第十六話 葡萄の領主
北回り路は、川の匂いがした。
泥と水草と、岩に当たって砕けた水の飛沫が乾いた跡の匂い。辺境伯の地図に描かれた太い炭筆の線をなぞるように、川沿いの道を馬で進んだ。道幅は荷馬車二台分。轍の跡が深い。商人が使っているのだ。
朝霧が川面を覆っている。馬の蹄が湿った土を踏むたびに、小さな水音が立った。辺境伯の栗毛は足取りが確かだ。石の多い川筋でも、蹄の置き場を自分で選んでいる。
地図の分岐点に丸印が三つ。最初の丸印は川が二股に割れる場所で、左が辺境伯領の検問所、右が旧街道に戻る道。殿下が求めた北回り路と辺境伯領の接続——これが、騎兵二百と馬四百の補給路になる。
検問所は石壁の小屋だった。番兵が二人。辺境伯の通行証を見せると、何も聞かずに木の柵を開けた。番兵の一人が栗毛の額を撫でた。馬の顔を知っている。辺境伯の馬は、この道を何度も通っている。
丘を一つ越えると、麦畑が途切れ、その先にクレイス男爵の領地がある。
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殿下の伝令にあった。クレイス男爵——中立維持の表明。盟約に加わらないが、妨害もしない。殿下は「男爵領を経由する必要はない」と書いた。
だが北回り路は、男爵領の北端を掠める。
馬を止めた。丘の上から境界が見えた。石積みの低い塀。塀の向こうに葡萄畑。秋の収穫を終えた蔓が、支柱に巻きついたまま枯れている。葡萄の領地。ヘルデン子爵の穀物とは性質が違う。
葡萄は交易品だ。自領で消費しきれない。売り先が東部の交易路に繋がっている。
殿下なら、ここで何を見る。
考えるより先に、殿下の指が浮かんだ。親指で人差し指の爪を押す癖。あの仕草は計算の途中に出る。殿下が条件を組み立てているときの、指の動き。
振り払った。今は北回り路の確認が先だ。
だが頭の隅に残った。中立は、勝ち馬が決まるまで待つ態度でもある。経由が不要なことと、接触が不要なことは、同じではない。
馬を降りた。丘の斜面に座り、水筒の水を飲んだ。革の水筒の口が冷たい。
外套の内側から殿下の伝令の紙を取り出した。三行目——手紙は届いていない。この紙を何度読んだか。殿下の筆跡。小さく詰まった字。牧羊犬の筒に収めるために、限界まで小さく書いた字。
殿下はこの紙を書くとき、どんな顔をしていたのだろう。
考えると手紙が書きたくなる。書きたくなると、書けない自分に突き当たる。紙を懐に戻した。
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丘を降り、男爵領の境界に沿って東に進んだ。石塀の外側を半刻ほど進んだとき、前方の道に人が立っていた。
若い男だった。革の上着に麻のズボン。腰に剣はない。だが肩の位置が揃っている。農夫の肩ではない。
「旅の方」
声は丁寧だった。最近、同じ言い方で呼び止められたことがある。辺境伯の斥候三騎。
「クレイス男爵のお使いの方ですか」
「男爵の家臣です。ハンス。あなたが辺境伯の砦を発った方ですね」
知られている。辺境伯の砦を出たことが、男爵の耳に入っている。辺境伯領の検問所。あの番兵は栗毛の顔を撫でていた——馬を知っているということは、通行者も知っている。隣接する領主が互いの領地を監視するのは、東部の作法だ。
「名を伺っても」
「レオンと申します」
ランドルフではなくレオン。辺境伯には正体を明かしたが、男爵にはまだ早い。
「レオン殿。男爵がお会いしたいと」
「男爵が」
「通りすがりの旅人を放置する領主ではありません。ましてバルノー辺境伯の馬に乗っている方を」
馬を見ている。辺境伯の栗毛。鞍は農夫用に替えてあるが、馬そのものは隠せない。辺境伯の馬は体格が違う。東部の馬を知る人間なら、一目で分かる。
殿下なら、どうする。中立の人間が接触を求めてきた。殿下なら——会う。
「お会いします」
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クレイス男爵の屋敷は、葡萄畑の中に建っていた。
石造りの二階建て。門の前に葡萄を積んだ樽が三つ並んでいた。領主の屋敷に樽が並ぶ。商売と暮らしが分かれていない。
