表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/16

第三話 手帳の記録



 夜明け前に目が覚めた。


 手帳は枕元に置いたままだった。


 男爵は「明日の朝に読め」と言った。だが眠れない。薄い月明かりの中で天井を見上げながら、手帳の革表紙を何度も指で撫でた。百合の花の刻印。小さく、古い。


 殿下の手が震えていたことを、ずっと考えていた。


 二十年間で三度だけ、殿下は目をそらした。一度目は侍女に笑われたとき。二度目は私を牢に送ったとき。三度目が——あの夜だった。


 何かを隠している殿下は、いつも視線をそらす。


---


 東の空が白み始めた頃、私は手帳を開いた。


 文字は細く、几帳面だった。インクの色が薄い部分と濃い部分がある。書かれた時期が違う。何年もかけて書き続けた手帳だ。


 最初の数ページは、エリスの幼い頃の記録だった。初めて歩いた日。初めて本を読んだ日。小さな怪我をして泣いた夜。


 読み進めながら、私は気づいた。


 殿下の母上は、記録者だった。


 感情ではなく、事実を書く人だった。喜びや悲しみではなく、出来事と、その理由と、次に何をすべきかを書く。殿下と同じ書き方だった。


 十年分ほど読んだところで——日付が飛んでいた。


 七年間の空白。


 その後のページから、筆圧が変わっていた。文字が細くなり、行間が詰まっていた。


---


*第一王女の動きが本格化した。陛下はすでにその意を汲んでいる。エリスは邪魔になった。*


*私ではない。エリスが、だ。*


 私は手を止めた。


 部屋が静かだった。外で鳥が一羽鳴き、また沈黙が戻った。


 続きを読んだ。


*陛下から打診があった。エリスを王都から「出す」ことで合意を得られる、と。「出す」の意味は理解している。エリスはまだ十歳だ。まだ十歳なのに。*


*私には二つの選択肢がある。*


*一つは、エリスを連れて逃げること。だが追われる。どこまで逃げられるかは分からない。エリスを連れて走り続けることが、本当にあの子を守ることになるのか。*


*もう一つは——私が消えること。*


 手帳の文字が、わずかに乱れ始めていた。それでも、母上は書き続けていた。几帳面な文字が震えている。


*私が死ねば、陛下の目的は一時的に果たされる。エリスへの矛先が、少なくとも数年は収まる。その間に、エリスが自分で生き延びる力をつければ。*


*あの子は賢い。私よりも賢い。だから、できると思う。*


*できると、信じる。*


---


 次のページに、クレイス男爵の名前が出てきた。


*男爵に全てを預けた。この手帳と、情報網の引き継ぎと、エリスへの伝言を。*


*エリスがいつかここに来ることを、男爵は信じていると言った。来るとしたら、エリス本人か、エリスが最も信頼する人間だろう、と。*


*どちらでもいい。あの子が選んだ人間なら、信じられる。*


---


 ページが変わった。


 そこだけ、文体が変わっていた。


 記録の文章ではない。


*エリスへ。*


*あなたが読んでいるということは、あなたは生き延びた。*


*それで十分です。*


*私があなたに残せるものは少ない。ただひとつ言えることがあるとすれば——あなたが誰かを信じることを、恐れないでほしい。*


*私の失敗は、陛下を信じすぎたことでも、第一王女を軽んじたことでもない。あなたに早く教えすぎたことです。あなたはまだ幼いのに、すでに一人で背負おうとしていた。宮廷の駆け引きを、権力の地図を、敵と味方の見分け方を。教えながら、私は間違えていた。*


*誰かに頼むことを、覚えなさい。*


*あなたが賢いことは知っている。一人でできることも知っている。でも、一人でしなくていいことがある。それを分かってほしかった。*


---


 そこで手帳は終わっていた。


 私は手帳を閉じた。


 夜が完全に明けていた。窓の外で、鳥が鳴いていた。


 扉が開いて、クレイス男爵が入ってきた。茶を二つ持っていた。


「読んだか」


「はい」


 男爵は茶を置き、椅子に座った。私の顔を見て、顎を引いた。待っていた。


「殿下は、この手帳の内容を知っていたのですか」


「知っている。十二年前、私が教えた。十三歳のときだ」


 十三歳。殿下が私を護衛として選んだのが、十四歳のときだ。


「……一年後に、殿下は私を選んだ」


「そうだ」男爵は静かに言った。「あの子は一年かけて、あなたを観察した。信じられるかどうかを、ずっと見ていた。そして——選んだ」


 胸の奥で、二十年分の記憶が並び直していた。


 殿下は私を使っていたのではない。母上の言葉を守ろうとしていた。一人で背負わないために、誰かを選ぼうとしていた。


 だが——それでも殿下は、私を売った。


「男爵。殿下がなぜ私を売ったか、あなたは知っていますか」


 男爵が間を置いた。目が細くなった。


「……推測はできる。だが、それは本人に聞け」


「分かりました」


 私は立ち上がった。


「盟約の件、受けます。殿下に伝えてください——手帳を読んだ、と。それだけで分かるはずです」


 男爵が頷いた。


「それだけか。何も変わらないのか」


「変わりますよ」


 私は男爵の目を見た。


「二十年間は、私が殿下を守っていると思っていた。だが——どうやら最初から、殿下も私を守ろうとしていたようです。それが分かった分だけ、変わります」


 男爵が、ゆっくりと笑った。首を振りながら、口元をほころばせた。


「あの子が選ぶだけのことはある」


---


 屋敷を出て、王都への道を引き返した。


 手帳は男爵に預けた。殿下のものだから、殿下に返すべきだと言ったら、男爵は「そうしろ」と言った。


 道を歩きながら、考えた。


 殿下は私を売った。おそらく、守るために。罪人にすることで、第一王女派から切り離した。


 そして今、売られた私を使って、計画を動かそうとしている。


 合理的だ。あまりに合理的で、少し腹が立つ。


 だが——殿下の手が震えていたことも、私は知っている。


 計算の中に、震えがあった。


 足が軽い。


 三日後、私は王都に戻った。殿下の隠れ家の扉を三度叩く。決められた合図だ。


 間があって、扉が開いた。


 殿下が私を見た。


 何かを確認するように、一瞬だけ目を細めた。


「……戻ったのですか」


「はい。盟約の件、まとめてきました」


 殿下は黙って扉を開けた。私は中に入った。


 部屋の明かりの下で、殿下の顔を見た。疲れていた。三日間、眠れていないかもしれない。


「殿下」


「なんですか」


「手帳を読みました」


 殿下の肩が、かすかに動いた。


「そうですか」


「はい。——次は、何をすればいいですか」


 殿下が私を見た。長い沈黙があった。


 やがて殿下は、静かに言った。


「……続きを、話します」


 だがその声には、三日前とは違う何かがあった。


 震えではなく——軽くなったような何かが。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