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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


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第十二話 半歩の距離

 朝の光が、門柱の影を街道に落としていた。


 私は馬の腹帯を締めながら、門の奥を見た。侯爵が用意した栗毛の馬。蹄鉄は新しく、鞍の革は使い込まれている。長距離を走れる馬だった。


 殿下の姿は見えない。二階の窓にも、広場の隅にも。牧羊犬だけが厩舎の前に座り、こちらを黒い目で見ていた。


---


 出発前に、侯爵から地図と書簡を受け取った。


「バルノー辺境伯への紹介状だ。私の名前が入っている。——重さは分かるな」


「分かります」


「道中で捕まれば、その書簡が証拠になる。私と殿下の繋がりが露見する。つまり——おまえが捕まることは、殿下を殺すことと同じだ」


 侯爵の目が細くなった。笑っていない。確認している。この男に書簡を預けてよいか、最後の値踏みをしている。


「死んでも渡しません」


「死ぬな。死んだら書簡を回収される。生きて辺境伯に届けろ。それだけだ」


 侯爵が背を向けた。三歩ほど歩いて、足を止めた。


「——殿下は、おまえが出る前に一通の手紙を書いた。私に預けてある」


「手紙」


「おまえ宛てではない。辺境伯宛てでもない。誰に宛てたものかは、殿下が私に言わなかった。ただ——おまえが出発した後に読め、と言われた」


 侯爵の背中を見送った。肩越しに、二階の窓が見えた。硝子に朝日が反射して、中は見えない。


「読んだら伝えます」


「いらん。殿下の手紙は殿下のものだ。——行け」


---


 門を出た。


 街道は東に伸びている。昨日、殿下と二人で歩いてきた道だ。石畳の上に馬の蹄の跡がいくつか残っていた。商人の荷馬車か。


 馬に跨った。鐙に足を入れ、手綱を握る。手が覚えている動作。だが体の左側が——軽い。


 二十年間、殿下は常に私の左にいた。宮廷の廊下を歩くとき、馬車の横を進むとき、旧街道を行くとき。左の半歩後ろに、殿下の気配があった。足音、衣擦れ、時折聞こえる吐息。


 今、左には何もない。


 風の音だけが鳴っている。


 手綱を引いた。馬が歩き出す。蹄が石畳を打つ音が、一頭分だけ響いた。


---


 侯爵の領地を抜けるまで、半日かかった。


 領地の端に関所がある。侯爵の紋章が入った通行証を見せると、番兵が黙って道を開けた。街道はそこから未舗装の土道に変わる。轍が深い。最近の雨で土が緩んでいた。


 北に向かう道に入ったとき、体が自然に左を振り返った。


 誰もいない。殿下は侯爵の屋敷にいる。分かっている。分かっていて、体が動く。二十年間の習慣が骨に染みている。旧街道で殿下と歩いた六日間、半歩後ろの距離を保ち続けた体が、その距離の空白を訴えている。


