第四話 六十日
扉を閉めると、蝋の焦げた匂いがした。
窓のない小部屋。燭台が一本、炎が揺れていた。殿下が机の前に立っていた。地図は片付けられていた。代わりに、紙が一枚あった。
「座ってください」
椅子は一脚だった。殿下が立ったまま話し始めるつもりなのが分かった。
椅子には座らない。壁に背をつけて立った。
「座れと言いました」
「立ったまま聞けます」
殿下が一瞬止まった。炎が揺れた。壁に背をつけたまま動かない。
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第一王女派の動きは、予想より早かった。
宰相は三日前、近衛騎士団長と非公式に会食をした。場所は王都の外れの料亭で、記録には残らない。だがクレイス男爵の情報網が拾っていた。
「二人が動いたということは、陛下も知っているということですか」
「おそらく」
「おそらく、というのは」
「陛下は知っていて、動かないということです」
間を置いた。それが「承認」なのか「黙認」なのかで、意味が変わる。
「黙認でも承認でも、結果は同じでしょう。第一王女が玉座につく」
「結果は同じです。だが速度が変わります」
殿下は地図を広げた。さっきまで片付けてあったものを、また取り出した。
「宰相と騎士団長が動いたのは先週です。地方貴族の工作は来月頭に完了する見込み。第一王女が正式に動くのは、早ければ再来月」
「二ヶ月」
「六十日」
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六十日というのは短い。だが全く何もないわけでもない。
バルノー辺境伯は北部に五千の兵を持つ。トーンウォル侯爵は東部の交易路を握る。クレイス男爵の情報網が王都の内部を動く。
問題は、動かすための合図だ。
「誰が、いつ動かすか決めるのですか」
「私が」
私は殿下の目を見た。殿下は地図に視線を落としていた。
「殿下が決めるとして——その情報はどうやって各所に届くのですか」
殿下が私を見た。
「あなたが届けます」
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罪人の護衛騎士として、私は王都内を自由に動ける。
不思議なことに、手配されていても、誰も止めない。見つかれば騒ぎになる。だがそれを恐れて誰も近づかない。逃亡中の罪人という立場は、ある意味では身分証のようなものだった。
「近衛の中に、一人います」
殿下が声を落とした。
「名前は言えません。ただ、接触方法があります」
紙を渡された。文字が一行。場所と時刻だった。
「明後日の夜、この場所に行ってください」
「何を持っていけばいいですか」
「何も。あなたが来れば、相手は分かります」
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翌日、私は宿にいた。
殿下の隠れ家の近くの安宿だった。隣室の話し声が壁越しに聞こえる。夜明けに目が覚め、天井の染みを数えた。
三日前まで、私は逃げていた。追われていた。
今は、待っている。
違いはそれだけだが、重さが変わった。逃げるのは受動的だ。体が動く。考えは追いつかない。待つのは能動的だ。動かない分、考えが止まらない。
殿下が「判断を任せる」と言ったことを、今も考えている。
母上の手帳を読んで、私に任せると言った。もし私が男爵に取り込まれて、殿下と敵対していたら——どうするつもりだったのか。
おそらく、受け入れるつもりだったのだろう。
それが殿下の言う「誰かに頼む」ということなのか、と思った。頼む相手を信じて、結果も受け入れる。
計算で動く人間のすることではない、と思った。
だが——殿下はずっとそういう人間だったのかもしれない。計算の中に、震えを隠して。
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明後日の夜、私は指定された場所に行った。王都の南区、石造りの橋の下だった。
先に人がいた。頭巾をかぶった男だった。近衛の制服の色が、裾からかすかに見えた。
「ランドルフ・ヴェーン」
「そうです」
男は頭巾の奥から私を見た。視線が一瞬、私の腰の剣に触れて戻った。
「伝言があります」と男は言った。「来週、宰相が動きます。文書が一通、東の国境を越えます」
「内容は」
「分かりません。ただ——殿下に届けてください。私に出来るのはそこまでです」
男はすぐに立ち去った。私は橋の下にしばらく立っていた。
水が流れていた。王都の川は夜でも匂いがする。泥と、鉄と、どこかの台所の残り。
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殿下に伝えた。
殿下はしばらく黙って聞いていた。
「東の国境、というのは」
「ベルガ峠を越えるルートだと思います。隣国への書状でしょう」
「内容が分からなければ意味がない」
「分かりません。男は出所だけを掴んでいた」
殿下が目を閉じた。二秒、三秒。目を開けたとき、指が地図の東を押さえていた。
「バルノー辺境伯に連絡します。書状を止められるかどうか、確認を」
「私が行きますか」
「いいえ。男爵の情報網を使います。あなたは今日、ここにいてください」
久しぶりに聞く声だった。肩の力が抜けた。
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夜、殿下は長い間、地図を見ていた。私は部屋の隅に座っていた。
「ランドルフ」
「はい」
「疲れましたか」
地図から目を離さないまま、殿下が言った。
「いいえ」
「そうですか」
殿下はまた地図に向かった。
疲れましたか。殿下は私に聞いたのか、それとも自分に言ったのか。
間を置いた。
二十年間、守ることだけを考えていた。今は、守ることと、動かすことが、同時に存在している。それが重いのか軽いのか、まだ分からない。
ただ——殿下の横顔を見ながら、思った。
あの手が震えていたことを、私はまだ覚えている。計算の中の、震え。
それを見続けることが、私の仕事なのかもしれない。




