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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


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第十話 渡し場の夜明け

 「起きてください」


 殿下の肩に触れる前に、目が開いた。


 暗闇の中で、殿下の瞳が光った。起き抜けの呼吸は浅く速い。だが体は動いていた。外套を掴み、荷を引き寄せ、私の顔を確認する。一連の動作に迷いがない。


「渡し場か」


「はい。月が沈みます。今が最も暗い」


 殿下が立ち上がった。膝の土を払う音。私は右腕を動かした。布の下で傷口が引き攣る。痛みはある。だが昨日より鈍い。


---


 渡し場までの道を、声を殺して歩いた。


 楢の木の間を抜け、下り斜面に入ると川音が近くなった。水が岩を叩く低い音。流れは速い。春の雪解け水が上流から注ぎ込んでいる。


 木々が途切れた。


 渡し場が見えた。川幅は十五歩ほど。対岸に丸い石が並んでいる。水面は黒く、深さが分からない。四日前に渡ったとき、最も深い場所で腰の高さだった。今は雪解けで水嵩が増しているかもしれない。


「私が先に入ります。深さを確かめたら合図を出しますので、殿下は——」


「一緒に渡ると言った」


 殿下の声は低く、平らだった。議論の余地を残さない声。


「川の中で離れれば、合流に時間がかかる。待ち伏せがいた場合、二人が別々に動くのは最悪の形だ」


 正しい。殿下の判断はいつも正しい。


「では、私の右側を歩いてください。右手で殿下の腕を掴みます」


「傷のある腕だ」


「左手には剣が要ります」


 殿下が息を吐いた。白い息が闇に溶けた。


「——分かった」


---


 水に入った。


 冷たさが足首から脛を這い上がった。川底の石は苔で滑る。一歩ごとに足の位置を確かめた。右手で殿下の左腕を掴んでいる。布越しに、殿下の体温を感じた。水に浸かった足が冷えている分、その温度が鮮明だった。


