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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


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第七話 侯爵の昼食



 二日目の朝、宿場の井戸端に侯爵の使いが来た。


 若い男だった。侯爵の屋敷で見た牧羊犬と同じ目をしていた——こちらを見定めるような、静かな目。


「ヴィルヘルム様より伝言です。本日の昼食を共にしたい、と」


 三日目ではない。二日目。


 私は宿の主人に銅貨を置き、すぐに支度を始めた。


---


 宿場から侯爵の屋敷まで、歩いて半刻。街道沿いの畑では、麦が朝の風に揺れていた。穂がまだ青い。収穫は二月先。交易路が止まれば、この麦が市場に出る前に領民の台所が空になる。


 侯爵が三日を二日に縮めた理由が、畑を見ているうちに分かった気がした。


 いや——撤回する。侯爵の考えは読めない。ただ、青い麦穂と、侯爵が一万二千人と言ったときの声の詰まり方を、私の頭が勝手に並べていた。


---


 屋敷の門前に着くと、牧羊犬が一頭だけだった。


 前回は二頭いた。残りの一頭がどこにいるのか、門番は説明しなかった。門番の顔つきも前回と違った。口を引き結び、目が忙しく動いている。


 応接間ではなく、食堂に通された。長い木のテーブルに、椅子が十二脚。侯爵は奥の席に座り、スープの入った陶器の鉢を前にしていた。湯気が上がっている。豆と干し肉の匂いだった。


「座れ。冷める」


 私は侯爵の向かいに座った。鉢がもう一つ、私の前に置かれた。同じスープだった。


 侯爵は黙ってスープを飲んだ。私も飲んだ。塩が強い。干し肉の脂が浮いていて、舌の奥に甘みが残った。豆の煮崩れ方に手間がかかっていない。宿場の飯屋に出てくる味だった。


