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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


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届かない手紙

 蹄鉄を打つ音が、まだ鳴っている。


 夜半を過ぎた。砦の鍛冶場は灯を落としていない。出発前の馬の支度だ。辺境伯が選んだ栗毛の蹄鉄が一本、走路の石で磨り減っていると鍛冶が申告した。交換に半刻かかる。


 部屋の窓から、鍛冶場の赤い光が壁に映っている。炉の熱が石壁を伝い、わずかに温い空気が窓枠から入ってきた。


 机の上に盟約書の写しを広げた。辺境伯の筆跡は固く、一文字ずつ角がある。


 騎兵二百。馬四百頭。うち予備馬百。交易権は殿下の返答を以て確定とする。バルノー辺境伯家は第二王女殿下を正統と認め、旗を預ける——。


 旗。懐の布が重い。紋章旗を畳んだまま、胸の内側に入れてある。紺地の白い馬。縁のほつれた糸が、肌着の縫い目に引っかかる。


 盟約書の数字を頭に入れた。騎兵の編成は辺境伯が決める。こちらが口を出す領分ではない。だが補給路は確認しなければならない。辺境伯の砦から侯爵の屋敷まで、馬で四日。二百騎が四日分の食糧と飼葉を運ぶには——。


 鍛冶の音が止まった。


 窓の外を見た。鍛冶場の灯が消えている。蹄鉄の交換が終わったのだ。夜明けまでの時間を指で数えた。三刻。もう少しだけ、この机に向かっていられる。


---


 階段を下りたのは、それから一刻後だった。


 厩舎に向かう途中、訓練場の端に影が座っていた。辺境伯だった。石の段に腰を下ろし、膝に腕を載せている。白髪が月明かりで銀色に見えた。


「起きていたのか」


「眠れんのだ。年を取ると朝が早くなる」


 辺境伯が顎で隣を示した。石段に座った。冷えた石が尻に染みた。訓練場の向こうに厩舎が三棟、暗がりの中で並んでいる。馬の鼻息が聞こえる。低い音が三棟分重なると、砦そのものが呼吸しているような音になった。


「盟約書の写しは持ったか」


「はい」


「補給路の地図は——」


「懐に。裏道を通る場合の迂回路も確認しました」


 辺境伯が鼻を鳴らした。満足とも呆れともつかない音だった。


「おまえは細かいな。騎士というのは剣だけかと思っていたが」


「殿下に二十年仕えれば、細かくもなります」


「殿下が細かいのか」


「——はい」


 辺境伯が低く笑った。声ではなく、肩だけで笑う。夜の静かさを壊したくない人間の笑い方だった。


「おまえの殿下は、条件を交易権で返してくるかな」


「返します」


「即答だな」


「殿下は自治権よりも交易権のほうが盟約の持続力があると判断します。殿下は——約束の持続を考える人です」


 辺境伯の目がこちらに向いた。月明かりの下で、皺の影が深い。


「おまえ、殿下の話をするとき声が変わるな」


 口を閉じた。石段の冷たさが太腿を通して背中まで上がってきた。


「いい女か」


「……辺境伯殿」


「怒るな。年寄りの戯言だ」


 辺境伯が片膝を立てた。革靴の底がざらついた音を立てる。


「二十年だろう。二十年同じ人間の傍にいて、声が変わらないほうがおかしい。——俺の女房も、馬の話をすると声が高くなった」


「奥方は」


「十二年前に死んだ。馬に蹴られたんじゃない。冬の風邪だ。馬は丈夫なのに、人間は弱い」


 辺境伯の指が膝頭を叩いた。乾いた音。何かを締めくくるための、一打ちだった。


「おまえが殿下のところに戻ったら、手紙を書けとは言わん。だが顔は見せてやれ。二十年待った人間に、顔も見せずに報告書だけ送るのは——馬でもやらん」


 馬でもやらない。辺境伯の言葉は、いつも馬に着地する。


 答えようとしたとき、厩舎の奥から犬の声がした。


---


 吠え声とは違う。


 短く二度、鼻を鳴らすような声。辺境伯が立ち上がった。体の動きに迷いがない。


「犬だ」


「牧羊犬ですか」


「伝令犬だ。走ってきた犬はああいう声を出す。息が上がっている」


 辺境伯が訓練場を横切った。大股で、速い。年齢を感じさせない歩幅だった。私も後を追った。


 厩舎の裏手に木柵の囲いがある。牧羊犬の繋留場だ。三頭の犬が寝ていた場所に、四頭目がいた。黒と茶の毛並み。体を横たえ、脇腹が大きく上下している。泥が脚にこびりついている。長い距離を走ってきた犬の、乾ききった泥だ。


