第六話 門前の問い
侯爵の屋敷には、犬がいた。
門の両脇に二頭。猟犬ではない。牧羊犬だった。領主の屋敷に牧羊犬を置く貴族を、私は他に知らない。犬たちは門を通る私を見上げ、尾を一度だけ振った。吠えない。
門番が私を通したのは、名を告げてから十五分後だった。その間、私は門の前に立たされた。朝の風が東から吹いていて、屋敷の裏手から麦を焙る匂いがした。
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応接間は広かった。だが椅子は二脚しかない。一脚には侯爵が座っていた。もう一脚は空いていた。
トーンウォル侯爵ヴィルヘルム。六十二歳。白髪を短く刈り込み、顎は剃り残しで薄く青い。体は大きい。椅子が小さく見えるのは侯爵の体格のせいだ。
「立っていたいなら立っていろ。座りたいなら座れ。どちらでも構わん」
私は座った。殿下に言われた通り、まず聞く。
「——で。エリスは元気か」
殿下の名を呼び捨てにした。王族に対してそう呼ぶ貴族は珍しい。侯爵の年齢なら殿下の生まれた頃を知っているはずだが、それにしても砕けている。
私は頷いた。
「そうか」
侯爵は左手で膝を叩いた。二度。それから窓の方を見た。
「おまえがランドルフ・ヴェーンだな。二十年。長いな」
答えようとした。だが侯爵は私の方を見ずに続けた。
「エリスの母——リーゼルと、何度か話したことがある。聡い女だった。口数は少ないが、黙っている間に三手先まで読んでいる。あの子はリーゼルに似た」
侯爵の視線が窓から戻り、私の顔で止まった。
「おまえに聞きたいことがある。先に聞く。いいな」
私は口を閉じたまま、顎を引いた。
「おまえは、エリスを守りに来たのか。それとも使いに来たのか」
一時間は黙って聞く。殿下はそう言った。だが侯爵は私に問いを向けている。黙っていれば会話が止まる。
三秒、考えた。
「両方です」
侯爵の眉が片方だけ上がった。右眉。左は動かない。古い刀傷が左眉の上にあった。筋肉が切れているのかもしれない。
「正直な男だな。嘘をつけと言われなかったか」
「言われていません」
「そうだろうな。あの子は嘘を嫌う。自分がつくのは平気だが」
侯爵が笑った。声に出して。喉の奥から出る、短い笑いだった。
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侯爵はそこから長く話した。
東部交易路の歴史。トーンウォル家が三代にわたって整備してきた街道と宿場。通行税の仕組み。それが領民の生活とどう結びついているか。
私は聞いた。
殿下の助言に従ったというより、聞くしかない。侯爵の話は横道に逸れ、戻り、また逸れた。交易路の話をしていたはずが、いつの間にか三十年前の干ばつの話になっていた。そこから領民の嘆願書の束の話になり、侯爵自身が若い頃に馬で領地を回った話になった。
一時間が経っていた。侯爵がようやく膝を叩いて、こちらを見た。
「——で、本題は何だ」
私は懐から紙を取り出した。ベルガ峠で写し取った書状の写し。
侯爵の手に渡した。
侯爵は紙を広げた。目が動いた。左から右へ。一度。もう一度。三度目は、途中で止まった。
「通行税の半減」
侯爵の声が変わった。さっきまでの緩い調子が消えていた。紙を持つ指の関節が白くなっていた。
「レザリア王国への見返りとして、東部交易路の通行税を半分にする。そう書いてある」
「はい」
「第一王女が決めたのか」
「書状の差出人は宰相府です。ただ、第一王女の指示であることは間違いありません」
侯爵は紙を机に置いた。置いたというより、指先で押しつけた。紙の端が破れた。
沈黙が落ちた。屋敷の外で、犬が一声だけ吠えた。すぐに静かになった。
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「おまえは知っているか」
侯爵が口を開いた。声は低く、ゆっくりだった。