 三歩目で膝の上まで水が来た。流れが強い。体を持っていかれそうになるのを、腰を落として耐えた。殿下の体が傾く。引き寄せた。


「足元に大きな石があります。右に避けてください」


 殿下が右に足を動かした。私の言葉に従う動作が早い。信頼しているのか、考える余裕がないのか。


 五歩目。水が腰に達した。予想通り、四日前より水嵩が増していた。殿下の体が水の中で軽くなる。流されやすくなる。


 右腕に力を込めた。傷口が開く感覚があった。布の下で何かが裂ける。痛みが肘まで走った。


 掴んだ腕を離さなかった。


「レオン」


「大丈夫です」


「嘘をつくな」


 殿下の左手が、私の右手首を掴み返した。川の中で、互いの腕を握り合っている。水が二人の間を押し分けようとする。殿下の握力は細い指からは想像できない強さだった。


 七歩目。水位が下がり始めた。腰から太腿、膝。対岸の石に足がかかった。


 殿下を先に岸へ上げた。


---


 対岸に上がり、岩陰に身を隠した。


 水が外套から滴り落ちている。殿下の歯が微かに鳴っていた。三月の夜明け前、濡れた体に風が当たる。


 私は自分の外套を脱ぎ、殿下にかけた。


「いらない」


「殿下が震えたまま侯爵の前に立つのは——」


「合理的でない、と言うのだろう。おまえの外套は血で汚れている」


 右腕を見た。布を巻いた箇所から、赤い筋が手首まで伝っていた。川の水で流れきれなかった血。


 殿下が私の右腕を取った。川の中でしたのと同じ動きで。布をほどき、傷口を確かめた。唇を引き結んでいる。


「開いている」


「浅い傷——」


「昨日もそう言った。同じ嘘を二度つく人間は、信用を失う」


 殿下が荷の中から布を引き出し、傷口に巻き直した。力加減が変わっていた。昨日は丁寧だった。今日は強い。血を止めるための圧。


「……殿下は、手当てが上手くなりました」


「昨日初めてやった。一度やれば覚える」


 殿下の指が布の端を結んだ。結び目を爪で押さえ、動かないことを確かめた。


「おまえの血で覚える技術など、増やしたくはない」


---


 東の空が赤くなり始めた。


 岩陰から周囲を見渡した。渡し場の対岸——今歩いてきた側に動きはない。川音と鳥の声だけが聞こえた。


「待ち伏せはいなかったようだ」


「渡し場を避けられないことは、昨日話しました。いるなら向こう岸の茂みの中です。夜明け前に渡ったことで、視認される前に対岸に出られた」


「おまえの計算通りか」


「半分は運です」


 殿下が外套の水を絞りながら、小さく息を漏らした。笑いに似た音だった。


「正直だな」


 歩き出した。対岸から先は、ヴィルヘルム侯爵の領地に入る。街道に戻れば人の目がある。だが侯爵の領地内であれば、宰相府の検問は及ばない。


---


 朝日が木々の間から差し込み始めた頃、殿下が立ち止まった。


「レオン」


「はい」


「昨日の傭兵。片耳に傷のある男に雇われたと言った」


「はい」


「夜の間、考えていた。宰相府の人間ではない。姉の近衛でもない。——誰だ」


 私も考えていた。殿下と同じ問いを、見張りの間ずっと。


「一つだけ、可能性があります」


「言え」


「ヘルデン子爵が第一王女側に流れるなら、子爵の周辺に宰相府との仲介をしている人間がいるはずです。その人間が、独自に動いた」


「独自に——目的は何だ」


「私を捕えれば、殿下と侯爵の繋がりを証明できます。子爵がその証拠を第一王女に差し出せば——」


「手土産になる」


 殿下の足が止まった。目が遠くなった。地図を読むときの目。頭の中で駒を並べ直している。


「子爵は臆病だと侯爵が言った。臆病な人間は保険をかける。第一王女についた上で、証拠を持って行けば立場が強くなる」


「推測です。確証はありません」


「だが筋は通る」


 殿下が歩き出した。足取りが変わっていた。疲労を飲み込むように、歩幅が広くなっている。


「侯爵に会ったとき、この話をする。子爵の動きを侯爵がどう見ているか——それで、東部の情勢が分かる」


---


 昼前に、街道に合流した。


 侯爵の領地に入ると、道が整備されていた。石畳が敷かれ、轍の跡がある。荷馬車が通っている証拠だ。交易路はまだ生きている。


 街道沿いに、宿場町が見えた。煙が三本上がっている。飯屋か、鍛冶屋か。人の暮らしの気配がした。


「殿下。宿場で一度休みましょう」


「侯爵の屋敷まであと半日だ」


「濡れた外套のまま半日歩けば、殿下の体が保ちません」


 殿下が立ち止まり、私を見た。何か言いかけて、止めた。自分の外套の裾を見下ろし、水が地面に落ちるのを確かめた。


「……一刻だけだ」


---


 宿場の小さな飯屋に入った。


 竈の前に席を取り、殿下が火に手を翳した。私は入口に近い席を選んだ。外の通りが見える位置。習慣だ。


 飯屋の女将が、豆の粥と黒パンを運んできた。湯気が殿下の顔にかかり、頬に色が戻り始めた。


 殿下が粥を口に運んだ。三口目で、匙が止まった。


「レオン」


「はい」


「侯爵に会う前に、一つ決めておきたいことがある」


 匙を置いた。殿下の目は粥の表面を見ていた。


「ヘルデン子爵が動いているなら、侯爵の盟約は揺らぐ。侯爵は東部を束ねている自負がある。その足元が崩れかけている状況で——私が来たことをどう見るか」


「侯爵は殿下の味方です」


「味方でも、条件が変わる」


 殿下の指が匙の柄を回した。金属が陶器の縁に当たり、小さな音を立てた。


「侯爵が最初に出した条件は、直接会うことだった。それだけだった。だが子爵の離反を知った後なら——追加の条件を出してくる可能性がある」


「たとえば」


「東部の安定を保証しろ、と」


 殿下の声が硬くなった。


「子爵を止めるために、殿下が何かを差し出さなければならない——と」


「差し出すものはある。だが、それは三十日の計画の外にある」


 殿下が粥に目を戻した。匙を取り、一口分だけ掬った。


「私が侯爵に何を言うか——おまえは聞くだけでいい。何が起きても、口を挟むな」


「殿下」


「約束しろ。レオン」


 殿下の目がまっすぐ私を見た。川の中で手首を掴んだときと同じ力が、その視線にあった。


「……承知しました」


---


 飯屋を出た。


 外套はまだ湿っていたが、竈の熱で体は温まっていた。街道を東に歩く。日差しが高く、影が短くなっている。


 殿下が前を歩き、私が半歩後ろを行く。旧街道とは逆の配置だった。侯爵の領地に入った以上、道を知っているのは殿下の方だ。


 歩きながら、殿下の背中を見ていた。


 「何が起きても口を挟むな」と殿下は言った。侯爵との交渉で、殿下は何かを差し出すつもりでいる。三十日の計画の外にあるもの。


 殿下が持っているもので、計画に含まれていないもの。


 一つしか思い当たらなかった。


 殿下自身だ。


 王位を。あるいは、王位よりもっと深いもの——殿下の身の安全を、交渉の材料にするつもりではないか。


 背中を見ながら、私は自分の右腕の傷を感じていた。布の下で血が固まりかけている。殿下が巻いた布。殿下の指が結んだ結び目。


 口を挟むな、と殿下は言った。


 二十年間、命令には従ってきた。


 だが——この命令だけは、従えるかどうか分からない。


 街道の先に、侯爵の領地の外壁が見え始めた。石造りの門。その向こうに、牧羊犬の声が聞こえた。

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