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二十年仕えた王女が私を敵に売った。それでも守ることにした  作者: セッシー


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第十四話 紺地の白馬

 辺境伯バルノーの部屋は、城主の居室にしては質素だった。


 壁に地図が一枚。大きな机の上に書類が三束。窓は南向きで、牧草地が見える。その窓の前に辺境伯が座っていた。革の椅子が体に馴染んでいる。長年同じ椅子に座り続けた人間の、体重の記憶。


「座れ」


 対面の椅子に腰を下ろした。辺境伯の顔を正面から見るのは、入城以来初めてだった。白髪。額の深い皺。日焼けした首の皮膚が厚い。農夫の首だ。だが目だけが農夫ではなかった。馬を千頭管理する男の目だ。


「侯爵の紹介状は読んだ。殿下がうちにいてほしいのは兵と馬だな」


「はい」


「何頭、何人の話だ」


「殿下の書簡には——」


「書簡の文言は聞いていない。おまえの口から聞きたい」


 辺境伯が机の上で指を組んだ。書簡を読んだ上で、直接聞く。文面と口述の差異を見るつもりだ。


「騎兵二百。馬は四百頭。うち予備馬百」


「二百か」


「宰相府の私兵が千と推定されています。二百は足りません。ですが——」


「侯爵の兵と合わせるのだろう。侯爵は兵を何人出せる」


「五百と聞いています」


「七百。宰相府の千には足りんな」


 辺境伯が椅子の背にもたれた。革が軋んだ。


「だが戦いにはならん」


「——なぜですか」


「宰相は千の兵を持っているが、王都の中でしか動けない。城壁の外に兵を出せば、王に対する反乱だ。宰相が実力で王権を奪うなら別だが、あの男はそこまでの度胸はない」


 辺境伯の目が窓の外を見た。牧草地。馬の群れ。遠くの丘に木立がある。


「問題は政治だ。武力ではない。殿下に必要なのは兵ではなく、旗だ」


「旗」


「辺境伯の旗が殿下の側にある。その事実が王都に届けば、宰相は動けなくなる。辺境伯領は王都から七日の距離だ。七日で騎兵が到着する可能性があるだけで、宰相は殿下に手を出せない」


 旗。なるほど、と思った。兵の数ではなく、兵を出せるという可能性そのものが武器になる。


「バルノー殿。条件を伺ってもよろしいですか」


「条件か」


 辺境伯が笑った。唇の端だけが上がる、乾いた笑い。


「おまえは騎士だな。騎士というのは条件の話が苦手だ」


「……はい」


「俺は政治が嫌いだ。だが嫌いだから無視していいという話にはならん。殿下が王位に就けば——うちの領地はどうなる。それが条件だ」


「殿下は、辺境伯領の自治権を尊重すると——」


「書簡にはそう書いてあった。だが自治権を尊重するのは、王が王である限りの話だ。殿下が王位に就いた後、次の宰相が別の方針を立てれば、自治権など紙切れと同じだ」


 辺境伯の声に苦味があった。経験から来る苦味だ。この男は過去に約束を反故にされたことがある。


「だから条件はこうだ。自治権ではなく、交易権をくれ。北部の馬の交易は、今は王都の商人が仲介している。仲介手数料が三割。三割だぞ。俺の馬を俺の値段で売れるようにしてくれれば、それでいい」


「交易権の直接化」


「政治じゃない。商売だ。商売の約束は政治より硬い。金が絡んでいるからな」


 辺境伯が立ち上がった。窓の前に歩いた。


「殿下に書け。自治権ではなく交易権と。それから——もう一つ」


「もう一つ」


「宰相府から使者が来ている」


 空気が変わった。


「いつですか」


「四日前だ。おまえが来る二日前。顔の長い男だった。名は——オルレンシュタインと名乗った」


「オルレンシュタイン」


 聞いたことのない名前だった。だが宰相府の人間が辺境伯の元にまで来ているという事実。


「内容は」


「まあ座れ。立つな」


 いつの間にか椅子から腰を浮かせていた。座り直した。右腕の布が引っ張られる感覚があった。傷口が疼くのは、体が緊張しているときだ。


「オルレンシュタインは丁寧な男だった。宰相閣下のご挨拶、と。辺境伯領の安定は王国の礎であると。殿下の件で辺境伯殿がご不快をお感じでなければ幸い、と」


「探りですか」


「探りだ。俺がどちら側につくか。だが——探りだけじゃない」


 辺境伯が窓枠に手をかけた。


「オルレンシュタインは、帰り際にこう言った。『殿下のために動かれる方がいらっしゃるなら、その方の安全は保証いたしかねます』」


 足元が冷えた。石の床の冷たさが、靴底を通して上がってくる。


「私のことですか」


「おまえか、侯爵か、あるいはその両方だろう。宰相府は殿下の動きを察知している。おまえのような使者が来ることも——予測していたということだ」


 部屋の空気が重い。辺境伯の白髪が窓からの光に透けている。


「バルノー殿。その使者を——」


「追い返した。馬の世話が忙しいと言ってな」


 辺境伯が振り返った。乾いた笑みが、今度は少しだけ温かかった。


「だが追い返しただけだ。宰相府は次の手を打つ。おまえがここにいることは、おそらくもう筒抜けだろう。斥候三騎が道を塞いでいたのは、宰相の手の者からおまえを守るためだった。だが砦の中にいても安全とは限らん」


「殿下に報告しなければ」


「ああ。だが——手紙を出すな。犬も使うな。宰相府に読まれる」


「では、どうすれば」


「自分で行け」


 辺境伯が机の上の地図を指差した。北の山道。来た道とは別のルートだ。


「裏道がある。馬は俺のをやる。軍鞍は外せ。農夫の格好をしろ。三日で侯爵の屋敷に着く」


 三日。往路は四日かかった。裏道のほうが短いのか、辺境伯の馬のほうが速いのか。おそらく両方だ。


「いつ出れば」


「明日の夜明け前。暗いうちに出ろ」


 辺境伯が机の引き出しを開けた。封蝋と便箋を出した。


「盟約書は今夜書く。騎兵二百と馬四百。交易権の件は殿下の返答次第で確定。旗は——おまえが持っていけ」


「旗」


 辺境伯が壁にかかった布を外した。紺地に白い馬。バルノー辺境伯家の紋章旗。


「小さく畳んで懐に入れろ。殿下にこれを見せれば、俺が本気だと分かる」


 紋章旗は古かった。縁が擦れ、馬の刺繍の糸がほつれている。だがそのほつれが、何代にもわたって使われてきた重みを伝えていた。


「バルノー殿」


「何だ」


「ありがとうございます」


「礼はいらん。馬が自由に売れるようになれば、それで充分だ」


---


 部屋に戻った。


 紋章旗を机の上に広げた。紺地の白い馬。小さく畳むと、掌に収まる大きさになった。


 懐から紙を取り出した。「殿下」と書いた紙。炭筆の字が薄い。


 下に一行書き足した。


 殿下。辺境伯の旗を持って、戻ります。


 ——これは報告だ。手紙ではない。殿下が求めた言葉は、まだ書けていない。


 でも——明日、戻る。三日で戻る。


 殿下の顔を見て、それから書く。それでいいはずだ。書けない言葉は、近くにいなければ出てこないのだから——


 窓の外の牧草地が、月明かりの下で青白く光っていた。馬の群れが影になって動いている。あの馬たちが戦場に出るかもしれない。あの静かな牧草地の馬たちが。


 紋章旗を懐に入れた。布の重さが、胸の上にある。

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