 辺境伯が犬の首元に手を伸ばした。首輪の内側に何かがある。指で探り、革紐を解いた。


 小さな筒。木製。蓋を抜くと、中から紙が出てきた。丸めた状態で、小指の太さ。


 辺境伯が紙を広げた。月明かりでは足りず、厩舎の壁に掛かった角灯を取った。蓋を開け、火打ち石で灯を入れる。その手際に一切の無駄がない。


「侯爵経由だ。殿下の字か?」


 紙を受け取った。


 角灯の灯りの下で、文字を読んだ。


 殿下の筆跡だった。小さく、詰まった字。一行の幅が狭い。紙の面積を限界まで使い切る書き方。これは牧羊犬の伝令筒に収める前提で書いている。殿下はこの紙の大きさを知っていた。


 三行。


 一行目——ヘルデン子爵の通行税引き上げに対し、侯爵が東部商人に代替路を提示。子爵領の北回り。効果は限定的だが時間は稼げる。レオンは辺境伯の元を発つ前に、北回り路と辺境伯領の接続を確認せよ。


 二行目——クレイス男爵から侯爵に書簡あり。内容は中立維持の表明。盟約に加わらないが、妨害もしない。レオンは帰路で男爵領を経由する必要はない。


 三行目。


 手紙は届いていない。


 指先が止まった。


 三行目だけ、文体が違う。一行目と二行目は指令だった。主語がなく、動詞で始まる。殿下が政治文書を書くときの形式。だが三行目は——ただの事実だった。


 手紙は届いていない。


 殿下が言った。手紙を寄越せ、短く書けと。あの問いの答えを書いてくれてもいいと。


 私は報告だけを書いた。「殿下。辺境伯の旗を持って、戻ります」。それしか書けなかった。


 その報告を、殿下は「手紙」とは呼ばなかった。


「——どうした」


 辺境伯の声が遠い。


「何が書いてある」


「指令です。ヘルデン子爵の動きに対する対応と、クレイス男爵の中立表明。それから——」


 三行目を読み上げようとして、喉が詰まった。


「それから?」


「……いえ。指令は二件です」


 辺境伯が目を細めた。気づいているのだろう。だがそれ以上は踏み込まず、話を変えた。老人の分別か、馬飼いの勘か。


「北回り路の接続か。——それなら砦の東門を出て、川沿いに半日だ。辺境伯領の検問を通せば、そのまま侯爵の領地に抜けられる。地図を書いてやる」


「お願いします」


 辺境伯が厩舎の中に入っていった。角灯を持ったまま、壁の棚から紙と炭筆を引き出す音がした。


 一人になった。


 犬が木柵の中で身じろぎした。走り疲れた体を、地面に預け直している。この犬は侯爵の屋敷から走ってきた。殿下がこの紙を書き、侯爵の犬に託し、犬が中継点を経て辺境伯の砦に届けた。


 殿下の指がこの紙に触れた。


 紙を裏返した。何もない。殿下は三行だけを書いた。三行目のあとに、四行目はない。催促ではないのだ。「手紙を書け」とは書いていない。「手紙は届いていない」——ただそれだけ。


 確認なのか。


 殿下は何を確認している。私が手紙を書けないことを。私が書けないでいることを。あるいは——書かなかったことを。


 書かなかったのではない。書けなかったのだ。


 殿下にはその違いが分かるだろうか。あの人は計算で動く。だが計算の外にあるものを、どう扱うのか。私が手紙を書けない理由が、計算の外にあると——殿下は知っているのか。