「通行税が半分になると、何が起こるか」
「侯爵の収入の三割が削られます」
「収入の話ではない」
侯爵が立ち上がった。椅子が鳴った。窓際まで歩き、外を見た。背中が広かった。
「街道の維持ができなくなる。宿場が閉まる。宿場が閉まれば商人が来なくなる。商人が来なければ、領民の市場が死ぬ。東部の三つの町が干上がる。一万二千人だ」
振り向いた。目が据わっていた。
「金の問題ではない。人の問題だ」
私は侯爵の目を見ていた。
怒りがあった。だがその奥に、別のものが見えた。侯爵の視線は窓の外——領地の方角を向いていた。一万二千人と数字を言ったとき、侯爵の声はわずかに詰まっていた。暗記した数ではない。数えた数だ。
「殿下は——」私は言葉を選んだ。「この書状を侯爵にお見せするよう、私に命じました。通行税の半減を止めるには、第一王女が王位につくことを阻む必要がある。そのために殿下は侯爵のお力を借りたいと」
侯爵は窓際に立ったまま、しばらく黙っていた。
「エリスは昔からそうだ。正しいことを言う。正しいから断れない。断れないように言う」
侯爵の口元がかすかに歪んだ。笑いではない。
「リーゼルと同じだ。あの母にして、この子。——おまえ」
「はい」
「おまえはどう思う。私が動くと思うか」
殿下ならここで正解を言うだろう。政治的な利害を並べ、侯爵が動くしかない理由を三つ挙げるだろう。
私にはそれができない。二十年間、剣を持ってきた。言葉で人を動かす訓練は受けていない。
「分かりません」
侯爵の眉が動いた。今度は両方。
「分からない?」
「侯爵がどう判断されるかは、私には読めません。ただ——一万二千人と仰ったとき、侯爵の声が変わりました。それだけは見ました」
部屋が静まった。
侯爵が私を見つめていた。長い間。顔の筋肉が動かない。読めない顔だ。
やがて侯爵は息を吐いた。鼻から。短く。
「おまえ、本当に護衛騎士か。口説くのが下手すぎる」
「自覚はあります」
「……ふん」
侯爵が窓を離れ、机に戻った。書状の写しを手に取り、もう一度読んだ。今度はゆっくりと。指が文面の上を一行ずつたどった。
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「三日、くれ」
侯爵が言った。
「三日ですか」
「考える時間だ。この紙は預かる。おまえは宿場で待て」
私は立ち上がった。三日は長い。殿下との約束は五日で戻ること。ここで三日待てば、帰路を含めて八日になる。
「侯爵。殿下には三十日しかありません」
「知っている」
侯爵の目が鋭くなった。
「三十日しかないことも、第一王女がレザリアに何を約束したかも、バルノー辺境伯が北で動き始めていることも——私の耳に入っていないと思ったか」
背筋に冷たいものが走った。知っている。全て知っている。では、なぜ三日も——
「知っていて、なお三日と仰るのですか」
侯爵は答えず、門の方に顎をしゃくった。
「犬を見たか。門の前の二頭」
「牧羊犬でした」
「そうだ。猟犬は足が速い。だが、群れを守れない。牧羊犬は遅い。だが、群れを見る」
侯爵が私を見た。
「三日待て。それが答えだ」
私は一礼して、応接間を出た。
廊下を歩きながら考えた。侯爵は全てを知っていた。書状の内容も、殿下の動きも、時間の制約も。にもかかわらず三日と言った。
門を出ると、牧羊犬が二頭とも伏せている。私が通っても顔を上げない。
宿場への道を歩きながら、殿下の言葉を思い出していた。「最初の一時間は黙って聞いてください」——侯爵は一時間話した後、こちらの話も聞いた。怒りも見せた。だが最後に三日と言った。
信頼できるかどうか。
まだ分からない。ただ、一万二千人と言ったときの声と、牧羊犬の話をしたときの目が、同じだったことは覚えている。
三日後、侯爵が何を言うか。それを見届けるまでは、判断を保留する。
殿下に伝えるべきことは、まだ揃っていない。




