第二話 三つの封蝋
三つの封蝋を、私は順に確認した。
鷲の紋章。北部辺境伯バルノー家。
天秤の紋章。東部侯爵トーンウォル家。
蛇の紋章。これだけは、知らなかった。
「三つ目は?」
「クレイス男爵家です」
聞いたことのない名だった。殿下が二十年間、隠し続けた名前。それだけで、この男爵家が殿下にとってどういう存在かが分かった。
切り札だ。
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殿下は机の上に地図を広げた。
「第一王女は、三ヶ月以内に父上を退位させます」
殿下の声は平らだった。地図を指でなぞりながら、視線を上げない。
「宰相と近衛騎士団長が既に第一王女側についています。残る障害は、地方貴族の支持だけ。それも——先月の税制改正で、半数以上が第一王女に傾きました」
「殿下はそれを、いつから知っていましたか」
「一年前から」
一年。私が殿下の隣にいた、あの一年間。殿下は毎日の護衛の間、この計画を進めていた。
「……なぜ、教えなかったのですか」
「あなたに嘘をつかせたくなかった」
私は黙った。殿下の判断だった。
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計画の全体像は、こうだった。
バルノー辺境伯は北部に五千の兵を持つ。トーンウォル侯爵は東部の交易路を握り、王都への物資を止められる。そしてクレイス男爵は——
「情報網です」殿下は言った。「王都の地下に、百年かけて作られた連絡網がある。宮廷の中にも、軍にも、商人組合にも。クレイス男爵家だけが、その全てを動かせる」
「百年」
「表の歴史には出てこない家です。だからこそ、価値がある」
三家の盟約。軍事、経済、情報。第一王女に対抗するための、三本の柱。
だが、盟約はまだ成立していなかった。
「バルノー辺境伯とトーンウォル侯爵は、条件付きで合意しています。問題はクレイス男爵です」
「条件は?」
「直接会って話すこと。代理は認めない、と」
「殿下が行くのですか」
「いいえ。——あなたが行くのです」
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私は殿下を見た。
「私が売られた護衛騎士だから、ですか」
「そうです」
殿下は淡々と続けた。
「あなたは今、王国の記録上では逃亡した罪人です。第一王女派は追手を出しているでしょう。だが——それは同時に、あなたが私から完全に切り離されたことを意味する」
「私が動いても、殿下には繋がらない」
「ええ。だからあなたにしか、頼めない」
筋は通っている。だが殿下の指先が、書類の端を折り曲げていた。
「殿下。クレイス男爵は、なぜ殿下ではなく、私との面会を求めたのですか」
殿下の手が止まった。
一瞬だった。すぐに動きを再開し、書類の一つを私に差し出した。だが私はその間を見ていた。
「……男爵から指名があったわけではありません。私が、あなたを送ると決めました」
「理由は」
「男爵の求める条件は『信頼に足る人物との直接対話』です。私よりも——あなたの方が、その条件に合う」
殿下が視線をそらした。二十年間で、殿下が視線をそらしたのは三度目だった。
一度目は、侍女が殿下の不注意を笑ったとき。
二度目は、私を牢に送ったとき。
三度目が、今だ。
三度とも、殿下は何かを隠していた。
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書類には、クレイス男爵家の所在地と、接触の手順が書かれていた。
王都から東へ三日。ヴァーレン街道を外れ、旧街道沿いの村。村の奥の森の中に、男爵家の屋敷がある。
接触方法は単純だった。屋敷の門前に立ち、名を名乗る。それだけ。
「門番はいません。ですが、あなたが近づけば向こうが気づきます。情報網とは、そういうものです」
私は頷いた。
「出発は?」
「今夜」
「分かりました」
立ち上がりかけて——殿下が、私の腕を掴んだ。
殿下が自分から人に触れるのは、初めてだった。
「ランドルフ」
「はい」
「……男爵は、おそらくあなたに取引を持ちかけます」
「取引?」
「私に関する、何かを」
殿下の手が、わずかに震えていた。
「何を言われても——判断は、あなたに任せます」