通されたのは一階の広間だった。暖炉に火が入っている。炭と乾いた葡萄の匂いが混じっていた。
男爵は暖炉の前に立っていた。
四十代半ば。がっしりした体格。手が大きい。農夫の手だ。辺境伯が馬の手をしていたように、この男は葡萄の手をしている。爪の間に黒い染みがある。葡萄の汁が落ちきっていないのだ。
「座ってください。寒いでしょう」
声が柔らかかった。辺境伯の乾いた命令口調とも、侯爵の慎重な言い回しとも違う。
暖炉の前の椅子に腰を下ろした。男爵が向かいに座った。テーブルの上に葡萄酒の瓶と杯が二つ。ハンスが注いで、下がった。
「飲んでください。うちの畑のものです」
杯に口をつけた。酸味が強い。甘さは控えめで、後味に渋みが残る。上質な酒ではないが、正直な味だった。
「辺境伯の砦から来たのですね」
「はい」
「辺境伯は——どうでした」
何を聞いている。辺境伯の健康か、態度か、盟約か。
「お元気でした」
「ああ、あの方はいつもお元気だ。馬と同じだから。——私が聞きたいのは、もう少し踏み込んだ話です」
男爵の目が笑いの皺の奥で光った。穏やかな顔の中に、計算が一つだけ混じっている。
「辺境伯は旗を出しますか」
直接だった。政治家の回りくどさがない。
「私の口からは申し上げられません」
「そうでしょうね。——でも、あなたが辺境伯の馬に乗っている。辺境伯があなたに馬を貸した。それだけで、半分は答えが出ている」
男爵が杯を傾けた。一口飲んで、杯をテーブルに置いた。底が木に当たる軽い音。
「私は侯爵に中立を伝えました。知っているでしょう」
「はい」
「中立というのは、楽な立場です。どちらが勝っても損をしない。——だが、どちらが勝っても得もしない」
男爵の指が杯の縁を撫でた。ゆっくりと、一周。葡萄の汁で染まった指が、杯の縁を辿る。
「私の領地は葡萄が九割です。葡萄は自分では飲みきれない。売らなければならない。売り先は東部の交易路。その交易路を、ヘルデン子爵が通行税で締め上げている。私の葡萄酒は値段が三割上がった。買い手が減っている」
「辺境伯も同じ状況です。馬の仲介手数料が——」
「三割。知っています。辺境伯とうちは、搾られ方が似ている」
男爵が立ち上がった。暖炉の火を鉄の火かき棒で突いた。崩れた薪が火の粉を上げる。
「殿下は交易路をどうするつもりですか」
殿下。男爵の口から出たのは「第二王女」ではなく——殿下、だった。中立を表明した人間が使う呼び方ではない。
「殿下は、東部の交易権を直接化すると——」
言いかけて止めた。これは辺境伯への盟約条件だ。まだ殿下の返答を得ていない。私の口から確定事項のように伝えるべきではない。
「——殿下のお考えは、私からはお伝えできません。ですが、殿下は交易の問題を理解しておられます」
「理解しておられる。それだけ?」
「それだけです。今は」
男爵が火かき棒を暖炉の横に立てかけた。鉄が石に当たる音が鳴り、消えた。
「あなたは正直な人だ。言えないことを、言えないと言う。政治家なら嘘でも何か言うところだが」
「騎士ですので」
「分かっています。殿下の騎士でしょう」
杯の中の葡萄酒が揺れた。男爵の目がこちらを見ている。
「殿下の騎士が辺境伯の馬に乗って、北回り路を確認している。殿下が補給路を整えている。辺境伯が旗を出す。——あとは、殿下が東部の小領主をどう扱うかだ。私のような、葡萄しか持っていない領主を」
男爵の声が低くなった。杯を持つ手の指先が白い。葡萄が売れなければ、この領地は干上がる。中立でいられるのは、交易路が生きている間だけだ。
「男爵殿。殿下は——約束の持続を考える方です」
辺境伯に言った言葉が、口を突いた。声が変わっていないか、確認した。辺境伯に指摘された。殿下の話をするとき声が変わると。
「約束の持続」
「はい。自治権のような政治的約束ではなく、交易権のような実利のある約束を。金が絡んだ約束は、政治より硬い。——辺境伯の言葉ですが、殿下もそう考えると思います」
男爵がゆっくりと頷いた。顎の動きが深い。辺境伯と同じだ。東部の人間は、納得するとき顎を深く引く。
「侯爵にもう一通、書簡を出します。中立の維持は変わらない。ただ——北回り路を男爵領の荷馬車が通ることを、侯爵に事前通知します。葡萄酒の運搬路として」