 スープを半分ほど飲んだところで、侯爵が鉢を置いた。木のテーブルに陶器がぶつかる、短い音。


「昨日の夜、客が来た」


 私の手が止まった。


「客?」


「宰相府の使者だ。非公式の。名も告げずに来て、帰った」


 侯爵の声は平らだった。事実だけを並べる声。殿下が計画を語るときと同じ温度だった。


---


「使者の用件は——通行税の件ですか」


「逆だ」


 侯爵が鉢の縁を指で叩いた。


「通行税は据え置く。交易路にも手を出さない。その代わり、第一王女の即位を支持しろ——と」


 飴と鞭。第一王女側が態度を変えてきた。背筋が冷えた。


「侯爵。宰相府の使者がここに来たということは、殿下の計画が——」


「漏れているかどうか、と聞きたいのだろう」


 侯爵が立ち上がり、窓を開けた。朝の空気が食堂に入ってきた。青い麦の匂いと、遠くの煙の匂い。


「漏れてはいない。少なくとも、おまえが来たことは知られていない。宰相府の使者は、書状の件とは別の理由で来た」


「別の理由」


「地方貴族の切り崩しだ。第一王女は片端から声をかけている。私のところにも来た。それだけの話だ」


 侯爵が振り向いた。


「だが——おまえが来た二日後に使者が来た。この偶然を、おまえの主はどう読む」


 私は三秒考えた。殿下の声を頭の中で聞いた。地図を指でなぞりながら、平らな声で言う殿下を。


「殿下なら——偶然として扱わないでしょう。こちらの動きが察知された前提で、次の手を組み直すはずです」


「そうだろうな」


 侯爵が窓枠に手をついたまま、薄く笑った。


「あの子は臆病だからな。最悪を想定することにかけては天性だ」


 顎を引いたまま、黙った。臆病。その言葉を殿下に重ねることには抵抗がある。だが侯爵は私とは別の距離で殿下を見ている。口を挟む場所ではない。


---


「さて」


 侯爵が窓を閉めた。音が断たれ、食堂に静寂が戻った。スープの湯気はもう消えていた。


「三日と言った。だが、二日で呼んだ。理由を聞きたいか」


「はい」


「昨夜の使者が帰った後、私は門前に出た。犬が二頭いる。知っているな」


「今日は一頭でした」


 侯爵の目が、かすかに動いた。気づいたか、という顔だった。


「一頭を、宰相府の使者の後を追わせた」


 牧羊犬を。尾行に。


「犬は追えても、報告はできないでしょう」


「犬には飼い主がいる。飼い主は私の家人だ。犬と一緒に出した。今朝、鳥便が届いた」


 侯爵が懐から小さく折り畳まれた紙を出した。私には見せず、手の中で弄んだ。


「使者は帰り道で、別の屋敷に寄った。南のヘルデン子爵家だ。東部の小領主で、通行税の恩恵を直接受けている家だ」


「子爵家にも同じ話を?」


「だろうな。飴をちらつかせて、片端から取り込む。姉の方は——力押しが好きだ。エリスとは違う」


 侯爵が紙を懐に戻した。


「おまえに伝えておきたいのは、ここからだ」


 声が低くなった。侯爵の大きな体が椅子に沈み、両手がテーブルの上で組まれた。


「ヘルデン子爵は、受ける」


「——確かですか」


「確かだ。あの男は臆病で、得に弱い。通行税を据え置くと言われれば、喜んで第一王女につく」


 東部の小領主が第一王女に流れる。一領主の離反は小さい。だが連鎖する。子爵が動けば、近隣の男爵家が動き、交易路沿いの商人組合に空気が伝わる。


 侯爵が東部を押さえているという前提が、崩れ始める。


「だから二日で呼んだのですか」


「三日待っている間に、東部の空気が変わる。変わった後では、私が動いても意味がなくなる」


---


 侯爵は立ち上がり、食堂の壁にかかっていた古い地図を指した。東部の交易路が、太い線で描かれていた。


「私が東部を握っていると言われる。事実だ。だが握っているのは路だ。路の上を歩く人間を握っているわけではない」


 指がヘルデン子爵の領地を押さえた。


「人間が離れれば、路は空になる。空の路には価値がない。おまえの主は、そこまで計算しているか」


 していると思う。だが確信はない。殿下が見ていたのは三家の盟約という枠組みで、末端の子爵家の動向まで想定していたかは分からない。


「分かりません」


 侯爵の眉が上がった。前回と同じ反応だった。正直な男だ、と言いたげな顔。


「おまえは嘘がつけないのではなく——つかない男だな」


 口を閉じたまま、顎を引いた。侯爵の読みが正しいかどうか、自分では判断がつかない。


---


 侯爵が、地図から手を離した。私を正面から見た。


「盟約に乗る」


 短い言葉だった。前置きも溜めもない、一刀のような言い切り。


「ただし、条件がある」


「聞きます」


「エリスに直接会う。文や使者ではなく、本人の顔を見て話す。場所はこちらが用意する。時期は——十日以内」


 十日。三十日のうち既に七日が過ぎている。残り二十三日。往復の日数を引くと、殿下が王都を離れられるのは実質五日。その間、隠れ家は空になる。近衛の内通者との連絡も途絶える。


 危険だ。だが——侯爵が「乗る」と言った。この言葉を持ち帰らない選択はない。


「伝えます」


「伝えるだけでいい。決めるのはあの子だ」


 侯爵が椅子から立った。スープの鉢を片手で持ち上げ、残りを一息に飲み干した。鉢をテーブルに置く音が、先ほどより軽かった。


「もうひとつ」


 侯爵が背を向けたまま言った。


「おまえの手配書が、東部にも回っている。街道の検問が三つに増えた。帰りは旧街道を使え。遠回りだが、人の目がない」


「——ありがとうございます」


「礼はいらん。おまえが捕まれば、私がエリスに乗った証拠が残る。自分のために言っている」


 侯爵は食堂を出ていった。


 テーブルの上に、空の鉢が二つ残った。干し肉の脂がこびりついた陶器の縁を、私はしばらく見ていた。


---


 屋敷を出ると、門前に牧羊犬が一頭、伏せていた。もう一頭はまだ戻っていない。


 旧街道への道を歩きながら、殿下への報告を組み立てた。侯爵は盟約に乗る。条件は直接の面会。十日以内。宰相府が東部を回っている。ヘルデン子爵が流れる。


 殿下がどう判断するか。


 東へ来る、と私は思った。殿下は来る。危険を計算した上で、来ると判断する。侯爵の条件を蹴れば盟約が崩れ、三十日の計画そのものが潰れる。


 殿下は来る。


 ならば私がすべきことは、殿下がここに来るまでの道を安全にすることだ。


 旧街道に入った。木々が頭上を覆い、日差しが途切れた。足元の土が柔らかく、靴底が沈む。人の足跡は見えない。


 歩きながら、地形を記憶に刻んだ。丘の位置。川の渡し場。視界が開ける場所と、身を隠せる場所。


 殿下を通す道は、一度しか選べない。



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