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第8話:【後編】美神の化粧部屋と、王子の呪われた「惚れ薬」

 迫りくる、テカテカと真っ赤に光るカイル王子の唇。

 それは「愛の救済」などではなく、端的に言って「生理的な恐怖」そのものだった。

 アルトリアは、思考よりも先に身体が動いた。


「シッ……!」


 彼女は腰の大剣を抜くことすら贅沢だと判断した。

 銀色に輝く籠手ガントレットを嵌めた左手を、静かに、かつ迅速に差し出す。

 それは、飛来する矢を叩き落とすかのような、完璧な「防御パリィ」の軌道だった。


 チュッ。


 湿った音が、静まり返った『美神の化粧部屋』に空虚に響き渡った。

 王子の『絶対服従のルージュ』を塗った唇が、アルトリアの左腕、その鋼鉄の装甲に直撃したのである。


「……ッ!? な、な……っ!」


 王子は、自分の唇が冷たく硬い金属に触れた瞬間、全身に電流が走るような衝撃を覚えた。

 魔道具『絶対服従のルージュ』の効果は絶対。

 だが、この呪いには致命的な欠陥があった。――「対象が意志を持たない無機物」だった場合、その魔力は接触した本人へと逆流リフレクトするのである。


「……アル、トリア……。いや、違う。この……この、鈍く銀色に輝く、しなやかで強靭なライン……。ああ、なんて……なんて美しいんだ……ッ!」


 王子の瞳が、急激にハート型へと変貌した。

 彼が見つめているのは、アルトリアではない。アルトリアの左腕――に触れている、自分自身の「腕」と「視界」だ。


「殿下? ……やはり毒キノコの類か。レベッカ、解毒を」


「承知いたしましたわ、アル姉様。……ですが、この汚れきった粘膜、魔法で治すよりも『物理的な切除』の方が早い気がするのです!」


 レベッカが殺気まみれの聖印を振りかざそうとしたその時、マリエルが杖を横に振った。


「待ちなさい、筋肉シスター。その汚らわしい唇、私の爆炎で焼き払って消毒して差し上げますわ! アル様の神聖な籠手を汚すなんて、万死、いえ、億死に値しますもの!」


「ひ、ひぎゃぁぁぁっ!? 熱い! だが、この痛みさえも……僕の左腕への愛の試練だというのかい!?」


 マリエルの微小爆発を浴びながら、王子は自分の左腕をうっとりと抱きしめ、頬ずりを始めた。

 もはや言葉も出ないほどに、その光景は「地獄」だった。


「……ダンナ。あいつ、いよいよ本格的に壊れたね」

 シェリーが呆れ果てたように呟く。


 すると、壁からいつものハープが鳴り響いた。


『――判定:鉄壁の貞操。不浄な唇を鋼で拒む、その潔癖な美学! さあ、穢れを払った貴女たちに、この『美神の洗顔フォーム(魔力完全回復)』を授けましょう!』


 壁から射出された高級そうな洗顔料が、王子の後頭部に直撃。

 その衝撃で、王子の意識は「自分の腕への愛」に満たされたまま、強制転送の光に包まれた。


「あ……ああ、待ってくれ、僕の左腕くん! 離れたくない……離れたくないんだぁぁぁ!!」


 王子の情けない叫びが、第七階層に木霊して消えた。


 ◇


 数時間後。王宮の医務室。

 カイル王子は、自分の左腕に赤いリボンを巻き付け、一日中熱烈な愛の詩を語りかけていた。

 その様子を見た侍従たちは、涙を流しながら「……次の王位継承権、第二王子に譲ったほうがいいのでは」と真剣に会議を始めていた。


 王子の『バカ日記』には、この日の狂気がこのように綴られていた。

『○月×日。

 運命の出会いを果たした。

 アルトリアは、僕に「真の愛」を教えるための試練として、僕自身の中に眠る美しさを目覚めさせてくれたのだ。

 鏡を見る必要すらない。僕のこの左腕こそが、世界で最も愛すべき王妃なのだから。

 アルトリア、君の深い愛に感謝するよ。……ところで、右腕くんが少し嫉妬しているようだ。罪な男だ、僕は』


 救いようのない末期症状であった。


 ◇


 一方、ダンジョン第八階層。

 アルトリアたちは、『美神の洗顔フォーム』で肌をツヤツヤにしながら、さらに奥へと進んでいた。


「アル様、さっきのゴミが触れた籠手、私が念入りに洗浄して差し上げますわ!」

「マリエル、甘いのです! 私が聖水で十回ほど煮沸消毒ヒールしなければ、不浄が残りますわ!」


「……お前たち、もういい。籠手ならさっき、ダンジョンが新しいのをくれたからな」


 アルトリアが差し出したのは、さらに輝きを増した『美神の不退転ガントレット』。

 不純なアプローチを物理的に弾き返すという、対王子専用兵器のような代物だった。


「よし、このまま最深部まで一気に行くぞ。……次は、どんな魔物が相手かな?」


 アルトリアの瞳は、未来への期待で輝いていた。

 彼女の「ジゴロ りょく」に絆された乙女たちは、今日も幸せそうに、その後ろ姿を追いかける。

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