 犬の呼吸が落ち着いてきた。脇腹の上下が緩やかになり、鼻先を前脚に載せた。


 走り終えた犬は、眠る。届けるべきものを届けたら、眠る。


---


 辺境伯が地図を持って戻ってきた。


「北回り路だ。川沿いの道は荷馬車が通れる。騎兵の補給路にも使える」


 地図を受け取った。炭筆の線は太く、分岐点に丸印がついている。辺境伯の描き方だ。地図というより、馬を走らせる道筋だった。


「出発は予定通り夜明け前か」


「はい」


「殿下の指令にある北回り路の確認は——今日の出発後に回れ。半日で確認できる。そこから裏道に入って侯爵の屋敷に向かえば、予定より半日遅れるが、指令を果たせる」


「ありがとうございます」


 辺境伯が犬の囲いに目をやった。


「返事はどうする。犬を使うか」


 犬を使うか。殿下に返事を書くか。


「……報告を書きます。北回り路の確認結果を。出発後に」


「報告か」


 辺境伯の声に、何かが混じっていた。失望ではない。もっと静かなもの。待っている人間を知る者の、諦めに似た温度。


「報告でいいのか。殿下の三行目は——報告を求めていたのか」


 辺境伯は、紙を読んでいない。三行目の中身を知らない。だが見抜いている。三行目を読み上げなかった私の喉の詰まりから、全てを察している。


「……報告以外に、書くものがあるとは思います」


「思うなら書け」


「書けません」


「書けないのか、書かないのか」


 同じ問いが、二度目に来た。一度目は自分で自分に問うた。二度目は辺境伯の口から来た。答えは変わらない。


「書けないのです」


 辺境伯が長く息を吐いた。夜の空気に白い息が混じり、馬の鼻息と重なって消えた。


「分かった。犬は朝まで休ませる。おまえが出発した後に、侯爵へ戻す。報告があるなら途中の中継点で犬を拾え。場所は地図に印をつけておく」


「ありがとうございます」


「礼は二度目だ。もういい」


 辺境伯が踵を返した。三歩ほど歩いて、足を止めた。背中のまま、言った。


「おまえの殿下は——犬を走らせてまで三行書いてきた。三行目があるのは、一行目と二行目だけでは足りなかったからだ。指令だけなら二行で済む」


 辺境伯の背中が厩舎の影に消えた。


---


 部屋に戻った。


 机の上に辺境伯の地図と盟約書の写しを並べた。殿下の伝令の紙を、その横に置いた。


 三枚の紙。一枚は辺境伯の手。一枚は私の手。一枚は殿下の手。


 殿下の紙だけが小さい。犬の伝令筒に入る大きさ。だがその小さな紙の三行目が、盟約書の数字よりも重い。


 炭筆を取った。


 報告を書く。北回り路の確認は出発後に行う。辺境伯との盟約は予定通り。紋章旗は預かった。三日以内に侯爵の屋敷に戻る——。


 手が止まった。


 報告の最後に、一行足す余白がある。殿下の紙の三行目がそうだったように。指令の後に、一行だけ。


 殿下。手紙は——。


 炭筆が紙の表面を擦り、黒い線が一本残った。文字にならない線。何かの始まりか、何かの躊躇いか。


 消した。指で擦って、灰色の染みにした。


 報告だけを残した。


 窓の外が、わずかに白み始めている。東の空。殿下のいる方角。夜明け前に出ろと辺境伯は言った。


 紙を畳んだ。殿下の伝令の紙は、懐に入れた。紋章旗のすぐ隣。紺地の白い馬と、殿下の三行が、胸の上で重なっている。


 蹄鉄を打ち直した馬が、厩舎の前で待っているはずだ。


 立ち上がった。盟約書と地図と報告を外套の内側に収めた。剣を帯び、窓を閉めた。


 部屋を出る前に、もう一度だけ殿下の紙を取り出した。


 手紙は届いていない。


 この一行。殿下はこの一行を、指令の後に足した。指令だけなら二行で済んだ。辺境伯が言った通りだ。


 殿下。届けるべきものは分かっています。ただ——それを文字にする手が、まだ見つからない。


 声にはせず、紙を懐に戻して部屋を出た。


 階段を下りると、鍛冶場の前に馬が繋がれていた。蹄鉄が新しい。鉄の光が、東の空の薄明かりを受けて鈍く光っている。


 馬の首筋に手を置いた。温かい。辺境伯の馬は毛並みが厚い。北の冬を知っている馬の、蓄えられた体温だった。


 鐙に足をかけ、鞍に跨った。手綱を握る。左の手のひらに、革の匂い。


 砦の東門が開いていた。門番が一人、松明を持って立っている。辺境伯の指示だろう。黙って道を開けた。


 門をくぐった。


 夜明け前の道は暗い。だが東の空は白い。殿下のいる方角が、一番先に明るくなる。


 馬を歩かせた。蹄が土を踏む音だけが、朝の空気に響いた。


 懐の中で、紋章旗と殿下の紙が揺れている。一つは盟約の証。一つは——まだ名前のつかないもの。


 三日で戻る。殿下の顔を見る。それから。


 それから先を、まだ考えない。考えれば書けるような気がして、書けばこの胸の重さが消えるような気がして——消してはいけないものだと、知っている。

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