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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


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第十一話 差し出すもの

 侯爵の屋敷は、街道の突き当たりにあった。


 石造りの門は高さ四メートルほどで、門柱の上に鉄の燭台が二つ載っている。昼間だが火は入っていない。門番が一人、壁に背を預けて立っていた。腰に剣。だが構えてはいない。


 殿下が門番に近づき、何か短い言葉を交わした。距離があり、言葉は風に散った。門番の背筋が伸び、顔つきが変わった。中へ走る。


 門の内側は石畳の広場だった。左手に厩舎。右手に使用人棟らしい二階建て。正面に本館。三階建ての石壁に、蔦が這い上がっている。窓が多い。外を見張るための窓ではなく、光を入れるための窓だった。


 牧羊犬が一頭、広場の隅に座っていた。黒と白の毛。大きい。こちらを見ているが吠えない。尾も振らない。ただ見ている。


「客人だぞ」


 背後から声がした。低く、太い声。


 振り返った。門の横の通用口から、大柄な男が出てきた。肩幅が広い。顎鬚を短く刈り込んでいる。目は細く、笑っているように見えるが、瞳の奥は笑っていない。


 ヴィルヘルム侯爵だった。


「殿下。お待ちしておりました」


 侯爵は殿下に向かって頭を下げた。深くはない。だが背筋が伸びた一礼だった。


「門を使わず出てくるとは」


「門から入る客は帳簿に載る。載せたくない客もいる」


 殿下が一つ頷いた。


「話は中で」


---


 通された部屋は、二階の奥だった。窓は一つ。北向き。光は柔らかいが薄い。


 机が一つ、椅子が三脚。壁に東部の地図が一枚掛かっている。街道と領地の境界線が赤い墨で引かれ、三箇所に×印がついていた。最近つけたものだ。墨がまだ乾いていない。


 殿下と侯爵が向かい合い、私は壁際に立った。侯爵の視線が一度だけ私に向いた。右腕の布。視線がそこで止まり、顎を引いて前に戻った。


「状況を」


 殿下の声は平らだった。飯屋で粥を食べていたときとは違う声。感情を畳んで奥にしまった声。


 侯爵が腕を組んだ。椅子の背が軋む。


「ヘルデン子爵が、宰相府に書簡を送った。昨日、犬が確認した」


「内容は」


「未確認だ。だが、犬を追って戻った者の話では、子爵の使者は宰相府の裏門から入っている。正門ではない」


 裏門。正規の外交経路を使わない接触。子爵は、まだ公式には第一王女側についていない。だが、密かに連絡を取り始めている。


「それだけか」


「もう一つ。子爵の領地の関所が、東部の商人の通行税を上げた。昨日から。三割増し」


 殿下の指が膝の上で止まった。


「東部の交易路を絞りにかかっている——と」


「子爵の独断か、宰相府の指示かは分からん。だが、効果は同じだ。東部の商人が動揺する。動揺すれば、私の足元が揺れる」


 侯爵の声に、初めて感情が混じった。低い苛立ち。自分の領地の商人が脅かされている。自負を持つ者にとって、足元を崩されることは、刃を向けられるより不快なのだろう。


「侯爵。直接お聞きします。盟約の意思に変わりはありませんか」


「ない。だが——条件が変わった」


 殿下が微かに顎を引いた。飯屋で言った通りだった。追加の条件が来る。


「言ってくれ」


「子爵を止めろ。東部の安定を保証しろ。具体的にだ。言葉ではなく、形で」


「形とは」


「担保だ」


 侯爵が腕を解き、机に両手を置いた。手が大きい。節くれだった指が、木の表面を叩く。


「殿下が計画を実行するまでの間——私は東部を盟約に縛りつけなければならん。子爵が揺れ、他の三家も様子を見始めている。私が旗を掲げても、殿下が消えれば旗だけが残る。馬鹿を見るのは私だ」


 殿下が口を開きかけた。侯爵が先に言った。


「殿下がここに留まればいい」


 空気が止まった。


「計画が動くまで——二十日か、三十日か。その間、殿下がこの屋敷にいれば、東部の貴族に対して『第二王女は東部にいる』と示せる。担保はそれだ」


 殿下の背中を見ていた。外套の下の肩が、一瞬だけ硬くなったのが分かった。


「私がここにいる間、計画は誰が進めるのか」


「騎士がいるだろう」


 侯爵の目が、私を見た。


 殿下は前を向いたまま答えた。


「騎士は護衛だ。政治はできない」


「政治の話はしていない。バルノー辺境伯との連絡、クレイス男爵への伝令、王都の内通者との調整——実務の話だ。殿下が指示を出し、騎士が走る。殿下はここから動かない。それが条件だ」


