第五話 傍受された書状
三日後の夜、情報が届いた。
クレイス男爵の連絡網を通じて、一通の薄い紙が私の手に渡った。バルノー辺境伯の兵が、ベルガ峠の手前で書状を写し取ったという報告だった。
原本には触れていない。写しだけを取り、書状はそのまま通した。
「止めなかったのですか」
「止めれば、第一王女側に気づかれます。知っていることを悟らせない方が——」
「有利、ですね」
殿下は私の手から紙を受け取った。広げて、読んだ。
蝋燭の炎が一度だけ傾いた。殿下の息が変わったのだと、私は思った。
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書状の内容は、こうだった。
第一王女は隣国レザリア王国に「王位継承の承認」を求めていた。承認の見返りとして、東部交易路の通行税を半減する、と。
「通行税の半減」
殿下の声が、薄く硬くなった。聞き慣れた声だ。感情を奥に押し込むとき、殿下の声はこうなる。
「東部交易路は、トーンウォル侯爵の領地を通っています」
「ええ。侯爵の収入の三割は、あの交易路の通行税です」
つまり第一王女は、トーンウォル侯爵の首を絞めようとしている。侯爵が殿下側につくなら、外から収入源を断つ。
同時に——隣国に承認を求めたということは、第一王女は国内だけで片をつける気がない。
「外を引き込むのですか」
「姉上は徹底する人です」
殿下は紙を机に置いた。指で端を押さえたまま、地図に目を落とした。
「六十日と言いました。撤回します」
「——短くなる」
「三十日」
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三十日。半分になった。
バルノー辺境伯の兵を動かすには準備がいる。トーンウォル侯爵の交易路封鎖には商人への根回しがいる。クレイス男爵の情報網は速いが、人の足には限りがある。
「間に合うのですか」
「間に合わせます」
殿下の指が、地図の上を滑った。北の辺境、東の交易路、王都の中心。三つの点を順に押さえた。
「バルノー辺境伯には、兵を南下させる準備を始めてもらいます。まだ動かさない。準備だけ」
指が東に止まった。
「トーンウォル侯爵には——直接会って話す必要があります」
「男爵の情報網では」
「足りません。侯爵は通行税の話を聞けば動揺する。動揺した人間を説得するには、文ではなく、顔が要る」
殿下が私を見た。
「行ってもらえますか」
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東部までは馬で五日。往復で十日。三十日のうち三分の一を使う。
その間、殿下は一人になる。
「殿下」
「なんですか」
「私が十日離れる間、殿下の護衛は」
「必要ありません。この隠れ家は——」
「そういう話ではありません」
殿下の言葉を、遮った。
二十年間で初めてだった。殿下の目が広くなった。蝋燭の炎が二人の間で揺れた。
「殿下は三日間、眠れていない」
「……なぜ分かるのですか」
「目の下に影が出ています。それと——地図を見る順番が変わった。疲れていない殿下は、北から順に見ます。今は、目についた場所を押さえている」
殿下が唇を引き結んだ。顎が上がった。
「護衛騎士の仕事ではないでしょう」
「護衛騎士の仕事です。守る相手が倒れたら、計画ごと終わる」
部屋が沈黙に満ちた。蝋燭の芯が小さく弾けた。
「……母上の手帳に、何か書いてありましたか。私について」
「——誰かに頼むことを覚えなさい、と」
殿下の指が、地図の上で止まった。東を押さえたまま、長い間そこに留まっていた。
やがて殿下は、小さく息を吐いた。喉の奥で、かすかに音がした。
「五日。侯爵のところへ行って、五日で戻ってください。残りの二十五日で、全てを動かします」
「分かりました」
「それと——ランドルフ」
「はい」
「……眠れていないのは、事実です」
殿下は地図から手を離した。椅子を引いて、座った。二十年間、殿下は部下の前で座ることを避けていた。背もたれに身を預けたのを見るのは、初めてだった。
「今夜は少し——休みます」
私は頷いた。
蝋燭を一本消した。残った一本の灯りの中で、殿下が目を閉じた。
私は壁に背をつけたまま、部屋の入口に立った。二十年間と同じ姿勢だ。
だが中身が変わっていた。守ることと、支えること。似ているが、違う。二十年間は守っていた。殿下の周りに壁を作って、何も通さないことが仕事だった。今は——壁の内側にいる。殿下が倒れそうになったときに、手を出す側にいる。
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翌朝、私は東へ発った。
殿下は見送りに出た。扉の前に立ち、腕を組んで私を見ていた。
「侯爵は癖のある人です。最初の一時間は黙って聞いてください。相手が話し終える前に口を開くと、交渉が壊れます」
「分かりました」
「それと——侯爵の屋敷に着く前に、街道沿いの宿場で一晩休んでください。疲れた顔で交渉に臨まないように」
私は殿下を見た。
「殿下に言われるとは思いませんでした」
殿下が、ほんの一瞬、口の端を動かした。笑おうとして、途中で止めたような動きだった。
「……早く行きなさい」
私は一礼して、歩き出した。
朝の空気が冷たかった。王都の裏路地を抜け、東門に向かう道に出た。靴の底に石畳の硬さを感じながら、足を速めた。
背後で、扉が閉まる音がした。
振り返らない。確かめる必要はない。
二十年間で学んだことがある。殿下は見送るとき、必ず扉が完全に閉まるまで立っている。閉まった後も、しばらくそこにいる。
それを知っているから、前だけを見て歩いた。
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東門を出ると、街道が朝靄の中に伸びていた。荷馬車が二台、前方をゆっくり進んでいた。商人だろう。東部との交易品を積んでいる。
この交易路が止まれば、王都の市場は一月で干上がる。トーンウォル侯爵が握っているのは、金ではない。王都の食卓だ。
第一王女はそれを、隣国の手で奪おうとしている。
歩きながら、侯爵への説得を組み立てた。殿下が言った通り、まず一時間は聞く。侯爵が何を恐れ、何を欲しているかを掴む。それから——書状の写しを見せる。
通行税の半減。侯爵の収入が三割減る。それだけで十分な動機になるはずだ。
二日目の午後、街道が丘に差しかかった。振り返ると、王都の城壁が霞の向こうにかすかに見えた。
殿下は、あの中にいる。
一人で。
歩みを速めた。五日で戻ると約束した。四日で着いて、一日で話をつける。残りはない。
足の裏が痛み始めていた。構わず歩いた。三十日の中の十日を、一日でも削れるなら。
四日目の夕方、トーンウォル侯爵の領地に入った。街道沿いに大きな宿場町があった。殿下の言葉を思い出して、一晩泊まることにした。
宿の部屋で天井を見上げた。隣の王都の安宿とは違い、壁は厚く、隣室の物音は聞こえない。
静かすぎて、かえって目が冴えた。殿下の隠れ家では、いつも蝋燭の芯が弾ける音がしていた。紙が擦れる音。殿下が地図を指でなぞる、かすかな音。
明日、侯爵に会う。話を聞き、書状を見せ、盟約への参加を確認する。
殿下に言われた通りにする——だけではない。
殿下が口にしていないことも、やる。侯爵の表情を見て、声を聞いて、この人間が本当に信じられるかどうかを、自分の目で確かめる。
それが、今の私の仕事だ。




