第16話:美神の愛玩動物園と、魔物をも狂わす「撫でる聖域」
ダンジョン『美神のクローゼット』第11層。
そこは、これまでの石造りの回廊や調理場とは一変し、どこまでも続く柔らかな芝生の平原が広がっていた。
空には魔法の太陽が輝き、心地よい微風が吹き抜ける。一見すると、地獄の奈落にあるとは思えないほど平和な光景だ。
だが、その平原を埋め尽くしている「住人」たちは、一国の軍隊を数分で消し飛ばしかねない、大陸最強クラスの魔物たちであった。
「……なんだ、この数は。地平線が見えんぞ」
アルトリアは、銀色の『美神の白銀鎧』のガントレットを鳴らし、警戒を強めた。
彼女の目の前には、体長二十メートルを超える『獄炎竜』、三つの頭を持つ『ケルベロス』、そして鋭い嘴を持つ『エルダー・グリフォン』といった伝説級の魔物が、数千体という単位でひしめき合っている。
「アル様、お下がりくださいまし! これほどの数、私の極大魔法で一気に更地にして差し上げますわ!」
「不浄! あまりにも不浄な獣の群れですわ! アル姉様の神聖な通り道を塞ぐなど、万死に値するのですわ!」
マリエルが杖を掲げ、レベッカが聖印を振りかざしたその時。
魔物たちの群れから、かつて聴いたこともないような「音」が響き渡った。
「「「「…………キュ~ン?」」」」
地響きのような咆哮ではなく、それは、飼い主に甘える子犬のような、情けない鼻鳴らしだった。
数千体の魔物たちが、一斉に伏せの姿勢を取り、尾を振り、あるいは翼を畳んで、アルトリアに向かって「キラキラとした瞳」を向けている。
「……あ。……殺気がない。それどころか、これは……」
シェリーが呆気にとられたように短剣を収めた。
「……ダンナ。こいつら、アンタに『撫でてほしい』って言ってるよ。……野生、どこに捨ててきたんだろうね」
第11層――通称『美神の愛玩動物園』。
ここは、美神の加護を受けた「真に美しき主」に対し、あらゆる生命が敵意を失い、その慈愛を渇望するようになるという、魔の癒やし階層であった。
「……なるほど。ならば、応えないわけにはいかんな」
アルトリアは、周囲の静止を振り切り、最前列にいた獄炎竜の鼻先へと歩み寄った。
火炎を吐き、山を焼き払うとされるその巨大な鼻面に対し、アルトリアは躊躇なく銀色のガントレットを外した。
晒されたのは、白く、しかし鋼のように引き締まった彼女の「指先」だ。
「……よしよし。怖くはないぞ。……少し、凝っているようだな。……解してやろう」
アルトリアの手が、龍の逆鱗のわずかに下、最も神経が集中する「急所」へと触れた。
彼女はただ撫でているのではない。
指先から微細な筋肉の鼓動を伝え、魔物の筋繊維に溜まった数百年分の「戦いの凝り」を、ピンポイントで撃ち抜く――名付けて『ジゴロ・指圧』。
「――っ、キュ、キュアァァァァン!!」
獄炎竜が、白目を剥いて転倒した。
巨体が地面を叩き、激しい土煙が舞うが、その顔はまさに「天国を見た」と言わんばかりの恍惚とした表情。龍はそのまま、アルトリアの足元に腹を見せ、前脚をバタつかせて「もっと、もっと撫でて!」と催促を始めた。
「……ふむ。いい弾力だ。……次は、お前か? ケルベロス」
「「「ワフッ!!(お願いします!)」」」
三つの首が、アルトリアの指先を奪い合うようにして突き出される。
アルトリアは無意識に、右手の指三本をそれぞれの首の「秘孔」に突き立て、絶妙なリズムで指圧を開始した。
「……お前、真ん中の首が少し使いすぎだぞ。……左は噛み合わせが悪い。……右、お前は少し、寝違えているな?」
アルトリアの「撫でる聖域」が拡大していく。
彼女の周囲には、いつの間にか魔物の大行列が出来上がっていた。
グリフォンが羽を広げて「肩を揉め」と要求し、キマイラが「尻尾の付け根を頼む」と擦り寄ってくる。
まさに、最強の女騎士による「魔界最大のマッサージ・サロン」が開設された瞬間であった。
「アル様ぁぁぁ!! 私、嫉妬で爆発しそうですわぁぁ!!」
「ずるいのです、不浄な獣ども! アル姉様の神聖な指先の脂を、その剛毛で吸い取るなど、死後裁きに遭うべき大罪なのですわ!!」
マリエルとレベッカが、魔物の行列に混ざって「次は私を!」と並び始めるカオス。
シグルドに至っては、「アル様、私の広背筋も……その、龍のように揉んでいただけないでしょうか……!」と、王女のプライドを捨てて這いつくばっていた。
◇
その頃、王都ナルシスタの国境。
黄金色に輝くアルトリアの進撃とは正反対の、不気味な「灰色の軍勢」が迫っていた。
鉄血の女王、エリザベート・フォン・アイアンサイド。
彼女は、かつてカイル王子が「美」を追求していたのに対し、「効率と規律」こそが国家のすべてであると断じる冷徹な統治者だった。
彼女が率いるのは、心を持たない無機質な自動人形軍団『アイアン・レギオン』。
「……報告にあった、あの女騎士が摂政になったという話か。……筋肉だの、美だの。……そんな曖昧なもので国が治まるなど、効率の極みからすれば『バグ』に等しい」
エリザベートは、冷たい瞳で王都の方向を見据えた。
「私が直々に、そのバグを消去してやろう。……無駄な感情を捨て、鋼の論理こそが正義であることを、あの女の肉体に刻み込んでやる」
女王エリザベートの「美を解さない冷徹さ」が、アルトリアの「ジゴロ 力」という最大最強の天敵と激突する日は、刻一刻と近づいていた。
◇
ダンジョン内。
アルトリアが数千体目の魔物のマッサージを終えたその時、平原の真ん中にある「巨大な噴水」から、かつてないほど清らかなハープの音が響き渡った。
『――判定:万象降伏の慈愛。種族を越え、魂のコリを解き明かすその指先! 貴女こそ、この世界のすべての『主』に相応しい! さあ、五人に『美神の指先用オイル(魔力浸透率向上)』と、撫でるたびに絆が深まる『美神のモフモフ・マント』を授けましょう!』
壁が開き、第12層への階段が現れた。
アルトリアは、懐いて離れない獄炎竜の鼻先を最後にもう一度だけ撫で、仲間たちを振り返った。
「……よし。これで、魔物の『急所』はすべて把握した。……マリエル、レベッカ、シェリー、シグルド。……次に行くぞ。……最深部は、もうすぐだ」
「「「「はいっ!! アル様!!(ダンナ!!)」」」」
アルトリアの指先は、今や王宮を支配し、魔物をも虜にし、ついには世界の理さえも書き換えようとしていた。
一方、国外追放されたカイル王子の『バカ日記(の残骸)』は、今や異国の地のゴミ捨て場で、カラスにすら見向きもされずに泥に沈んでいた。
かつて「美」を語り、アルトリアを捨てた男の末路は、誰にも知られることなく、ただ虚しく風に吹かれている。
そして。
アルトリアたちの前に、ついに「美」を否定する最強の敵、鉄血の女王の軍勢が立ち塞がる第17話へと、運命の歯車は加速していく。