それは、二十年間で初めて聞く言葉だった。
殿下は常に指示を出す側だった。「任せる」という言葉を、殿下の口から聞いたことがない。
私は殿下の手を見た。細い指。二十年前と変わらない手。だが——震えは、二十年前にはなかった。
「……分かりました」
私はそれだけ言って、夜の中に出た。
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東への道を歩きながら、考えた。
殿下は何を隠しているのか。
クレイス男爵は、何を知っているのか。
そして——殿下が「判断を任せる」と言ったのは、なぜか。
私に任せたのか。それとも、自分では判断できないことがあるのか。
夜道は静かだった。月が薄い雲の向こうに隠れ、街道に響くのは私の足音だけだった。
二日目の朝、ヴァーレン街道の検問所が見えた。
王国軍の旗が立っている。通常は二人の兵が立つだけの小さな検問所だが——今日は六人いた。そのうち二人は、近衛の制服を着ていた。
私の手配は、既に回っている。
街道を外れた。獣道を通り、丘の裏を回った。半日分の遠回りになったが、やむを得ない。
三日目の夕方、旧街道沿いの村に着いた。
村と呼ぶには小さすぎる集落だった。家が五軒、井戸が一つ、教会の跡地が一つ。人の気配はあるが、戸は全て閉ざされていた。
だが、見られている。
それは確信だった。護衛騎士として二十年間培った感覚だ。木々の隙間から、屋根の影から、複数の視線が私を追っている。
殿下の言葉を思い出した。情報網とは、そういうものだと。
村の奥に細い道があった。森に入り、十分ほど歩くと、石造りの門が見えた。苔に覆われ、古い。だが門扉の蝶番だけは新しい油が塗られていた。使われている門だ。
私は門の前に立った。
「ランドルフ・ヴェーン。エリス殿下の——」
言いかけて、止めた。
私は今、殿下の護衛騎士ではない。売られた元護衛だ。
「……ランドルフ・ヴェーン。エリス殿下に売られた男です」
沈黙が続いた。風が木々を揺らした。
やがて——門がゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、白髪の老人だった。小柄で、杖をついていた。目だけが異様に鋭かった。殿下の目に似ている、と思った。計算の目だ。
「売られた男、か」
老人は笑った。
「面白い名乗りだ。——入りなさい」
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屋敷の中は質素だった。
応接間に通された。茶が出た。老人——クレイス男爵は私の向かいに座り、茶碗を両手で包んだまま、私を見ていた。
私も黙って待った。
五分ほどして、男爵が口を開いた。
「エリス殿下のことは、よく知っている。あの子の母親と、私は古い知り合いでね」
あの子。殿下を「あの子」と呼ぶ人間を、私は初めて見た。
「殿下の母上は——」
「十五年前に亡くなった。それは知っているだろう。だが、なぜ亡くなったかは知っているかね」
私は首を振った。病死と聞いていた。
男爵は茶を一口飲んだ。
「病死ではない」
部屋の空気が変わった。
「……第一王女派に殺されたのですか」
「いいや」男爵は首を振った。「もっと複雑で、もっと——エリス殿下にとって、残酷な話だ」
男爵は立ち上がり、棚から一冊の古い手帳を取り出した。革表紙に、小さな百合の花が刻まれていた。
「これを読めば分かる。だが、読む前にひとつ聞く」
男爵の目が、私を射貫いた。
「読んだ後も、あなたはエリス殿下の味方でいられるかね」
殿下の言葉が蘇った。
——何を言われても、判断は、あなたに任せます。
殿下は、これを知っていた。この手帳のことを。読めば、私が殿下から離れるかもしれないことを。
だから「判断を任せる」と言った。
私は手帳を受け取った。
「読みます」
男爵が頷いた。
「……覚悟はいい。だが、急ぐな。明日の朝にしなさい。今夜は休め」
男爵は立ち上がり、部屋を出ていった。
手帳の革表紙を、私は撫でた。
殿下の母上の手帳。殿下が私に隠していたもの。読めば——二十年間の前提が、変わるかもしれない。
だが、変わったところで、私がやることは変わらない気がしていた。
窓の外で、夜の森が風に揺れていた。




