の前に立っていた。
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隠れ家は石造りの農家を借り上げたものだ。表向きは干し草の倉庫。窓は板で塞がれ、光源は卓上の蝋燭が二本だけだった。
壁に貼られた地図に、赤い印が増えていた。私が出発したときは三つだった。今は七つ。
「お帰りなさい。レオン」
殿下が振り返った。顔に疲労が浮いている。頬が痩せ、目の下に影がある。だが声は平らだった。
「ヴィルヘルム侯は」
「盟約に乗ります」
殿下の肩が、一瞬だけ下がった。息を吐いた。声には出さず、体が反応していた。
「条件は」
「殿下との直接面会。十日以内。場所は侯爵が用意します」
殿下が地図に目を戻した。指が東部を辿る。ヴィルヘルム侯爵の領地。その南のヘルデン子爵領。さらに東の街道。
「十日」
「はい。宰相府の使者が侯爵の屋敷に来ていました。東部の地方貴族を切り崩しにかかっています。ヘルデン子爵が第一王女側に流れるだろう、と侯爵が」
「ヘルデンか」
殿下の指が、子爵の領地の上で止まった。
「小さな領主だ。だが交易路沿いの領主には横の繋がりがある。一人が傾けば、空気が変わる」
「侯爵も同じことを言っていました」
「そうだろうな。あの人は空気を読む。空気を読んで——空気が変わる前に動く人だ」
殿下が蝋燭の傍に座った。地図から目を離し、私の顔を見た。
「レオン。座りなさい」
椅子に座った。三日分の疲れが膝から腰に上がってくる。蝋燭の灯りが二人の影を壁に映していた。
「報告の続きを」
「旧街道を使いました。帰りは検問が増えていて——侯爵の指示です。手配書が東部にも回っています」
「おまえの」
「はい」
殿下が目を閉じた。
「おまえを追放したのは姉だ。手配書を出したのも姉だ。——おまえを使っている限り、この計画の弱点はおまえの身柄だ」
「承知しています」
「承知していて、旧街道を三日歩いたのか」
「四日です。膝が」
「四日」
殿下の声が、わずかに揺れた。すぐに平らに戻した。
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「行きます」
殿下が立ち上がった。
「東へ。ヴィルヘルム侯に会う」
「殿下——」
「おまえが言う前に言う。危険だ。隠れ家を空ける間、王都との連絡は途絶える。近衛の内通者との接触も止まる。姉が先に侯爵を取り込む可能性がある。全部分かっている」
殿下が地図の前に立った。右手が東部を指し、左手が王都を押さえている。二つの距離。その間を、この人は一人で渡ろうとしている。
「それでも行く。侯爵の条件を蹴れば、盟約が崩れる。盟約が崩れれば三十日の計画が——」
「消えます」
「消える。だから行く」
蝋燭の炎が揺れた。窓の板の隙間から、夜明けの風が漏れてくる。
「殿下。一つ、お願いがあります」
「何だ」
「道を私に選ばせてください」
殿下が振り返った。
「旧街道を四日歩きました。地形は頭に入っています。丘の位置、川の渡し場、身を隠せる場所。検問の配置も確認しました。殿下を通す道は——」
「おまえが選ぶ、と」
「はい」
殿下の目が細くなった。私を測る目。二十年間、何度も見てきた目だ。裏切りを見抜く目でもあり、信頼を確認する目でもある。
「条件がある」
「聞きます」
「おまえ一人で先行するな。私と一緒に歩け」
「殿下——」
「おまえに何かあれば、私は侯爵の屋敷に辿り着けない。おまえは私の道案内であって、囮ではない」
喉の奥が詰まった。二十年仕えた。売られた。それでも守ると決めた。この人は——この人は、私が壊れることを許さない。
「……承知しました」
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出発は翌朝と決まった。
殿下は隠れ家の仲間に指示を出し始めた。留守中の王都の連絡手段。姉の動きの監視。近衛の内通者への伝達。
私は地図の前に座り、道順を組み立てた。
旧街道の中で検問がない区間。川を渡る地点。夜営に使える場所。二人分の食料と水。徒歩の場合の所要日数。
三日。私一人で四日かかった道を、殿下と二人で三日に縮める必要がある。侯爵の期限は十日。往復の移動と面会を合わせて——余裕がない。
蝋燭の灯りで地図を読んでいると、殿下が戻ってきた。
「レオン」
「はい」
「一つ聞く。ヴィルヘルム侯は——おまえを、どう見た」
侯爵の顔を思い出した。あの男は嘘がつけないのではなく、つかないのだな、と言った目。
「正直な男だ、と」
「そうか」
殿下の口の端が、かすかに動いた。笑みとは呼べない。だが、無表情でもなかった。
「正直か。——おまえに正直でいられるのは、おまえが正直だからだ」
「殿下」
「寝ろ。明日は早い」
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藁の寝台に横になった。天井の梁に蜘蛛の巣がかかっている。
膝が痛い。だが、痛みの中に安堵がある。帰ってきた。報告を終えた。侯爵は乗る。殿下は動く。
あとは——この足が、殿下を侯爵のもとへ送り届ければいい。
壁の向こうから、殿下が地図をめくる音が聞こえた。紙が擦れる音。蝋燭の灯りが隙間から漏れている。
眠りに落ちる直前、一つだけ考えた。
殿下が東に向かう。
私の手配書が東部に出回っている。
殿下と二人で旧街道を歩く。検問がない道を選んだ。だが検問がない道は——人目がない道でもある。
もし旧街道で待ち伏せされたら。
侯爵は「おまえが捕まれば、私がエリスに乗った証拠が残る」と言った。
証拠が残る。つまり——誰かが、証拠を残したい者がいるとすれば。
目を開けた。
天井の蜘蛛の巣が、夜風で揺れていた。