 長い沈黙があった。


 北向きの窓から入る光が、殿下の横顔を照らしていた。唇が薄い線になっている。目は侯爵の顔を見ている。計算している。殿下は常に計算する。感情ではなく、構造で判断する人だ。


 殿下が口を開いた。


「侯爵。それは私を人質にすると言っているのか」


 侯爵が笑った。歯を見せない笑いだった。


「人質とは言わん。来賓だ。東部の盟約を束ねるための、来賓」


「名前が違うだけだ」


「名前が違えば、扱いも違う。来賓には部屋と食事と自由を保障する。人質にはない」


 殿下の指が膝の上で動いた。親指が人差し指の爪を押す。小さな癖。考えているときの癖。


 口を挟むな、と殿下は言った。


 私の右手が拳になっていた。布の下で傷口が引き攣る。殿下がこの屋敷に留まるということは、殿下と私が離れるということだ。二十年間、半歩後ろを歩いてきた距離が、馬で二日分に広がる。


 殿下が答えた。


「条件を受ける」


 侯爵の目が一瞬だけ見開かれた。交渉が短すぎたのだろう。殿下が抵抗すると思っていたのだ。


「ただし、一つだけ加える」


「聞こう」


「レオンが戻る先は、王都ではなくバルノー辺境伯の元にする。辺境伯との合流が確認できた時点で、盟約は発効とする。それでいいか」


 侯爵が顎鬚を撫でた。


「——いいだろう」


 殿下が立ち上がった。椅子が石の床を擦る音がした。


「レオン。部屋の外で待っていてくれ」


「……承知しました」


 扉を開け、廊下に出た。扉を閉める直前に、殿下の声が聞こえた。侯爵に向けた声。私に聞かせるつもりのない声。


 「侯爵。もう一つだけ——」


 扉が閉まった。


---


 廊下は薄暗かった。壁に燭台が一つ。蝋燭の芯が長く、炎が揺れている。


 壁に背を預けた。右腕が痛い。傷口ではない。拳を握りすぎた筋肉の痛みだった。


 殿下はここに残る。私は一人で辺境伯の元へ行く。二十年間で初めて、殿下の傍を離れる。


 口を挟むな、と言われた。従った。従えた。


 だが殿下が最後に侯爵に言いかけた言葉が、扉の向こうに消えた。あの言葉が何だったのか、私には分からない。


 牧羊犬が階段の下に座っていた。こちらを見上げている。黒い目。何も映していないようで、全てを見ているような目。


 扉が開いた。


 殿下が出てきた。顔色は変わっていない。背筋は伸びている。だが右手の指先が——微かに震えていた。親指の先が人差し指の爪を押している。考えているときの癖ではない。耐えているときの動きだった。


「行くぞ」


「殿下。侯爵に何を——」


「聞くなと言った」


 殿下が廊下を歩き始めた。私は半歩遅れてついた。いつもと同じ距離。階段を降り、広場を横切り、門を出る。


 門の外に出たとき、殿下が立ち止まった。


 街道の先を見ていた。東に続く道。侯爵の領地から先、北に分岐する街道がある。辺境伯の元へ向かう道だ。私が明日から一人で歩く道。


「レオン」


「はい」


「辺境伯に着いたら、伝令を寄越せ。牧羊犬が中継する。犬は侯爵の判断が早い。手紙は短く書け」


「承知しました」


「バルノーには馬が五千頭ある。動くときは一斉に動く。そのために私がここに留まる意味がある。分かるな」


「分かります」


 殿下が私を見た。目が合った。旧街道で「なぜ戻ったのか」と問われたときと同じ距離。半歩。


「——おまえに言っておくことがある」


 風が吹いた。殿下の髪が額にかかった。


「手紙は短く書けと言ったが、一通だけ長くてもいい」


 意味が分からなかった。殿下の目を見た。凍った目ではない。飯屋で粥を食べていたときの、少しだけ温度のある目。


「あの問いの答えを——書いてくれてもいい」


 なぜ戻ってきたのか。旧街道で傭兵に遮られた問い。


 殿下が踵を返し、門の中へ歩き始めた。


 背中が小さくなっていく。門柱の影に重なり、石畳を踏む足音が遠くなる。


 右腕の傷が熱かった。殿下が巻いた布。殿下の指が結んだ結び目。


 明日から、この距離はなくなる。


 だが答えは——もう持っている。

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