中立のまま、北回り路を商業路として認める。辺境伯の騎兵がこの道を補給路に使うとき、男爵の荷馬車と道を共有する。中立のまま、協力している。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。葡萄酒が売れる道が増えるだけのことです」
男爵が杯を持ち上げた。私も杯を持った。男爵の杯がこちらの杯に軽く当たった。
「殿下によろしく。——会ったことはないが、あなたのような騎士を持っている方なら、悪い主ではないのでしょう」
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男爵の屋敷を出たのは昼過ぎだった。
馬を東に向けた。ここから侯爵の屋敷まで一日半。殿下の指令にない行動に半日を使った。
だが殿下なら、咎めない。
また出ている。殿下なら。辺境伯に言われた。殿下の話をするとき声が変わると。声だけではない。判断の軸が殿下の眼で動く。二十年の習慣が体に染みついている。
習慣、と言い切れたら楽なのだ。
馬を早足にした。午後の風が右頬に当たる。南からの風。暖かい。東部にも春が近い。葡萄畑の蔓が芽を出す頃には——殿下の計画が動き出すだろう。
懐に手を入れた。紋章旗と、殿下の伝令の紙。盟約書の写しと、辺境伯の地図。四枚の紙と一枚の布。
報告は書ける。北回り路、検問所、男爵の意向。東部のネットワークが形になりつつある。報告なら、いくらでも。
手紙は、まだ書けない。
馬の蹄が道を叩く。辺境伯の栗毛は歩幅が一定で、揺れが少ないぶん余計なことを考える。殿下の三行目。
手紙は届いていない。
殿下。届けます。ただし、それは報告です。報告の中に手紙は混ぜない。殿下はその違いが分かる人だ。
気づいて——どんな顔をするのか。親指が人差し指の爪を押すだろうか。あの癖。計算の途中なのか、それとも。
馬の首筋を撫でた。辺境伯の馬は体温が高い。その温もりが手のひらに残って、手紙の代わりのように胸の中に降りてきた。
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日が傾く前に、中継点に着いた。
辺境伯の地図に印がついていた場所だ。街道の脇に石の小屋。壁の隙間から風が入り、天井の梁に蜘蛛の巣が白い。犬を拾う中継点。
馬を木に繋ぎ、小屋に入った。炭筆で、辺境伯の地図の裏に報告を書いた。
殿下。北回り路の確認を完了。検問所は通過可能、騎兵の補給路として使用できます。クレイス男爵と接触。男爵は中立を維持しますが、北回り路を葡萄酒の運搬路として侯爵に通知するとのこと。明日中に侯爵の屋敷に戻ります。
紙の末尾に、余白がある。
殿下。
一文字書いて、止まった。前と同じだ。報告の後に一行。殿下の三行目のように、指令の後に一行。
何を書く。
手紙は、書けるようになりました——嘘だ。書けていない。
殿下の伝令は、報告を「手紙」とは呼ばなかった。私もまた、報告の後ろに手紙を足せずにいる。
炭筆を置いた。余白はそのまま残した。
小屋の外で犬の鳴き声がした。短く二度。辺境伯の砦から走ってきた犬だ。息が荒い。前脚の泥が乾いている。
犬の首輪に報告を巻いた紙筒を取りつけた。犬が鼻先を上げた。風の方角——殿下のいる方角。
「行け」
犬が走り出した。枯れ草の道を、一直線に。
その背中を見送った。報告は届く。手紙は——まだ、私の懐にある。殿下の三行目と一緒に。犬に託したものと、託さなかったものの差が、胸の上で重い。
明日、殿下に会う。
会って——それから。
馬が鼻を鳴らした。水筒の残りを手のひらに注ぎ、馬の口元に差し出した。温い水を舌で掬う。その温度が手のひらに残った。
明日。殿下の顔を見る。半歩後ろに立つ。いつもの場所に戻る。ただ——殿下の三行目を読んだ後の私は、三行目を読む前の私と、同じ距離に立てるのか。
小屋の壁から覗く空が、夕焼けで赤く染まっていた。明日の朝は晴れるだろう。殿下のいる方角の空が、一番先に明るくなる。
昨日もそう思った。明日もきっとそう思う。
殿下の方角だけが、いつも明るい。それが方角のせいなのか、別の何かのせいなのか——答えは、懐の中の紙が知っている。