 手綱を握り直した。右腕の傷が布の下で脈を打っている。殿下が巻いた布。結び目が手首の近くにあり、馬の動きに合わせてわずかに擦れる。


 痛みではない。殿下の指がそこにあった、という記憶の感触だった。


---


 昼過ぎ、道の脇の泉で馬に水を飲ませた。


 自分も水を飲み、干し肉を齧った。一人分の食事は早い。殿下がいれば水の量を計算し、干し肉を分け、残りの日数と照らし合わせる。その手間がない分、味も素っ気もない。


 懐から紙と炭筆を取り出した。


 殿下に手紙を書く。伝令は侯爵の牧羊犬が中継する。殿下はそう言った。手紙は短く書け、と。


 紙を膝の上に置いた。炭筆を構えた。


 書けない。


 『殿下。無事に侯爵の領地を出ました』——報告なら書ける。だが殿下が求めたのは報告ではない。あの問いの答えを書いてくれてもいい、と殿下は言った。


 なぜ戻ってきたのか。


 答えは持っている。旧街道で傭兵に遮られたとき、喉の奥まで出かかった言葉。二十年間、口にせずに飲み込んできた言葉。


 炭筆の先が紙に触れた。黒い点が一つ残った。


 それ以上、手が止まる。


 言葉にすれば形を持つ。形を持てば、殿下はそれを扱わなければならない。受け取るか、退けるか。どちらにしても、二十年間の距離が変わる。


 紙を畳み、懐に戻した。


 泉の水面に、空が映っていた。雲が東から西へ流れている。殿下のいる方角から、私が向かう方角へ。


---


 二日目の夕方、丘陵地帯に入った。


 道が細くなり、馬を降りて手綱を引いた。両側に灌木が茂り、視界が狭い。待ち伏せに向いた地形だった。


 足を止めた。


 灌木の根元に、馬糞が落ちている。半日ほど前のもの。蹄の跡が三頭分。道の幅からして、並んで進んでいる。商人の隊列なら一列で進む。並走するのは——騎兵だ。


 書簡を外套の内側に移した。腰の剣に手を触れ、柄の感触を確かめた。


 灌木の隙間から、道の先を覗いた。丘の稜線に沿って道が続いている。二つ先の丘の裏側は見えない。


 馬を灌木の陰に繋ぎ、徒歩で先を偵察した。


 一つ目の丘を越えた。道は空だった。二つ目の丘の手前に差し掛かったとき、風向きが変わった。煙の匂い。薪を燃やした匂いではない。獣脂の匂いが混じっている。松明だ。


 丘の脇から、下の窪地を見下ろした。


 野営の跡があった。焚き火の残り。三頭分の馬を繋いだ杭の跡。地面に踏み固められた円形の痕。最近のものだ。今朝か、昨夜か。


 焚き火の灰を指で触った。まだ温かい。半日と経っていない。


 三騎の騎兵が、私の前を行っている。偶然にしては——道が同じすぎる。


 馬に戻り、地図を広げた。バルノー辺境伯の領地まであと二日。この道を直進すれば一番早いが、三騎が先にいる。追いつく可能性がある。


 地図の上で指を動かした。東に迂回する道がある。半日余分にかかる。だが山沿いの道で、騎兵が通るには狭い。


 迂回を選んだ。


---


 三日目。山沿いの道は予想以上に荒れていた。


 岩が道を塞ぎ、馬を通すのに手間がかかった。崖沿いの細い道では馬を引き、自分の足で歩いた。右腕の傷が馬の手綱を引くたびに熱を持つ。布が汗で湿り、結び目が緩みかけていた。


 結び目を締め直した。殿下の指が作った形を、自分の指でなぞる。同じ形にはならない。


 日が傾いた頃、山道が開けた。眼下に平野が広がっていた。緑の牧草地が地平線まで続いている。点々と馬の群れが見えた。数が多い。数百——いや、数千。


 バルノー辺境伯の領地だ。


 馬が五千頭ある、と殿下は言った。あの馬が動くときは一斉に動く。そのために殿下がヴィルヘルム侯爵の元に留まっている。


 平野の奥に、城壁が見えた。石造りの砦。旗が二本立っている。辺境伯の旗だろう。


 あと半日。明日の朝には着く。


---


 山道を下りきった場所で、夜営にした。


 火は起こせない。三騎の行方が掴めていない。煙は目立つ。


 馬を木に繋ぎ、岩に背を預けた。夜の冷気が地面から這い上がってくる。外套を引き寄せ、膝を抱えた。


 懐から紙を取り出した。昼に一文字も書けずに畳んだ手紙。炭筆を持ち、紙を膝の上に広げた。


 月明かりが薄い。文字を書けるかどうかの明るさ。


 『殿下』


 二文字だけ書いた。その先が出ない。


 あの問いの答え。なぜ戻ってきたのか。


 売られたと知って。手帳を読んで。殿下の目を見て。それでも戻った理由。


 理由は一つしかない。だが、その一つを書けば——騎士と主の距離が壊れる。二十年間守ってきた距離。半歩後ろ。その距離があるから、剣を振るえた。殿下の盾になれた。


 距離を壊して、それでも剣を振るえるか。


 分からない。


 紙を畳み、懐に戻した。殿下の名前だけが書かれた紙。インクではなく炭だから、折り目で擦れて薄くなる。いずれ消える。


 目を閉じた。


 風の音を聞きながら、二十年前を思い出していた。殿下が初めて私に言った言葉。「あなたは私の剣になってください」。十二歳の少女の声。真っ直ぐな目。


 剣であることを、二十年間信じてきた。


 だが剣は、主に手紙を書かない。


---


 四日目の朝。


 目を開けたとき、空気が違った。


 風の中に、草と土と馬の匂いがある。牧草地の匂い。辺境伯の領地が近い。


 馬に鞍をつけ、山道を出た。平野の端の小道に入ったとき——前方に人影が見えた。


 三人。馬に乗っている。


 道を塞ぐように、横に並んでいた。


 距離は百歩。顔は見えない。だが鎧の光が朝日を反射している。軽装ではない。革鎧の上に鉄の胸当て。腰に剣。一人は槍を持っている。


 手綱を引き、馬を止めた。


 三騎。丘陵地帯で見つけた蹄の跡と数が合う。先を行っていたのではない。この場所で待っていた。


 辺境伯の領地の入口で道を塞ぐ三騎。辺境伯の兵ならば、紋章入りの軍装を着る。この三人の鎧には紋章がない。


 外套の内側にある書簡に、左手で触れた。侯爵の紋章が入った紹介状。これが奪われれば、殿下と侯爵の関係が暴かれる。


 殿下が侯爵の屋敷に留まっている理由が——消える。


 剣の柄に右手を置いた。布の下で傷口が引き攣る。三人。一人なら斬れる。二人でも、地形次第で。だが三人は——


 正面の騎兵が、馬を一歩進めた。


「旅の方。この先はバルノー辺境伯の領地だ。名と用件を」


 声は丁寧だった。だが手は槍の柄を握ったままだ。


 背後の道を見た。引き返すことはできる。だが山道を戻れば一日失う。殿下が待っている。盟約の発効は、私が辺境伯に着くことが条件だ。


 三騎の向こうに、辺境伯の砦が見えた。旗が風に揺れている。あと半日の距離。


 それが——今、最も遠い距離だった。

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