第三話 手帳の記録
夜明け前に目が覚めた。
手帳は枕元に置いたままだった。
男爵は「明日の朝に読め」と言った。だが眠れない。薄い月明かりの中で天井を見上げながら、手帳の革表紙を何度も指で撫でた。百合の花の刻印。小さく、古い。
殿下の手が震えていたことを、ずっと考えていた。
二十年間で三度だけ、殿下は目をそらした。一度目は侍女に笑われたとき。二度目は私を牢に送ったとき。三度目が——あの夜だった。
何かを隠している殿下は、いつも視線をそらす。
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東の空が白み始めた頃、私は手帳を開いた。
文字は細く、几帳面だった。インクの色が薄い部分と濃い部分がある。書かれた時期が違う。何年もかけて書き続けた手帳だ。
最初の数ページは、エリスの幼い頃の記録だった。初めて歩いた日。初めて本を読んだ日。小さな怪我をして泣いた夜。
読み進めながら、私は気づいた。
殿下の母上は、記録者だった。
感情ではなく、事実を書く人だった。喜びや悲しみではなく、出来事と、その理由と、次に何をすべきかを書く。殿下と同じ書き方だった。
十年分ほど読んだところで——日付が飛んでいた。
七年間の空白。
その後のページから、筆圧が変わっていた。文字が細くなり、行間が詰まっていた。
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*第一王女の動きが本格化した。陛下はすでにその意を汲んでいる。エリスは邪魔になった。*
*私ではない。エリスが、だ。*
私は手を止めた。
部屋が静かだった。外で鳥が一羽鳴き、また沈黙が戻った。
続きを読んだ。
*陛下から打診があった。エリスを王都から「出す」ことで合意を得られる、と。「出す」の意味は理解している。エリスはまだ十歳だ。まだ十歳なのに。*
*私には二つの選択肢がある。*
*一つは、エリスを連れて逃げること。だが追われる。どこまで逃げられるかは分からない。エリスを連れて走り続けることが、本当にあの子を守ることになるのか。*
*もう一つは——私が消えること。*
手帳の文字が、わずかに乱れ始めていた。それでも、母上は書き続けていた。几帳面な文字が震えている。
*私が死ねば、陛下の目的は一時的に果たされる。エリスへの矛先が、少なくとも数年は収まる。その間に、エリスが自分で生き延びる力をつければ。*
*あの子は賢い。私よりも賢い。だから、できると思う。*
*できると、信じる。*
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次のページに、クレイス男爵の名前が出てきた。
*男爵に全てを預けた。この手帳と、情報網の引き継ぎと、エリスへの伝言を。*
*エリスがいつかここに来ることを、男爵は信じていると言った。来るとしたら、エリス本人か、エリスが最も信頼する人間だろう、と。*
*どちらでもいい。あの子が選んだ人間なら、信じられる。*
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ページが変わった。
そこだけ、文体が変わっていた。
記録の文章ではない。
*エリスへ。*
*あなたが読んでいるということは、あなたは生き延びた。*
*それで十分です。*
*私があなたに残せるものは少ない。ただひとつ言えることがあるとすれば——あなたが誰かを信じることを、恐れないでほしい。*
*私の失敗は、陛下を信じすぎたことでも、第一王女を軽んじたことでもない。あなたに早く教えすぎたことです。あなたはまだ幼いのに、すでに一人で背負おうとしていた。宮廷の駆け引きを、権力の地図を、敵と味方の見分け方を。教えながら、私は間違えていた。*
*誰かに頼むことを、覚えなさい。*
*あなたが賢いことは知っている。一人でできることも知っている。でも、一人でしなくていいことがある。それを分かってほしかった。*
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そこで手帳は終わっていた。
私は手帳を閉じた。
夜が完全に明けていた。窓の外で、鳥が鳴いていた。
扉が開いて、クレイス男爵が入ってきた。茶を二つ持っていた。
「読んだか」
「はい」
男爵は茶を置き、椅子に座った。私の顔を見て、顎を引いた。待っていた。
「殿下は、この手帳の内容を知っていたのですか」
「知っている。十二年前、私が教えた。十三歳のときだ」
十三歳。殿下が私を護衛として選んだのが、十四歳のときだ。
「……一年後に、殿下は私を選んだ」
「そうだ」男爵は静かに言った。「あの子は一年かけて、あなたを観察した。信じられるかどうかを、ずっと見ていた。そして——選んだ」
胸の奥で、二十年分の記憶が並び直していた。
殿下は私を使っていたのではない。母上の言葉を守ろうとしていた。一人で背負わないために、誰かを選ぼうとしていた。
だが——それでも殿下は、私を売った。
「男爵。殿下がなぜ私を売ったか、あなたは知っていますか」
男爵が間を置いた。目が細くなった。
「……推測はできる。だが、それは本人に聞け」
「分かりました」
私は立ち上がった。
「盟約の件、受けます。殿下に伝えてください——手帳を読んだ、と。それだけで分かるはずです」
男爵が頷いた。
「それだけか。何も変わらないのか」
「変わりますよ」
私は男爵の目を見た。
「二十年間は、私が殿下を守っていると思っていた。だが——どうやら最初から、殿下も私を守ろうとしていたようです。それが分かった分だけ、変わります」
男爵が、ゆっくりと笑った。首を振りながら、口元をほころばせた。
「あの子が選ぶだけのことはある」
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屋敷を出て、王都への道を引き返した。
手帳は男爵に預けた。殿下のものだから、殿下に返すべきだと言ったら、男爵は「そうしろ」と言った。
道を歩きながら、考えた。
殿下は私を売った。おそらく、守るために。罪人にすることで、第一王女派から切り離した。
そして今、売られた私を使って、計画を動かそうとしている。
合理的だ。あまりに合理的で、少し腹が立つ。
だが——殿下の手が震えていたことも、私は知っている。
計算の中に、震えがあった。
足が軽い。
三日後、私は王都に戻った。殿下の隠れ家の扉を三度叩く。決められた合図だ。
間があって、扉が開いた。
殿下が私を見た。
何かを確認するように、一瞬だけ目を細めた。
「……戻ったのですか」
「はい。盟約の件、まとめてきました」
殿下は黙って扉を開けた。私は中に入った。
部屋の明かりの下で、殿下の顔を見た。疲れていた。三日間、眠れていないかもしれない。
「殿下」
「なんですか」
「手帳を読みました」
殿下の肩が、かすかに動いた。
「そうですか」
「はい。——次は、何をすればいいですか」
殿下が私を見た。長い沈黙があった。
やがて殿下は、静かに言った。
「……続きを、話します」
だがその声には、三日前とは違う何かがあった。
震えではなく——軽くなったような何かが。




